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演技行為から読み解くワイルドスクリーンバロック

陣笠狸
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1.はじめに

 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は演劇学校を舞台として展開する物語である。しかし、2018年に放送されたTVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、TVシリーズ)において披露される役及び演技シーンの元となる戯曲は、そのほとんどが『戯曲 スタァライト』からであった。対して2021年に公開された『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、本作)では、新たな戯曲、『遙かなるエルドラド』の登場に加え、舞台少女たちはレヴューシーンにおいてもそれぞれの役に応じた衣装を纏い、様々な演技を展開している。

「あなたたちが“演じる” 終わりの続き。
わがままで欲張りな観客が望む新しい舞台」

 本作も終盤に差し掛かるころ、神楽ひかりは改めてキリンにワイルドスクリーンバロックとは何かと問いかける。その返答からは、舞台少女たちが本作でワイルドスクリーンバロックなる舞台を「演じて」いることが示される。

 本稿では本作において特徴となっている演技行為に着目し、本作で展開される一連のレヴュー、ワイルドスクリーンバロックを概観する。ここで、本稿で述べるのは、あくまで視聴者の一人にすぎない私が読み解いた一意見であることは改めて申し添えておく。これは誰かの解釈を制限するものではなく、さらに言えば私の中にも多数の解釈があり、これはそのうちの一つである。

2.ワイルドスクリーンバロックと演技

2.1.皆殺しのレヴュー~ACT~

 ワイルドスクリーンバロックの開幕を告げる「皆殺しのレヴュー」、その舞台となる地下鉄の列車内には「ACT」と銘打たれた書籍の広告がある。作者名がカメロ・パルダリス(キリンの学名に由来)であるのは制作陣の遊び心が発揮されているが、ここで注目したいのは、タイトルの「ACT」である。

 動詞や名詞として用いられるこの英単語は、行動/行動するという意味と共に演技/演技するという意味も持つ(*1)。actと語源を同一とする英単語として、例えばaction(活動、物語における展開)やactor(役者)がある(*2)。

 この列車はやがて舞台へと転換し、舞台に上がった舞台少女たちはactorとしてaction、actすることを求められるのである。

 皆殺しのレヴューが一種の舞台であることは、大場ななのセリフからも見て取れる。

「これはオーディションに非ず」「だからオーディションじゃないって」

 このレヴューにおけるセリフは非常に限られているが、大場ななは繰り返しこのレヴューがオーディションでないことを強調する。オーディションでないならこの舞台は何か。そう、舞台の本番である。

 幕が上がった舞台にいるのならば、act しなければならない。舞台上において、他ならぬ役者が棒立ちでいることは許されない。しかしその大前提として、自分はもう舞台にいることを認識しなければならない。もうここは舞台に先だって行われる「オーディション」の場ではないのだ。大場ななはこの状況とセリフをもって、舞台少女たちがもう舞台にいることを突きつける。

 このレヴューで唯一上掛けを落とされなかったのは天堂真矢であるが、それはこの大前提を踏まえていたからであろう。舞台にいるならば、演技には演技をもって、セリフにはセリフをもって応じなければならないのである。このレヴューで示される舞台と演技行為(act)の関係は本作を貫くテーマとして、最後まで登場し続ける。


*1 「act」 Oxford dictionary of English.

*2 「*ag-」ONLINE ETYMOLOGY DICTIONARY, https://www.etymonline.com/word/*ag-?ref=etymonline_crossreference(2022/04/28閲覧)

2.2.怨みのレヴュー

 本作の後半、連続するレヴューの始まりとなる「怨みのレヴュー」は、TVシリーズのレヴューとの差異を強調するようにいきなり小芝居から始まる。このレヴュー冒頭における賭場シーンは、西條クロディーヌと花柳香子が相対したランドリーの場面を引き継いでいると考えるのが妥当だろう。あのとき、西條クロディーヌと花柳香子の間でできなかったやり取りを、舞台に上がり、役を演じているこのシーンでは、行うことができている。

 それはなぜだろうか。役者が役を纏っているとき、舞台上には役者本人と物語上の役が、いわば二重に表れている。すなわち「演じている」役者の言葉や行動が、本音であるのか演技であるのかを判別することは実質的に困難になる。よって、役を演じているという建前がある状態では、役者はあくまで役として、いわゆる「素」の状態では言えないセリフ、できない行動でも、物語の中で役が為したこととして行うことができるのである。たとえ生々しすぎる感情であっても、むしろ劇的で生々しすぎる感情だからこそ、舞台と役の力を借りて発露することができる。

