あたまテカテカ、さえてピカピカ

note始めてから気の滅入ることしか書いてないし、ここらで僕の大好きなものについてどこまで書けるかやってみようと思う。すなわち、ドラえもんについて。

藤子・F・不二雄先生が1969年から小学館の学年雑誌で連載をスタートした児童向け生活ギャグ・SF漫画作品だ。今更説明するまでもない。誰もが一度は姿を見たことがあり、誰もが一度は声を聴いたことがあり(新旧どちらのものかはさておき)、誰もが一度は漫画やアニメで見ていくつかのひみつ道具を、物語を知っている……まさに国民的作品。

多くの人は子どもの頃にテレビの前で毎週のアニメを楽しみにして、人によっては家族で映画を見に行き、人によっては家にあった原作漫画を読み、人によっては家にある食器や道具類にもドラえもんがいて……そして小学校高学年や中学生になるときには、いつの間にかその存在をことさらに意識しなくなるのではないだろうか。実際、今では大好き大好きと言い続けている僕も、中学生になってすこし周りの目を気にし始めた時期、「中学生になってまでドラえもんなんて」という思いから2,3作は劇場で見るのをやめてしまったことがある。やはり児童向け作品という特性上、どうしても「子どものためのもの」という認識は強い。制作者側も(特に声優交代後は)そうしたPRをすることが多くなったし、実際に映画を劇場に見に行っても、座席には親子連れしかいないなんてこともよくある(そこを毎回付き合ってくれた友人ありがとう)。

では、そんな作品になぜ、まもなく成人(来月始めの方、祝って)の僕がいまだ魅了され続けているのか。いくつか理由を挙げてみた。

①ドラえもん自体のフォルムの愛らしさ
まずはこれに尽きるだろう、ドラえもんはそもそも見た目が可愛いのである。あの丸を主体とした輪郭。主要な身体データがすべて129.3で構成されるあのずんぐりむっくりのボディ。漫画のキャラクターとしてはシンプルすぎるくらい線が少ないけれど、だからこそ見たらすぐそうだとわかるし、デフォルメも簡単にできる。喜怒哀楽もはっきりしているから、日常のどんな場面にも寄り添ってくれるのだ。

ドラえもん

②物語の見事な構成
続いてはこれ。「ドラえもん」はもともと1話完結型の連載作品だったので、ストーリーのフォーマットがきちんと定まっているのが特徴である。これを代わり映えしないと批判する声もあるが、一つの形だけでこれほど多種多様な作品が生み出されたことは賞賛に値するだろう。代表的なのは、
起:のび太が何かひどい目に遭い不満を抱える
承:ドラえもんに泣きついて道具を出してもらい、説明を受ける
転:最初は正しく道具を活用してうっぷんを晴らすが、次第に調子にのって自分勝手な行動を取る
結:自分の行動のつけが自分に返ってきて、再びドラえもんに泣きつく
というテンプレート。ここまで展開が読めているのに、毎話毎話わくわくさせてくれるのは作品の、ひいてはF先生の妙と言うべきだろう。そしてたまにある変わり種の展開にはもっと心を躍らされてしまう。
そして、さらにすごいのが大長編ドラえもんである。これは、1980年から毎年一編ずつコロコロコミック上で数話に分けて連載されていた長編作品で、「のび太の恐竜」「のび太の宇宙開拓史」……と続くように、映画ドラえもんの原作として執筆されていた。大長編ドラえもんのすごさは、そのスケールの大きさや、のび太やジャイアンの変貌ぶりだけではない。その分量にもある。これまで執筆された大長編ドラえもんは、すべてコミックス1冊で完結している。そう、コミックス1冊で。大事なことなので2回言いました。いくら白亜紀の恐竜の世界に出かけようと、パラレルワールドの魔法界で地球を救おうと、鏡の世界で地球を侵略しようとする鉄人兵団と戦争をしようと、全てのことの顛末はコミックス1冊分に収まり、その後は普段の日常に戻ってゆくのである(唯一の例外といえるのが映画版『のび太の夢幻三剣士』であり、ラストシーンでのび太たちの通う学校がRPG世界を思わせる小高い山の上にそびえている。この描写について監督が真意を言及したことはないので、考察の余地はまだあるぞ!)。これ、冷静に考えたら同じような事例をすぐには思いつかない。本編か映画版(ある種のスピンオフ)かという違いはあるが、「ワン○ース」なんてもうすぐ100巻に突入しそうでも冒険が終わっていないし、同じくサ○エさん時空でありながら長編と短編を繰り返す「銀○」も長編はコミックス数巻分を費やしている。F先生の偉大さを感じてしまう……

