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『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を考察することについて

いのこり
https://twitter.com/ImCallinx2You


(以下、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を劇スと表記する)

0.概要

 本論文では「劇スを考察すること」について考察する。すなわち劇スそのものではなく「劇スを考察する我々の脳」に対して興味を向ける。そもそも考察とは自分と対象があって初めてなされる行為であり、考察のうち半分は「自分」が占めるといってよい。したがって「劇スの考察」においても劇スそのものと同じくらいに自分と向き合うことが重要だと考える。といっても筆者が自分語りをするわけではなく、読者一般にも当てはまるよう「人間の脳」レベルから解説・考察をおこなう。なお筆者のバックグラウンドの都合により心理学的な説明よりも人工知能・情報科学についての解説に重きを置く。

 ことわっておくと、筆者は誰にも負けないほど劇スを愛していると自認しているし、本論文を大真面目に書いている。「劇ス考察の考察」は、劇ス考察合同が刊行されるにあたり避けて通れない問題だと考えたからである。なぜ私たちは劇スに惹かれ、劇スを考察するのか。劇スの考察の先には何があるのか。考察に意義はあるのか。答えはないかもしれない。それでも問い続けることが重要だと筆者は考える。読者にとって本論文が、劇スをさらに深く愛するきっかけとなれば幸いである。

1.導入

 劇スが公開されて1年が経つ(2022年8月現在(*1))。筆者はその間に幾度となく劇場に足を運び、舞台少女たちのキラめきに涙し、そして考察を行ってきた。SNSでは感想を垂れ流し、自説の是非を問うてきた。さらに他の観客の感想に共感し、考察には影響を受け、新たな着眼点を得てきた。そして今回、劇ス考察合同という最高の舞台を頂いた。

 筆者自身は考察合同のお話を頂いたときから意気揚々とする反面、何を考察しようかと非常に不安であった。その理由は2つある。1つ目は「これまで多くのテーマを考察しすぎて1本に選べないから」だ(*2)。2つ目は「昨年6月の筆者と今の筆者は別物であるから」だ。劇スを経験して価値観が変わり、また今も変わり続けている(*3)。過去に行った考察を改めて文章にしようものなら、今の価値観とずれが生じて理論は一貫しえないだろう。そのことが非常にもどかしかった。

 上記のようにもがき苦しむうち、「そもそも劇スを考察することとは何なのか」を考察するに至った。筆者が劇スを通して何を感じ・学び・考えてきたか、そしてそれらはどのように変遷してきたか、脳内で「劇ス考察」はどのような形状で存在するのか。「劇スを知り己を知れば考察危うからず」といったところだ。「劇スの考察の考察」は重要な観点である。

 本論文はまず、「なぜ私たちは考察するのか」を論ずる。次に考察の主体である「自身(脳)」をより知るため、情報科学分野からキーポイントとなる概念と成果を紹介する。そして最後に深層学習の観点から「考察」を解釈し、「考察」することによって受ける影響を議論する。


*1 一番提出が遅くなってしまった。8月12日であった。参加者ならびに関係者各位に深く深く謝罪するとともに、見捨てないでくれていた皆様に多大な感謝を表する。

*2 あまりにも選べないので、主催のさぼてんぐさんに「2本書くかもしれないです」と相談するほどであった。さぼてんぐさんご自身は数多くの考察を1冊の「便覧」として個人的に出版なされている。心底尊敬するばかりである。

*3 主催の一員として他の論文を拝読したことも、執筆中に価値観の変容を再び推進させている。

2.なぜ劇スを考察してしまうのか

2.1.考察の意義

“Le savant n'étudie pas la nature parce que cela est utile ; il l'étudie parce qu'il y prend plaisir et il y prend plaisir parce qu'elle est belle. Si la nature n'était pas belle, elle ne vaudrait pas la peine d'être connue, la vie ne vaudrait pas la peine d'être vécue.”(*4)

(科学者は役に立つから自然を研究するのではない。楽しいから研究するのであり、自然が美しいから楽しいのだ。自然が美しくなければそれに知る価値はないし、人生に生きる意味はないだろう。)

Henri Poincaré, “Science et méthode” , Edition définitive, 190?, E.Flammarion, p.16

 上記は数学者アンリ・ポアンカレの引用である。これを含めて、本節では須藤靖『解析力学・量子論』(*5)1章1節「科学の意義」をオマージュしながら、劇スを考察する意義を考える。

 私たちはなぜ考察をしてきたのか。ある人はこういうかもしれない、「考察に意味などない、やる必要がない。劇スをそのままに受け取り、涙し、ときに励まされ、楽しめばよいだけだ」と。その立場ももっともである。劇スを考察する意義などないかもしれないし、あるいは無数にあるのかもしれない。それでも考察の意義を考えていく上で、読者と共有したいポイントが2つある。

  1. 劇スは面白い。考察している私たちも「胸を刺す衝撃を浴びてしまった」(*6)のだ。その点において、観客に考察をするしないの違いはない。ただ心の行き先が考察に向かっただけだ。

  2. 考察は楽しい。目的などなくても考察をする。もしかすると私たちは「製作者の意図の把握」という(崇高あるいは邪悪な)目的を持って活動していると思われているかもしれないが、多くの場合はそうでないだろう。ここでは考察が本質的に楽しいものであることをご理解いただきたい。