 このような役を通した感情の発露は、本作において繰り返し見ることができる。本作冒頭のアレハンドロとサルバトーレを愛城華恋と神楽ひかりに見立てた演技実習のシーン(*3)に始まり、以降舞台少女たちの演じる役はそれぞれの立場と感情が反映されやすい役となっている。

 普段なかなか本音を表に出さない花柳香子はこのレヴューにおいて、この舞台と役の力を最大限に利用し、石動双葉の真の感情を引き出すために、セクシー本堂という舞台を用意して迫っていくのである。

 さて、このセクシー本堂においては昭和歌謡世界の男女役(*4)が割り振られている。セリフの内容は花柳香子と石動双葉の現状をそのままであるにもかかわらず、どこか場末の男女関係を思わせるのはまさに役の力であると言えよう。

「うちが進むその隣にアンタがずっといてくれるはずやった」
「新国立、なんで一人で決めたん」

と二人が離れる理由を問い続ける花柳香子に対して、石動双葉演じる男はどこかごまかし続けている。お前のためにせよ、周りがどうしたにせよ、他人を理由にしたそれは花柳香子が受け入れられるものではない。

 最終的に石動双葉は、この選択が自分のわがままであると開陳する。もはや役を演じていない石動双葉によるこの感情は、役という立場でごまかすことのできない、紛れもない本音である。花柳香子が求めていたのはこの本音であり、この「ガキのわがまま」を受け入れ、レヴューは終わるのである。


*3 https://twitter.com/KinemacINFO/status/1466788852396605441, 【おしえて!スタァライト劇場】情報19(2022/3/29閲覧)

*4 https://febri.jp/topics/starlight_director_interwiew_2/ 「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト 監督・古川知宏インタビュー②」(2022/3/29閲覧)

2.3.競演のレヴュー

 まず、この「競演のレヴュー」については、皆殺しのレヴューとの類似性を指摘することができる。

「どうして演技しないの? 舞台の上なのに」
「舞台の上で演技しないなら……何も言えないよね、何されても」

 露崎まひるのこのセリフは、皆殺しのレヴューで大場ななが言外に伝えていたことである。そして、相手(ここでは神楽ひかり)を次の舞台へ向かえるよう促すというレヴューの主題についても、競演のレヴューと皆殺しのレヴューは共通している。そして露崎まひるは、このレヴューの主題を全うするために、演技を行うのである。

 演劇の中で分かりやすく役を纏うことだけが演技ではない。例えば我々も職場や学校において、上司や部下、学生といったあるべき役を演じているといえるだろう(*5)。このレヴューにおいて露崎まひるは、神楽ひかりを追い立てる「露崎まひる役」を演じているといえる。本来の露崎まひるであればあのように相手に迫ることはないだろうし、ましてや胸倉を掴みあげることもないだろう。このレヴューは、一貫して演技し続ける露崎まひると、演技を手放してしまっている神楽ひかりという対比のもとにある。

「もっとちゃんと演じてよ」
「見せてよ、偽物じゃない本物の神楽ひかりを」

 ちゃんと演技をするためには何が必要であろうか。露崎まひるの「大嫌いだった」は本物だろうか偽物だろうか。

 演技論を述べる際には「心を動かす」といったような内面に関する記述が度々見られる(*6)。演技とはセリフの言い方や体の動かし方といった外面的な要素が中心かと思われるが、行動には心の内が表れる以上、まず役の内面を把握することが大切なのである。すなわち、このレヴューのように自分自身が役となる場合、ちゃんとした演技を行うためには、冷静に自分自身の「本物の感情」を把握することが不可欠となるのである。

 このレヴューにおける露崎まひるは完璧といっていいほど、自分自身をコントロールした演技ができている。感情任せに見えるセリフや行動にしても、その言動はレヴューの主題に沿って一貫している。それはちゃんと演技をするために、自分自身の内面を把握できているからだろう。

 だからこそ、最後に神楽ひかりが自分自身にある怖さを率直に認めたときに、露崎まひるは演技を解く。露崎まひる同様、自分の中の怖さ、「本物の感情」を認めることができた神楽ひかりは、愛城華恋を迎える次の舞台へと向かうことができるのである。さらに言えば、この舞台に立つ怖さを共有できる存在こそ、同じ舞台に立つ「共演者」なのだろう。