③読むことで様々なことを学べる
これは僕が実際に読んでいて感じたことでもある(自分だけかと思っていたら、この文章を書いている間に(2/16)テレビ朝日系の番組で「東大生が選ぶ、勉強になると思う漫画」第一位になっていてとってもうれしかった、忖度があったかもだけど)。作中に出てくる知識は、かなり科学的に根拠がとれたものなのである。ひみつ道具自体が未来の科学の予測であり着々と実現に近づいている、というのは有名な話である。代表的なのは「タケコプター」、現在人が乗れるドローンも開発が進んでおり、あと数十年たてば本当に実現するかもしれない。また、「ほんやくコンニャク」も小型翻訳機の登場で一気に夢物語ではなくなってきた。これを食品にするまでにはかなりの壁がありそうではあるが……。そして、「糸なし糸電話」やマイクで話すと四角いものならなんにでもなる「おこのみボックス」は、スマートフォンという形でもはやひみつ道具を遥かに上回り普及している。いつか「どこでもドア」や「タイムマシン」が実現して、ドラえもん自体が本当に自分たちのそばにいてくれると考えたら……未来に向けてワクワクが止まらなくなるだろう。わくわく。
またひみつ道具以外にも、本編には様々な知識がちりばめられている。生物学、地理、科学……ある意味雑学ともいえるような細かい知識まで、F先生は手を抜くことなくきちんと調べ上げて「ドラえもん」を書いている。小学生の僕は「ドラえもん」から得た知識で好奇心を広げていったといっても過言ではないのだ。

④作風の幅広さ
「ドラえもん」は初めにも書いたが「生活ギャグ漫画」である。ドラえもんのひみつ道具がもたらすドタバタ劇が作品の主軸であり、実際連載初期はそうしたテイストの話が多かった。しかし、連載の長期化や読者層の拡大に伴い、単なるギャグだけに留まらない様々な要素が見られるようになった。まずはSF的要素。SFを「すこし・ふしぎ」の略だ、というF先生は、日常の中にある非日常を大切にしていたが、「ガラパ星から来た男」「うつつまくら」のように不思議な読後感の残る作品も書いている。とはいえ、この要素をもっと味わいたいならSF短編集を読むのが早いかもしれない。次に感動要素。これは説明いらずかもしれない。「さようなら、ドラえもん」「のび太の結婚前夜」「ドラえもんに休日を……」挙げればきりがないほどこのタイプの作品は存在する。これだけ集めて映画が2本も作れるほどに。でも、ここにばかり着目していると、これらの作品の面白い部分を見逃すのがミソ。そして、夢の要素。先ほどのひみつ道具の話とかぶるが、F先生の編み出したひみつ道具は僕たち現代人の「こんなこといいな、できたらいいな」のカタマリなので、それがドラえもんたちの手で叶えられていく様を実際に見られるということは思った以上に読んでいて楽しいのだ。よく大長編の冒頭に使われる、「別の時代or別の世界へ行って、僕たちだけの居場所を作ろう!」という展開にこんなにも胸がときめくのはどうしてなのだろうか。

⑤読み込むほどに新たな発見
そろそろ冗長になってきたのでこの辺で最後にしたい。シンプルな作画、ある程度決まったテンプレートにあっても、「ドラえもん」は読むほどに新たな発見をくれる。
これは僕だけの個人的な見解ではなく(そのはず、信じて)、ドラえもんのコミックスを隅から隅まで読み込んでまとめている団体すら存在する。そのうちの一つ、早稲田大学ドラえもん研究会は、毎年学祭で「ドラえもん検定」なる問題を作成している。今年は早稲田大学の学祭がオンライン開催になったおかげで、大阪にいる僕もその問題を入手して解くことができた。初級・中級・上級と分かれていて、初級は「ドラえもんの誕生日はいつ?」、中級は「のび太のママの旧姓を答えよ」といった、コミックスを一度読んでいれば答えられるような問題なのだが、上級がタダ者ではなかった。
「『のび太のアニマル惑星』でジャイアンはゴリ郎と何回間違えられた?」
「最長のひみつ道具の名前を表記ミスなく書け」
などなどウルトラハードクイズの数々。これ満点取れたら化け物だと思う。
(ちなみに僕の結果は初級100/100,中級90/100,上級69/100で全部合格でした、自慢自慢!スネ夫ばりに! 結局このnoteこれが言いたいだけでは??)

ここまで暑苦しく「ドラえもん」を語ってきたが、最も僕を引きつけるのは結局「いつかドラえもんに本当に会えるかもしれない」という気持ちが心のどこかに残っているからなのかもしれない。彼が生まれるまで、あと91年。



余談:ドラえもん関連の大学サークルは実はもう一つ存在する。それが「京都大学藤子F不二雄同好会」。京大に行けてたら(無理)入ってたろうに……他大でも入れたりするんかな

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