 考察が楽しいという気持ちは、同じ考察者でなければ共感しにくいところだろう。このように述べると、排他的な姿勢にも思われるかもしれない。しかし、これは自然を愛する登山家と自然科学者の関係に似ていると筆者は考える。世の中には部屋にこもって計算機と向き合う天文学者もいる。しかし彼らは登山家同様に、自然に深く感嘆してそこにいるのだ。須藤は科学の意義を問いかけるときに「世の中の不思議さを認識する」重要性と「科学は楽しい」ことを強調した。これらを踏まえたのが、上述の「劇スは面白い」「考察は楽しい」2つのポイントである。考察は劇スにとって邪魔なものでも、無駄な取り組みでもない。私たちなりの楽しみ方であり、劇スへの愛の表現だ。冒頭で引用したポアンカレが語る「科学と自然の関係」が、筆者には「考察と劇スの関係」に思えてならない。まさに私たちは「劇ス」という美しさを目撃した科学者だ。楽しいから劇スを考察しているのであり、「劇スが美しい」から楽しいのだ。ポアンカレ同様、筆者は「スタァライトがなければ、劇スが美しくなければ、人生に生きる意味はないだろう」と主張する。「(危険だから)あなたたちは、美しい」というキリンの言葉もまたポアンカレの言に類似する(*7)。

 考察を考察するにあたって、「劇スを美しいと感じた私たち」について考えることが重要となる。では、私たちはどのようにして「美しさ」を感じるのか。次節では美しさの感受構造を解説する。


*5 須藤靖『解析力学・量子論』、東京大学出版会、2008、pp.1-2

*6 スタァライト九九組『星のダイアローグ』、2018、作詞:中村彼方

*7 危険なものに美しさを感じることは通常ありえないが、スタァライトを履修した者には理解できるかもしれない。なぜ私たちがそうなってしまったかの理解が本論文の目的の1つである。

2.2.美しさとは

 受け入れがたい事実だが、美しさは対象に内在するのではなく、感覚神経の発火パターンにある。しかしそこに注目するからこそ「自分」と向き合えるのであり、本論文においては非常に重要な観点だと筆者は考える。以下では石津(*8)のレビュー記事を参考に、美しさの脳科学である「神経美学」を概説する。

 神経美学とは「美学的体験の脳機能や,芸術的創造性に関係する脳の仕組みを研究する認知神経科学の一分野」だ。石津によると、そもそも「美しさ」とは心の状態であり、対象が持つ属性ではない。美しいあるいは醜いと感じる対象が人によって異なることからも明らかである。このことを前提として、「美しい」という感覚に共通した脳機能に迫るのが神経美学である。

 私たちは美しさを体験するとき、脳の特定部位(内側眼窩前頭皮質)が反応する。それは絵画(視覚)・音楽(聴覚)といった異なる知覚体系からくる美、さらに道徳的行為といった「視えない美」の感覚(*9)であっても同じ部位の反応だ。つまり劇ス冒頭のオーケストラの一音目も、舞台少女の“危険”さも、すべて同じ部位を介して美しいと感じたのだ。

 同じ部位が反応しているにもかかわらず、なぜ人それぞれ美しいと感じる対象が異なるのか。それは異なる経験・体験をしてきて、人それぞれの美感覚が育ったためだと考えられる。反対に、なぜ「美しい」対象は似通うのか。これは難解な問いである。先天的要因、文化的要因などが複雑に絡むことが予想される。先天的に和音は美しいし、文化的に西洋音楽を心地よく感じる、という具合である。初めて聴いた民族音楽を心から美しいと感じるのは容易でない。感じられるとすれば、様々なジャンルの音楽を聴いてきた結果として汎化された音楽的美感覚が養われているためだと、後に述べる情報科学的観点から予想できる。また、音楽理論のテクニックでは「少し“はずす”ことで美しさを演出できる」と聞いたことがある。そのような解説があると期待して12-B.さんや耶馬野桜さん、遺失物届さんに譲る。

 とどのつまり、劇スが美しいと感じる理由を、本論文の立場では「わからない。先天的なものか、食ってきたものが同じだからか、あるいは他の要因かもしれない」としか答えられない。しかしながら私たちが(少なくとも筆者が)劇スを「美しい」と感じたことは、脳の機能がわからなくても揺るがない事実である。


*8 石津智大『美の認知神経科学,神経美学のこれまで』、心理学ワールド、2018、81号、pp.17-20

https://psych.or.jp/wp-content/uploads/2018/04/81-17-20.pdf

*9 石津では味覚・嗅覚・触覚への言及はないが、知覚的美に加え意識的美も同じ脳部位が関与することは非常に興味深い。まさに仏教のいう六根(眼耳鼻舌身意)・六境(色声香味触法)が一堂に会する。

3.考察を考察する下準備

 考察を考察する下準備としていくつかの重要な情報科学的知見を述べる。ここで重点的に解説するニューラルネットワークとは、脳の構造を部分的に模倣して構築された数理モデルである。しかしそれは脳を完全に説明しうるものではない。情報科学的なアプローチに利があるとすれば、脳の理解ではなく(脳の構造を応用した)機械学習手法の向上という目標を持った結果、飛躍的な進歩を遂げ、相補的に脳の理解が深まっていることだ。本章の内容は情報科学から脳を類推するものだと思ってご覧いただきたい。