*5 このような社会活動に見られる演技は社会学においてドラマツルギーと呼ばれ考察される。著名な論者としてはErving Goffmanなど。

*6 福田恆存「演劇入門──増補版」中央公論新社 2020 P.70,P.147

2.4.狩りのレヴュー

 演じるという観点から捉えれば、大場ななは特殊なキャラクターと言える。聖翔音楽学園でA組、俳優育成科に所属する舞台少女たちは、基本的に演じる側の立場に特化しているのに対し、大場ななは脚本見習いという形で舞台を創る裏方にも通じる立場である。この特殊性は冒頭の進路相談シーンでも強調されており、役者と裏方、どちらの立場を取るか迷っていることが示されている。

 さらに言えば、彼女はすでにTVシリーズ及び『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』にて再演を主導することで、舞台を俯瞰する演出的立場を十分に経験していると言えよう。そしてこの「狩りのレヴュー」で大場ななが演出するのは、彼女の再演の舞台でもあった聖翔音楽学園を模した舞台である。

 レヴュー冒頭、大場ななが主導するこの舞台に、役者たる星見純那は文字通り「上げられる」。上げられたにせよ、上がったにせよ、舞台に立った役者がすることはただ一つ、「演じること」である。

 ここで改めて舞台上で演技する役者と言葉について考えてみたい。例えば劇作家の平田オリザは俳優について「他人が書いた言葉を、あたかも自分が話すがごとく話さなければならない職業」(*7)と表現する。物語を成立させる以上仕方のないことであるが、基本的に舞台上の役者は他人である脚本家が書いた言葉に縛られ、自分の言葉を制限されているのである。

 この原則に呼応するかのように、狩りのレヴューの序盤、星見純那のセリフは偉人の格言を引用したセリフが中心であり、結局のところ他人の言葉である。つまり、この時点の星見純那はまだ、この舞台の監督であり脚本家たる大場ななの筋書きの中にある。

 様相が一変するのは、星見純那が切腹のために差し出された脇差を手に立ち上がり、他ならぬ自分の言葉、口上を発してからである。舞台上で自分の言葉を叩きつけるというこのアドリブ的な行為により、星見純那は大場ななの台本、彼女がいうところの「私の純那ちゃんを逸脱する。

 その後、自分の言葉を取り戻した星見純那は文字通り、大場ななの舞台を一刀両断し、最終的に聖翔音楽学園の舞台セットは粉々になる。再演の舞台でもあった聖翔音楽学園が破壊され、星見純那が誰に用意されたわけでもない自分の役、眩しい主役を見出すと同時に、大場ななの再演は完全に終わりを迎える。

 当初この舞台を演出した大場ななの意図は定かではないが、このレヴューにおけるトピックの一つは再演の終焉だったと言えるだろう。再演を真に終わらせる、そのために必要だったのは大場ななが作り出した筋書きの書き換えであり、それは星見純那のアドリブによってなされたのである。


*7 平田オリザ「演劇入門」講談社 1998 P.156

2.5.魂のレヴュー

 これまでのレヴューの文脈を踏まえ、改めて「役者が役を演じる」ことに踏み込んでいるのが、この「魂のレヴュー」である。楽屋のシーンにおいて、天堂真矢と西條クロディーヌはもうすでに次の舞台へと進み続ける覚悟を決めきっていることが示されており、このレヴューではさらに進んで、次の舞台での役者のあり方が議論される。

 最初こそオーソドックスに始まる舞台は、第2幕の終盤、今までの芝居がかったやり取りから一転し、客席に移った天堂真矢は西條クロディーヌとの関係性も含め、舞台上の全てを役であると言い放つ。続いて天堂真矢が示すのは神の器という役者のあり方である。

 神の器とはいわば究極の滅私である。神の器たる役者はその時々の役に殉じ、演じている側の人間性を一切見せない。これは天堂真矢の示した役者の一つの到達点であって、ある種役者の理想の姿である。役者とは、役を演じることで他人の人生をエミュレートして見せる存在である。だからこそ、そこに演じる側の人間性が見えてしまうことは、役としての純粋性を損なう行為だとするのは不自然ではない帰結である。

 しかしそれは、天堂真矢が客席から主張していたことが示すように、あくまで観客から見る/見られることを踏まえた理想であるだろう。すなわち舞台上の役者を見るときに、客席からでは演じている姿、役を通した役者の姿しか見ることができない。暴論ではあるが、物語の筋を追うためだけならば役者は誰だって構わない。

