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「せっかく」の魔力

今まで生きてきてなんとなくわかったことがある。自分は「せっかく」という言葉、もっと具体的に言うなら「今しかない」という響きに弱いのだということ。「限りあるもの」「時間限定」「ここでしか」などなど、なんと言い換えてもいい、あるタイミングを逃すともう二度と出会えないかもしれない……といったものにどうしようもなく惹かれてしまうのだ。スーパーなんてもはや魔境、limitedの嵐である(主婦の思考)。

「せっかく」の種は、僕たちの周りの至るところに転がっている。せっかく遠出してきたし、いつもは入らないけどあの店に入ってみよう、とか。せっかく調子が上がってきたところだから、いつもなら見て見ぬふりをしているあの応用問題もやってみようかな、とか。せっかく何もなく終われたんだから、このまま何もせずに帰ってしまおう、とか。

そう、「せっかく」って、ポジティブばかりのようで実はそんなことは全くない。今までの経験や習慣に甘えて、何となく乗り切れてしまったからそこから出る機会を失ってしまう人も、ちょっと手を伸ばして新しい機会を掴み取っていく人も、同じ言葉で自分の行動を語るのだ。
「せっかくアドバイスしてあげたのに」なって恩着せがましい言葉を受けたことがある人も少なくはないだろう。言葉の持つ力は、時として無責任で痛みを伴う。

こんなとき、ひとは辞書という道具に縋る。そこになら真実がある。そう無意識に思うから。

せっ‐かく【折角】
読み方:せっかく
【一】[副]
1 いろいろの困難を排して事をするさま。無理をして。苦労して。わざわざ。
2 (「折角の」の形で、体言に続けて)滅多に得られない、恵まれた状況を大切に思う気持ちを表す。
3 全力を傾けて事をするさま。つとめて。せいぜい。手紙文などで用いる。
【二】[名]
1 《朱雲が五鹿に住む充宗と易を論じて勝ち、時の人が朱雲よく鹿の角を折ると評したという「漢書」朱雲伝の故事から》骨を折ること。力を尽くすこと。
2 困難や難儀。
「難儀—に遭ふ」〈日葡〉
[用法] せっかく・わざわざ——「せっかく(わざわざ)おいでいただいたのに、留守をして申し訳ありません」のように相通じて用いられる。◇「せっかく」には「せっかくの好意を無駄にする」「せっかくだが断る」のような名詞的用法もある。また、ある行為が行われたのに期待した結果の得られないことを惜しむ気持ちを表して、「せっかく努力したのに不合格だった」「せっかく用意したのだから、食べていけばよいのに」などと使う。ほかに「せっかくご努力願いたい」のような、やや古い言い方がある。◇「わざわざ」は「わざわざ迎えに行く」「わざわざ持って来る」など、ついでではなく、そのことだけのために動作を行う意を表す。

出典:Weblio国語辞典(例文は省く)

【二】から由来を考えると、しんどいことをすごく努力して結果を出すこと、出そうと頑張ること、みたいなことですかね。論戦で勝った相手の住む地名が「五鹿」だからって「五鹿の相手に勝つ」→「鹿には角がある」→「勝つ=角を折る」になるの乱暴すぎないか? 故事成語なんてだいたいそんなもんだけど。
なんとなく「タイミング」とか「機会」の親戚みたいなイメージがあったからこの意味合いは少し驚いたかも。こういう驚きに出会えるからみんなも辞書を引きましょう。あくまで「有難くも」とか「無理をしてまで」みたいな心持ちの話なんだなあ。

でも、やっぱり僕にとって「せっかく」という言葉が持つのは時間的な意味合いが大きい。「ここでしなければ一生後悔するかもしれない……!」みたいな思い込みに晒されやすいのだ。優柔不断なひとは共感してくれると信じたい。
昔から本当に何かを決めることが苦手だった。志望校を決めたり、20万円をどのカメラに使うかといった大きなことから、マクドナルドで頼むセットのドリンクを一つに絞ったり、「夕食の献立、何が食べたい?」という問いかけに答えたりすることまで(食いもんの話しかしてない)。それは結局、何かを決めるときに捨ててしまった「もう一つの選択肢を選んだ自分」をどうしても意識してしまうからなんだろう。だから自分は未だに1年生で実家に帰らずサークルも変えず踏ん張っていた自分を思い、2年生で授業より遊びや部活を取った自分を思い、3年生で就活に命を賭けていた自分を思うのだ。「存在しない自分」の残滓に今の自分は生かされている。

ここまでの生き方に後悔しかないといったら、これまで知り合った人達に袋だたきにされてしまう。それはもうボコボコに。それだけ得がたい経験をたくさんしてきた。何物にも代えがたい縁にも恵まれた。「せっかく」というロイター板で弾みをつけて飛び込んだご褒美だ。そこにマットも何も敷かれてなかったけど。覚えてる人いるかなあ、ロイター板。跳び箱跳ぶ前に弾みをつけるヤツね。ただその下に、選ばなかった可能性の芽や、選べなくて全部やろうとしたときの心の平穏が隠されていて、僕たちは弾みをつける度にそうしたものたちを踏みつけている。かたづけのときにどかしてみたら、どうなっているだろうか。選ぶ前に思い描いていた思いは、どうなっているだろうか。

「選ばなかった」「選んでいたらああなっていた」という思いは、そのモデルケースが近くにいればいるほどより生々しく自分の中に巣くう。だからこそ浪人・仮面浪人する人はいなくならないし、部活・サークル・バイトを辞めてもっと”自分に合ったところ”を探す人もいるし、授業について行けなくなって突然居なくなる人は毎年数人いるし、役者同士のオーディションは毎回己のプライドを賭けた戦いになり、いざその作品が放映されたとき「見る」「見ない」の選択肢を迫られる。

でもそれだけ、「今しかない!」という言葉の勢いや魔力は強いものだ。それを実感できただけ、自分の進み方には意味があったのだと思うことにする。気づいたときに「昔も今も何もしてない!」にならないように。高校生辺りでなんとなくそれに気づけただけマシだったかな。自分が思いつく一番の「せっかく」の無駄遣いは、小学生の時、仲の良い親戚に誘われたスキーを断わったこと。あどけなく喜べるうちに行っておくべきだった。結局中学校の自然教室で体験して以来自分のウインタースポーツ歴は止まっている。当時小柄だった自分だからこそ感じられた風の勢いや、雪景色のまぶしさはあったんだろうな。今行っても「はしゃぐ大学生のノリ」というパターン化された存在で終わってしまう(普通に行きたいけど)。でもそうした想像を創造できるのがことばの力でもあり、ずっと信じてきたことでもある。

自分という船を流す人生という川は、ある程度自分で分かれ道を決めたり川の流れを変えたりすることが出来る。それは自分に与えられた権利であり力。でもそれを使うか否かは自分次第で、何も使わずにただ流れのままに任せてみるのも一興。目の前の大岩に抗うためにどうにかして川岸を味方につけようとするのも一興。変わらないのは、自分という「船」の大きさと堅さを分かっていなければ、どんなに完璧なコースを作っても意味がないということと、突然の異常気象で川の流れは容易に変わりうるということ。

……上手い喩えなんか、これ? 結局何の話がしたかったんだろうか。時節にかこつけて書きたいこともあるので、続きはまた今度。



PS.数ヶ月前にタイトルだけ考えた下書きを寝かせて、辞書で調べて以降放置して、ようやく完成させるとこういう文章になります。よい子は原稿を発酵させてはいけません。

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