3.1.ニューラルネットワークと機械学習

 ニューラルネットワークは数理モデルの一種であり、生物の脳神経単位であるニューロンにその名を由来する。生物の脳はニューロンがつながったネットワークを構成しており、ニューラルネットワークはこのネットワーク構造をモデル化したものである。

 1個1個のニューロンの働きは単純だ。他のニューロンから出力を受け取り、その合計がある値を超えると自分も他のニューロンに伝達する。図1はニューロン1個をモデル化したものである。図中の楕円がニューロンを表す。xが入力を、yが出力を、wが入力の増幅率を、bがしきい値を表す。σは活性化関数と呼ばれ、ニューロンの伝達特性を表現する(*10)。この単純なニューロンモデルを何層も重ねることで、様々な認識が可能となる。

図1.ニューロンモデルの模式図(以下、図はすべて筆者が作成)

 例として、トマトの画像を見て「トマト」だと認識するニューラルネットを考えよう。私たちは生まれながらにトマトを知っていたわけではない。トマトを見せられ「これがトマトだよ」と教わり学んできたからそう判断できる。ニューラルネットも同じで、トマトを教えて学ばせる必要がある。これを学習(機械学習)という。ニューラルネットにおいて学習とは、モデルパラメータ(wとbの値)を、適切な認識ができるように(トマトの画像と判断を結びつけるように)調整していくことだ。トマト認識のプロセスは、画像中の物体の特徴(赤い、丸い、星型のヘタがついているなど)の抽出、分析、最終的なトマトの判断などを含む。これらのタスクのなかの小さなセグメントを1個1個のニューロンが担い、情報を伝達している。その伝達率を変えていくことが学習だとイメージしてほしい(*11)。

 機械学習には大きく分けて3種類がありそれぞれ「教師あり学習」「教師なし学習」「強化学習」と呼ばれている。ここでは手書き数字画像の分類を例に、教師あり学習を説明する。

 教師あり学習は「入力」と「正解」を必要とする。教師あり学習という名前の由来は正解データを用いることにある。手書きの数字画像の分類では、画像が入力、数字が正解にあたる。学習手順は以下である。まず入力画像をモデルに与えて0〜9に分類させる。続いて正解の数字と照らし合わせることで、分類結果の「間違い度」を計算する(この間違い度は損失関数あるいはlossと呼ばれる)。間違い度は「誤答の多さ」「正答の自信のなさ」といった情報を含んでいる。この間違い度が小さくなるようにモデルを逐次更新することで、正解率の高いモデルパラメータが学習される(*12)。これによって、手書きの数字が0〜9のどの数字なのかをより正確に(低い間違い度で)分類できるようになる。

 教師あり学習の様式は脳でもみられる。単純な分類問題以外にも感覚野と運動野の結合などである。初めて自転車に乗ったとき、最初はぎくしゃくとした動きで思うように乗れなかったはずだ。そのうち自転車の転倒や漕ぎにくさといった「間違い」を経験し、それを修正するようにして上手に乗れるようになっていく。

 教師なし学習は、正解がないなかでデータの分け方を学ぶ。データの統計的な分布からパターンを読み取り、カテゴリごとの特徴や情報の抜き出し方を学習する。たとえば、動物の画像をたくさん見せて、動物の種類を教えずに分類させるタスクが考えられる。教師なし学習において減らすべき「間違い度」とは、分類の不自然さだといえる。教師なし学習はビッグデータから特徴や類似度を抽出することができるため、ビジネスへの応用例が多い。社会実装例としてはECサイトのレコメンドシステム(*13)が挙げられる。

 強化学習では、モデルがとった行動に対して「報酬」が与えられる。強化学習のゴールは、報酬を最大化するような最善の行動をモデルがとるようになることである。たとえばDeepMindが開発した囲碁のAI AlphaZero(*14)は、定跡をまったく入力せず、囲碁のルールだけを学んだあと自己対戦によって打ち回しを学習し、圧倒的な強さを見せた。この過程では勝ち負けという「報酬」に基づいた強化学習が行われている。強化学習における「間違い度」は、報酬の逆(マイナス1倍)だと考えてよい。

 思考を司る大脳皮質においては、おもに教師なし+強化学習のような様式で学習がみられる。楽曲を聴いたときにジャンル分類ができるのはたくさんの音楽を聴いてきて教師なし学習しているからであり、仕事を頑張れるのは金曜日に飲むビールの旨さという報酬をもとに強化学習しているからである。

 設計されたネットワーク構造そのものだけでなく学習したパラメータを、あるいはパラメータのみを指して「モデル(模型)」と呼ぶことがある。これは「アイデンティティー」が年齢身長体重を持った器としての自分を指すのではなく、自分が何を経験し考え話す存在であるかを意味することと似ている。筆者はこの業界用語が非常に示唆的であると感じている。