 だが、ここで西條クロディーヌは客席にいる存在ではない。舞台少女である彼女は同じ舞台に立ち、舞台の上から役者、天堂真矢を見ることができる存在である。だからこそ、西條クロディーヌは、天堂真矢が示した到達点たる神の器を違うと看破することができる。同じ舞台に立って向き合ったときに、そこにあるのは役だけではなく、役を通した関係性だけでもない。役は死んでも、役者は死なない。悪魔役の西條クロディーヌは死んでも、生まれ変わって新たな役を得た西條クロディーヌは、何度でも舞台上で天堂真矢と相対することができる。

「俺が求めた魂はどこだ?」
「俺が賭けをした相手は誰だ?」

 魂という言葉を冠したこのレヴューで示されるのは、役に魂を入れるのは役者であり、役者こそが魂を持つという真理である。空っぽではない、それぞれ唯一無二の魂を持つ役者が役を演じるからこそ、演劇は力を持ち、物語は生き生きと語られることができる。そしてその力を持った演劇こそ、観客の求めるものでもあるのだ。

2.6.最後のセリフ

「どこでもいい、なにもない空間──
それを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう。ひとりの人間がこのなにも
ない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる──
演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ。」(*8)

ピーター・ブルック、高橋康也・喜志哲雄訳「なにもない空間」晶文社 1971 P.7

 イギリスの著名な演出家、ピーター・ブルックによるこの有名な定義は、演劇に必要なのは大層な設備などではなく、舞台と役者そして、観客だけであると示す。

 これまで豪奢な舞台装置に彩られてきたレヴューであるが、この場面における東京タワー内の舞台はそれこそ「裸の舞台」に近い。そして、役者である愛城華恋の独白から突如幕が上がったとき、この映画を見ていた我々こそが観客だと示され、演劇たる要素は全て揃ったことになる。

 ここで皆殺しのレヴューから始まり、競演のレヴューを経て、突きつけられ続けてきたこと(今立っているここが舞台であり、舞台にいるのならば演じなければならない)は神楽ひかりによって愛城華恋へと突きつけられる。

 しかし愛城華恋はこの問いかけに対して、演技をもって応じることができず、さらには愛城華恋の死が描かれる。この愛城華恋の死が示すのは、運命の舞台『戯曲 スタァライト』の終幕である。

 『戯曲 スタァライト』は必ず別れる悲劇である。今ここで愛城華恋と神楽ひかりが演じ続けてきた『戯曲 スタァライト』もまた、死という永遠の別れをもって幕を下ろす。この愛城華恋の死はいわば、彼女たちが演じてきた『戯曲 スタァライト』上の、愛城華恋役としての死である。しかし、これまで描かれてきたように、ある役が死によって終わっても、役者は次の舞台で次の役を生きることができる。すなわち、愛城華恋の死によって舞台が終わることで、演者である愛城華恋は次の舞台へ向かうことができるのである。よって次に行われるのはこの再生である。

 古代ギリシャから数えて演劇文化は約2500 年もの歴史を持ち、その源となったのは宗教的儀式だったと言われている(*8)。この点を踏まえると、神楽ひかりと愛城華恋による演技に、宗教性と儀式性を見ることができるだろう。本シーンでピエタ(*9)がモチーフとされているように、これは愛城華恋の死から始まる再生の儀式である。さらに言えばこの儀式は、その昔舞台少女になることを諦めかけた神楽ひかりに対して行われたことの再演でもある。

 生まれ変わった愛城華恋は再び神楽ひかりと相対する。これまでの彼女たちは運命のために舞台に立ち、演じてきた。しかしもう運命の舞台『戯曲 スタァライト』は終わった。そのとき彼女たちが舞台に立ち続けるために必要なものは何だろう。

 彼女たちは互いに相手に魅せられてしまうことへの恐れを吐露する。相手に魅せられないために、あるいは魅せられても舞台に立ち続けるために、何が必要なのだろう。ここで本作のキーワードであるワイルドスクリーンバロックが表れてくる。

「私もひかりに負けたくない」

 愛城華恋のこのセリフをもって、ワイルドスクリーンバロックは幕を下ろす。演じ続けるために必要なのはワイルドと表されるような、負けたくないと感情のままに語られるような、ある種の衝動であり、それを認めたとき舞台少女は舞台に立ち、演じることができるのである。