*10 σは非線形関数であり、非常に単純なものであればステップ関数(01)が用いられる。ステップ関数はいたるところで傾き0のため数理的に扱いにくく、人工知能・パターン認識研究では後述の学習過程での利便性のため主にシグモイド、ReLU、tanhなど可微分関数が用いられる。非線形な活性化関数と多層性がニューラルネットワークの豊かな表現力をつくっている。

*11 トマトのデータセットが本当にあったとは驚きである。いつかこれを使って学習してみたい。Laboro.AI「トマト画像物体検出データセット『Laboro Tomato』を公開」、2020年7月15日、https://laboro.ai/activity/column/engineer/laboro-tomato/

*12 lossの偏微分に基づいたパラメータ更新は数理最適化の手法である。脳のニューロンにおいては出力の頻度に応じて強化・減衰する学習様式(ヘブ則)が提唱されている。

*13 某大手通販サイトのレコメンドシステムはもう少し賢くなってほしい。枕を買ってすぐに新しい枕は要らないし、2年前の九九組の円盤はとっくに所持している。

*14 Silver et al., "Mastering Chess and Shogi by Self-Play with a General Reinforcement Learning Algorithm", 2017. https://arxiv.org/abs/1712.01815

3.2.ディープラーニングとattention

 とくに層が深く重なったニューラルネットワークを用いて実施する機械学習を、ディープラーニングあるいは深層学習という。ディープラーニングは、モデルの階層構造に合わせて対象の細部から全体まで様々な粒度の特徴を学習する。2012年、画像認識コンテストILSVRCにおいてディープラーニング手法を用いたチームが圧倒的な認識精度で優勝(*15)して以来、その研究は活発になっており、画像認識に限らず画像生成・自然言語処理・音声処理・自動制御・ゲーム対戦など幅広い分野でその成果を挙げている。ここ10年のうちに様々な手法やモデルが提唱されてきたが、「考察を考察」するにあたって紹介せねばならない技術がattention(*16)である。

 attentionとはその名のとおり「注意」である。バナナマフィンのレシピを調べる例で attentionを説明しよう。レシピを探したいとき、私たちは分厚いレシピブックの頭から1文字1文字探してバナナマフィンの記述を探すことはしない。その代わりに最初に目次を引いてバナナマフィンの箇所を見出し、該当するページを開く。これがattentionの基本原理である。attentionの手続きにより、膨大な情報の蓄積があっても少ない労力で重要な情報だけを抜き出すことができる。騒がしい環境の中で自分に関係する声に集中できる心理学的効果「カクテルパーティー効果」は選択的注意によるものだ。従来のモデルでは取り扱いが難しかったこの効果も、attention機構を用いた解釈・モデル化が可能である(*17)。劇スでいえば、地下鉄の車内でななが呟く「スタァライト」は初めのうちは聴き取れなかったが、twitterで見かけて注意が向くようになったことで、それ以来「スタァライト」しか聞こえなくなってしまった人も多いに違いない。

 注意というキーワードについて作り手の観点から語ると、作品は一般に「観ている人間の目線を誘導する」ように作られる。とくに劇スは顕著である。作品が目線を誘導するならば、前章で述べた「美しいと感じる対象が似通う」理由も、作り手の意図どおりになったのだと説明できる。実際に演出論では、「観客の目は、動くものに向けられる」(*18)といった単純なメカニズムが語られる。本論文は、「万人に似通った見方が存在すること」をそもそも興味深いことだと捉える。


*15 Krizhevsky et al., "ImageNet Classification with Deep Convolutional Neural Networks", 2012, NIPS Proceedings. https://papers.nips.cc/paper/2012/hash/c399862d3b9d6b76c8436e924a68c45b-Abstract.html

 *16 Bahdanau et al., "Neural Machine Translation by Jointly Learning to Align and Translate", 2014. https://arxiv.org/abs/1409.0473

*17 e.g., Yousefi and Hansen, "Real-time Speaker counting in a cocktail partyscenario using Attention-guided Convolutional Neural Network", 2021. https://arxiv.org/abs/2111.00316

そもそも(数理モデルが表すような)attention機構が脳内に存在するとは主張していないことに気をつけたい。ただの機械学習アルゴリズムにすぎず、その動作様式をattentionと比喩したのだ。このようにディープラーニングの分野では、脳の構造を模倣することが第一義と限らず、数理的に優れた方法の探索が主目的である。

*18 フランク・ハウザー、ラッセル・ライシ著、シカ・マッケンジー訳『演出についての覚え書き 舞台に生命を吹き込むために』フィルムアート社、2011年、p.140。三兎群青さんに教えていただいた。

3.3.二階建てモデル

 情報科学の最先端では、なかばSFのような、人間のように学習し理解する「汎用人工知能」が研究されている。人工知能研究者の松尾豊らは「想像」が知能において重要だと考え、

人工知能に想像力を持たせる方法を考察している。

 二階建てモデルとは、松尾が提唱した「意味理解と想像」ができる人工知能である(*19)。このモデルは神経科学に基づいた「知覚運動系」と「記号系」の二層構造からなる。この二層構造を「動物OSの上に言語アプリを載せている」と松尾は表現する。

 知覚運動系は運動と知覚を司り、これらを密接に相互作用させて外界と関わる働きをもつ。知覚運動系内には外界をシミュレートする環境があり、そこで想像(知覚の予測)を実行している。例えば私たちは、階段の一段一段をしっかり見て昇り降りしているわけではない。その代わりに脳内で次の一段の位置を予測している。実際にはわざわざ見ずに、予測の位置を基準にして次の一歩を踏み出している。さらに伏見稲荷の「おもかる石」の例を挙げよう。石に願い事をし、持ち上げてみる。その石が軽く感じられれば願い事は叶い、重ければ叶いがたいとされる(*20)。持つ前にあえて石の重さ(腕が知覚すべき負荷)を予測し、そのつもりの力加減で持ち上げるから、実際の重さとの差が際立って感じられる。ここでは明確な意思をもって予測しているが、運動・知覚が予測を基準にしているよい例である。

 記号系の説明に移る。松尾が言語アプリと喩えたように、記号系は言葉をベースにして意味や概念といった記号を操作し、認知や判断といった高次の機能を実現する。記号系も同じように、知覚運動系にある外界シミュレータを駆動して発話の予測を行っている。階段の場合と同じように「一言一句聞き漏らさずともコミュニケーションがとれる」のは、発話の予測ができているからだ。「知覚運動系」と「記号系」の2層は、互いにattentionを当て合ってうまく学習を進めていると考えられるが、松尾が重視するのは人間の脳は「記号系が知覚運動系を駆動する」という仮説だ。このメカニズムで起こるのは、例えば「大きなリンゴの木がありました」という文を聞いて実際には存在しないリンゴの木を思い浮かべるようなことだ。動物にはない「記号系が知覚運動系を駆動する」システムを人間が持つに至った理由を、松尾は進化史に基づいて説明を試み、動物の脳との違いは「発話予測を嬉しいと思うかどうか」(発話予測を報酬に組み込んだ強化学習があるかどうか)だと推測している。人間が話の展開に興味を持つのは、発話予測の嬉しさが関連していると考えられる。それゆえ「『物語』にこれだけ人間が引き込まれる」のだという松尾の言及は、劇スを考察する私たちにとって非常に興味深いものだ(*21)。


*19 松尾豊『意味理解と想像』、2018年度「深層学習の先にあるもの–記号推論との融合を目指して(2)」、2019年3月5日 https://todai.tv/contents-list/2018FY/beyond_deep_learning/01

二階建てモデルは正式な名称ではない。というのもこれは構想レベルの話題であるからだ。松尾はもっぱらその部品となる世界モデル(=知覚運動系モデル)の研究に取り組んでいる。

*20 伏見稲荷大社、大社マップ、奧社拝奉所、http://inari.jp/trip/map01/

*21 さらに面白いのが、この二階建てモデルによって心理学との関連が説明される点だ。松尾は先述の『意味理解と想像』の講演で「記号系のシステムが動いている状態を意識があるという」と述べている。正反対の存在が哲学的ゾンビである(記号系は機能しないが知覚運動系は機能するので、人間のように振る舞う)。さらに記号系は自分という概念も操作できるのでメタ認知できる。

3.4.本章のまとめ

 考察を考察する準備として、情報科学の考え方と道具を紹介してきた。ニューラルネットワークは脳を模した数理モデルである。データをもとに自己改善するアルゴリズムである機械学習は3種類に分けられ、それぞれ異なった「間違い度」を下げるように成長する。attentionは「注意」することで効率的に重要な情報を見つける。記号系と知覚運動系が重なった二階建てモデルは人間の持つ機能「発話予測」を重視し、人工知能による意味理解と想像の実現が期待されている。

4.考察の考察

 本章「考察の考察」は非常に主観性の高い議論を行う。それは筆者の考える「考察」が議論の物差しとなっていることと、客観的で定量的な「考察」の先行研究が乏しいことが主な原因である。したがって筆者の考える「考察」は、読者にとっての「考察」と解釈違いを起こすかもしれない。しかしながら、どんな考察も「自分」から生み出されるものであるから、一定量の主観性を必ず含むものである。本章はそれら「考察の主観性」「客観性」「解釈違い」の問題についても取り上げる。また、「他者にとって理解しやすい考察論文とは何か」を考察し、本章でその体現を試みた。

 ここから「考察の考察」をはじめる。上でも述べたように、脳科学・情報科学の観点から考察を考察した文献は乏しい。厳密には、筆者が探した限りでは見つからなかった。その一因として考えられるのは、脳科学研究が途上にあって、思考や意識といった大きな概念の理解が先決となっていることだ。そもそも考察は手段であって、科学の対象になることが少ない。そのことはWikipedia日本語版に「考察」のページが存在しないことからも窺える。

 しかしながら、考察の要素である知覚や思考といった行為はこれまでに脳科学・情報科学の観点から研究されている。哲学・心理学からも研究があることはいうまでもない。本章ではこれらをパズルのように組み合わせて考察の考察を試みる。その上で最も注目するのが情報科学の側面であり、とくに上記で解説した学習、attention、二階建てモデルを用いて独自研究を展開する。

 本章ではまず考察を簡単に定義する。次に、考察に必要な3つの行為「思考」「鑑賞」「執筆」のそれぞれに注目して情報科学的に解釈する。最後にそれらの成分を総合して「考察」が持つ効果を概括する。

4.1.考察の定義

 議論を進める前に「考察」を定義する。自然言語における「考察」のニュアンスは少なくとも2つある:1つは脳の内部状態(思考)を、もう1つは脳からの出力(著作・発話)を指す。それぞれについて筆者は以下のように定義した。

①対象について論理的・情熱的に思考したときの脳の内部状態

②対象について論理的・情熱的に思考した結果を出力したもの

「論理的・情熱的」というキーワードは、次の節で解説する。

4.2.思考の考察

 思考とは脳における情報処理である。思考の要素には分析・対比・抽象・想像などの類型が考えられる。二階建てモデルの議論に基づいて解釈すると、思考の特徴は記号操作だといえる。私たちは視聴覚から取得した対象(劇ス)の情報を分析し、記号や概念に落とし込む。そして他作品や倫理観と対比し、劇スの特徴が明らかにされる。そして明らかとなった特徴は精査され、より抽象的な層でも操作できるようになる。

 考察の条件である「論理的・情熱的な思考」について解説しよう。「論理的」とは物理的整合性のことだと筆者は考える。二階建てモデルの節で述べたとおり、人間は脳内に外界シミュレータを持つ。外界シミュレータは知覚と運動を通して学習した「外界の法則性」に基づいて予測を提供する。この法則性には他者の発話予測も含まれ、言葉や概念もシミュレーションすることができる。言葉と言葉が論理的に繋がっていないとき、シミュレータ上では2つの言葉が不連続になって存在しているが、論理が繋がっていればシミュレーションに従って言葉と言葉がうまく結ばれると考える。思考をシミュレーションにかけてみて、無理なく繋がれば「論理的だ」と私たちは判断する。いわば論理性とはシミュレータが司る運動方程式である。それに対して「情熱的」とは想像/創造力である。シミュレータ上では、どんな突拍子のないアイデアも操作することができる。すると考察とは、脳内のシミュレータで「運動方程式」に従って「アイデア」が描いた対象概念の軌道といえよう。論理的であることを「筋道の通った」、独創的であることを「枠にとらわれない」と表現することは、「考察は脳内シミュレータに描く軌道だ」という解釈の助けになっている。「論理的」と「情熱的」は二項対立ではなく、考察がもつ相補的な要素であることを今一度強調する。

 冒頭の考察の意義を考える節で「考察は楽しいものだ」と述べた。これに共感してくださる読者は多いことだろう。それは多くの場合、自分の中で筋道の通った解釈ができたときの気持ち良さや、自分にしかないアイデアが浮かんだ嬉しさにあるだろう。この快楽の源が「論理的・情熱的な思考」だと筆者は考える。

4.3.鑑賞の考察

 鑑賞について考察する。前章のattentionの解説で述べたとおり、私たちは劇スの映像と音声をそのまま受け取ってすべて処理しているとは考えにくい。attentionを当てて情報を取捨選択し、その結果として心を動かされ、思考し、次の瞬間の注意の方向を決めている。さらに劇スが生データで脳に流し込まれるのではなく、そのときの環境や感情といったバイアスがかかっており、鑑賞のたびに入力は少しずつ異なるはずだ。筆者においてもまひるの「ねえ」を数えた上映回はあったし、感想をノートに書き取りながら鑑賞した回、眠くて思考がまとまらない回もあった。雑談だが、感想をノートに書き取りながら鑑賞すると思考が整理されて一味違う感覚を得られる。

 思考が鑑賞を司るという考察は美学においても語られている。美学者の佐々木健一は、正しい観賞の態度として「美的な」態度を紹介している(*22)。美的な、とは「行動と結びつかない、ひたすら観賞的な」ものと説明されており、「静物画のなかのりんごを食欲の対象とせず」にいることが例に挙げられる。これには再び、キリンの言「危険だからあなたたちは、美しい」が想起される。行動的欲求に従えば、危険なものは忌避したく思うものだ。しかしキリンはひたすら観賞的に舞台と向き合い、その結果として危険な舞台少女に美しさを感じている。情報科学的考察に戻り、二階建てモデルを用いて解釈すれば、この美的な態度での観賞とは、記号系が支配的になって(行動が切り離され、)情報を受容している状態だとみられる。


*22 佐々木健一『美学への招待』増補版3版、中央公論新社、2022、p.146

4.4.執筆のメカニズム

 脳機能に注目した「執筆の考察」は、考察の考察と同じくらい少ない。一方で、文章の書き方をテーマにした新書・ノウハウ本はかなりの数がある。執筆に関する注目が高いのは、近年アウトプットの重要性がさかんに叫ばれるからであろう。アウトプットの重要性には筆者も同感である。

 執筆とはものを書く行為である。その「もの」とは脳内で生成された文章である。したがって、執筆には脳内の考察を文章に落とし込むプロセスが必須である。用語の混乱を避けるため、ここでは脳内に持つ考察を「考察①」、文章にした考察を「考察②」と呼ぶことにする。考察①と考察②はそのデータ型以外にも異なる特徴を持つと考える。

 その相違点を明らかにしていく上で参考となるのが「論文」だ。論文は、自分の論を他者に理解してもらうために書くものである。他者に理解してもらうためには、自分が持っている前提知識から共有する必要がある。共有ができてはじめて、他者は論文に含まれる論を追体験・理解できる。

図2.脳内にある考察の模式図と、書くべき考察との相違

 このことを「思考の考察」の節で述べた対象概念の軌道という考え方を使って説明する(図2)。「概念の軌道」論では考察①を、主張xから主張x’への軌道だと捉える。xからx’へは論理Fに従って発展する。執筆では、この考察①が他者に理解できるように考察②を構成する必要がある。そのとき主張の羅列(x, x’, x’’, …)だけではもちろん不十分である。著者の脳内でどのように主張が発展したか不明だからだ。これを一般に「論理の飛躍」と呼ぶ。反対に、十全な情報は「主張列{x}」と「論理F」である。しかし論理Fは自分が持つ考え方であって、他者との完全共有は不可能である。したがって、考察①を最低限に追体験できるように、考察②はFの重要な成分を含むようにするものだ。この論理Fの成分がまさに「前提知識」だと考える。さらに記載を推奨されるのが、主張と主張をつなぐ瞬間的な方向、いわば「理屈」だ。「概念の軌道」論において理屈は、考察曲線の接ベクトル(図中の点線矢印)だと捉えることができる。論理が考え方の法則を表すのに対し、理屈は特定の状況での考えを表す。

 以上のように、考察①は「軌道」であるのに対して、考察②は「主張」「前提知識」「理屈」を持つ。考察①②で要素が異なる理由は、「著者と同じ考え方を持った他者はいない」「考察①を追体験するには、そう考えが至るような最低限の環境が必要だ」からだ。言い換えるならば、考察②は「考察①のパッケージ化」である。ソフトウェアとパッケージに喩えて説明すると、考察②は「環境設定ファイル(前提知識)」「ソースファイル(主張)」「ビルド手順(理屈)」を持ったパッケージである。環境を整えて手順に従いインストールすることで主張がきれいにつながり、考察①(に近い体験)が得られる。

 章の導入で提起した「主観性」「客観性」「解釈違い」は、パッケージ化によって説明できる。私たちの脳内に描いた考察①は、考える主体がいる以上必ず主観性を持つ。対する客観性は、主観性を持たないことではない。主観を共有・共感することである。客観性の獲得を目指したのが「パッケージ化」である。パッケージ化により考察の再現性を満たしたものが「客観的」であると筆者は考える。一方で世の中には、どうしても受け入れがたい「解釈違い」が存在する。解釈違いは思考の前提から食い違っていることが多い。これはなかなかどうしようもない。パッケージ化の議論で説明すれば、環境のレベルから揃わないからだ。解釈違いを乗り越えるには大幅な脳の更新が求められる。それはときに「これまで動いていた考え方が動かなくなる」ような破壊的更新である。なおここでの主張は、解釈違いが良い悪いではなく、その困難さを再確認するものである。

4.5.考察を書く/話すことの大切さ、あるいは本合同の存在意義

 考察を書く/話すことは大切だ。その理由は2つある。1つは「言語化することで思考が整理される」点、もう1つは「他者の意見を受けてさらに考察が変わる」点である。

 1つめの「言語化による思考の整理」は、前節で述べた考察のパッケージ化の恩恵である。パッケージ化は考察の前提や論理すなわち「そう考察するに至った理由」に自覚的になることを要求する。これはおそらくattentionを「考察する主体=自分」に当てている状態であり、考察①をしているだけでは立ち上がらない思考だ。考察する自分を自覚することで、脳は一段後ろの層から考察を眺められる。情熱のままに書きなぐった考察も十分美しいが、落ち着いてとらえ直した考察には説得力がある。その説得力は他者の再体験を促すだけでなく、自身の考察を深めるきっかけにもなると筆者は考える。また身体の外部に注目して、自分で書いた文章を自分で読んだり、自分の話した考えを自分で聞いたりできることにも「言語化の整理」の意味があると考える。運動と知覚を経由することで、これまでに使っていない脳の部位を巻き込んだ思考ができるからだ(*23)。

 対して「他者の意見を受ける」ことは、より社会的な観点だ。他者の意見をもとに学習し、新たな自分と新たな考察が生まれる。より無理のない論理展開や、新たな事実との関連が見出される。この(ほとんど劇スの話をしていない)論文でさえもチェック担当者各位と議論することで考察が深められた。さらに、「他者の意見を受ける」を裏返せば、誰かの考察に、考え方に影響を与えられるかもしれない。これは考察が自分にとってよい影響を与えるだけでなく、考察を共有することが社会的によいことの証左だと筆者は考える。

 脳内で考察することは、思考といういわば「小さなループ」である。これに対して、書く/話すことを含めた考察は外界と相互作用した「大きなループ」である。大小二輪のループが私たちに学習を促し、新たな考察が生まれる。本節ではさらに、書く/話すことは他者の考察にとってもよい影響を与えると考えた。これは考察だけに限ったことではない。学習して、私たちの脳は変化する。劇スへの理解や生き様さえも発展させるだろう。最後になるが、私たちに「考察と執筆を促し」「共有する場を与えてくれた」本合同の存在は非常に大きいと感じている。改めて主催のさぼてんぐさんと副主催のりーちさんに感謝申し上げるとともに、私たち各位と劇スの考察の益々の発展を願う。

図3.考察が形成される過程の模式図(松尾を参考に改変)。
脳内では思考が考察をかたちづくってゆく。思考は知覚や運動を操作し、劇ス鑑賞や考察執筆(発話)のあり方を決定する。外部との相互作用もまた考察を育てる。

*23 ものを書くときに、書いた文章を音読してみろと言われることがある。実際にやってみるとなかなか面白いもので、文章のテンポの悪さや、文章が論理的でないことが見えてくる。


4.6.“スタァライト”、されちゃいます

 「常に脳は変遷する」ことに言及する。数理モデルのほとんどでは「推論(通常の情報処理プロセス)」と「学習(処理結果に基づくパラメータ更新)」は分けて実行される。一方、脳は推論と学習が不可分で、推論しているそばからパラメータ更新が発生する。こうやって思考し考察をしたためている最中も、筆者の脳は更新されている。時間をかければ考察の結論も変わりゆく。合同参加者各位においても、いつか読み返した際には執筆時と思考が異なっていることもあるだろう。その差異を楽しむのもまたよいかもしれない。

 考察は大いに知的な営みである(自分でいうのは憚られるが)。「知的な」とは、思考の節で述べたように記号系が知覚運動系を駆動した、人間らしさの形容である。私たちは、人間を人間たらしめる部位をフルに活用して劇スを考察し、劇スから深くフィードバックを受けた(学習した)はずだ。スタァライトされた私たちの言葉と行動からは、学習したスタァライトがにじみ出ている。これこそが「再生産」だ。本合同は卒業を掲げるが何も恐れることはない。「台詞はとうに馴染んでるから 閉じてしまっても」(*24)いいのだ。


*24 スタァライト九九組『私たちはもう舞台の上』、2021、作詞:中村彼方

4.7.“私たちは舞台少女”

 人それぞれの学習があったからこそ、色とりどりの考察と思考がある。本合同が募集した劇スアンケートの結果にもそのことは色濃く反映されている。本節ではスタァライトのファンであるところの私たちについて考察する。

 スタァライトのファン公称は「舞台創造科」である。これは物語の中心である9人の「俳優育成科」(選抜組)と対比したものである。筆者はこの呼び方を、「ファンを舞台に巻き込むトリック」だとみなしている(*25)。スタァライトのシリーズは2017年9月の舞台から始まった。そこでは「客席にいる私たち=舞台創造科、舞台に立つ9人のスクールメイト」として半ば強引に物語に巻き込まれたのだ。このような手法の名前を筆者は知らないが、私立ルドビコ女学院(*26)のように他劇団でも見られ、舞台業界では一般的なものだと推察される。

 対してTVアニメ・劇場版では、私たちを一貫して「観客」として扱う。アニメーションと舞台の次元差が呼び方に影響するのかもしれない。公称を「舞台創造科」とした理由には議論の余地があるが、「私たち『も』舞台少女」であってよいと受け取っている。

 上記では「ファンがどう扱われるか」について述べたが、一方で「ファン自身がどう捉えているか」の観点も重要である。先述のアンケート結果からは、ある方は自身を観客だと、ある方は舞台創造科、ある方は俳優育成科だと捉えているようすを垣間見ることができた。どの捉え方も尊重されるべきだし、優劣はない。ちなみに筆者は「俳優育成科」寄りの考え方で、自分を人生という舞台に立つ舞台少女だとみなしている。いずれにせよ、人それぞれ決まった「スタァライト世界での居場所」を必ず持っているようである。このことは二階建てモデルの考察に基づいて理解できる。自身を脳内のスタァライトシミュレータに落とし込むことで初めて具体的なスタァライトの思考ができるからだ。


*25 劇スの最後のシーンの「本日、今この時」も同様のテクニックであると、三兎群青さんからコメントをいただいた。深く同意する。

*26 私立ルドビコ女学院、http://for.fool.jp/ludojyo/wp/

5.おわりに

 本論文では、考察について考察をおこなってきた。情報科学のツールを武器に、劇スの鑑賞から考察、執筆までの説明を試みた。また、学習を通して私たちの生き様が変わり、あるいは他者を変化させる可能性にも言及した。

 スタァライトと出会わなければ筆者は劇スを考察することはなかったし、まして根源的に考察を考察することもなかった。この論文に書きつくせないほどスタァライトと向き合い、自分と向き合った自負が筆者にはある。舞台少女たちが舞台と出会ってしまったように、私ももう何も知らなかったあの頃には戻れない。

著者コメント(2022/10/10)

 はじめまして。いのこりと申します。読んでくださりありがとうございます。
 今回は「劇スを考察すること」について考察しました。あなたとスタァライトの関わり方に、良い影響を与えられたならば幸いです。このような素敵な機会をくださったさぼてんぐさん、頼もしかった主催班の皆様。論文に有意義なコメントをこれでもかとくださった三兎群青さん、morgenrot さん。そして様々な作業をおこなっていただいた皆様に感謝申し上げます。とくに半ばからは主催業務にも手をつけられず論文も難産していた私を、最後まで辛抱強く待ってくださいました。重ねて感謝とお詫びを申し上げます。
 最後に。ありがとう、スタァライト。

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