*8 アラン・ヴィアラ、高橋信良訳「演劇の歴史」白水社 2008 P.16

*9 十字架から降ろされたキリストを抱く聖母像のこと

3.補論:ワイルドスクリーンバロックをめぐる一考察

 前項の最後で舞台少女が舞台に立ち、演じ続けるためには、ワイルドと表されるようなものが必要になると述べた。ワイルドスクリーンバロックは本作を貫くテーマであり、本作のレヴューはワイルドスクリーンバロックの名の下に行われてきた。これまでワイルドスクリーンバロックを構成するレヴューを演技行為から概観してきた訳だが、最後に改めて「なぜ演じる/行動する(act)のか」という問いを軸に、この言葉について考えてみたい。

 ワイルドスクリーンバロック(英語表記:wi(l)d-screen baroque)の下敷きとなっているのは、SFの1ジャンルを表すワイドスクリーンバロック(wide-screen baroque)だろう(*10)。ワイドスクリーンバロックは英語圏を初出とする言葉だが、SF作家である草野原々はこの用語が日本に入り受容されるにあたって、当初のワイドスクリーンバロックが強調していた「舞台規模」「プロットの精妙さ」等よりは、「アイデアの奔流によるめまい」の意味が強調されるようになったと指摘し、本作もこの日本でのワイドスクリーンバロックの流れを汲んでいるとする(*11)。

 ワイルドスクリーンバロックがワイドスクリーンバロックの系譜にあるのならば、ここで注目すべきはワイド(wide)がワイルド(wi(l)d)に変化していることだろう。辞書的な意味のwildは、野生や人の手が入っていない自然な状態を表す(*12)が、舞台少女たちにとっての野生とは何であろうか。ここではある種の行動論を参照することで、この「野生」を捉えてみることにする。

 人はなぜ行動するのか。人間をある行為に向かわせるものは何か。まず考えられるのは意志であろう。我々は何かをしようと思って、その行為をする。例えば映画を見ようと思って映画を見るのである。

 では、行動するための意志はどこから生まれるのだろうか。これまでこの根源的な問いに対してなされてきた議論を見てみると、そもそも人間が行動する際には、その人の主体的な意志だけではない何かが存在することが示される。

 美学者の森田は芸術体験、すなわち何かを創る、鑑賞する行動を考察する端緒として、この芸術体験が記述される際の表現に着目する。例えば画家が自らの制作体験を振り返って、「イメージがおのずと目の前に現れた」というように、芸術体験の記述には「おのずから~なる」といった、いわば制作する主体である芸術家を超えた表現がしばしば見られるというのだ(*13)。

 さらに研究者であり劇作家でもある山崎も演技論を行動論にまで《敷衍|ふえん》した著書において、行動する際には目的への意志だけではなく「動機(モチーフ)」があることを指摘する。山崎のいう「動機(モチーフ)」とは芸術活動におけるものが近く、端的に言えばある人間の内外にあって、その人を行動に「のせる」ものを指している。例えば「気分がのっている」と表されるように、人は自分の意志が及ばない何かに動かされている側面があるというのである(*14)。

 ここでワイルドスクリーンバロックにおけるワイルド、野生についても同様に考えることができるのではないだろうか。舞台少女たちが次の舞台を目指す、あるいは演じ続けようとするときに、そこにあるのはやはり意志だけではない。主体を超えて彼女たちを突き動かす何かがあり、彼女たちは演じずにはいられない(*15)。そしてその何かを作中ではワイルドと記述するのである。

 さらには本作のキーワードである「私たちはもう舞台の上」についても関連を指摘したい。つまり「私たちは“もう”舞台の上」であり、「私たちは舞台に上がる」といった主体中心の記述ではないのである。ここで描かれるのもまた、主体的な意志を超越した状態である。

 我々は神の舞台に立つ道化。本作で言及されている通り、我々もまた舞台にいることに気づいてしまったのならば、舞台に上がっているのならば、actしなければならない。

 本作が多くの人に深く響いているのは、単に演じ続ける存在である舞台少女たちのあり方を描くだけではなく、作中の描写を通じて普遍的な行動論をも示しているからではないだろうか。


*10 https://the-yog-yog.hatenablog.com/entry/2021/06/23/190403 「『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』で大流行!最近話題の概念「ワイドスクリーンバロック」ってなに!?」(2022/3/29閲覧)

*11 上記10と同じ文献を参照

*12 「wild」 Oxford dictionary of English.

*13 森田亜紀「「おのずから」と中動態、そしてオートポイエーシス」倉敷芸術科学大学紀要(16), 37-49, 2011

*14 山崎正和「演技する精神」中央公論社 1988 P.123-P.125

*15 この主体の意志を超えた何かに関しては近年「中動態」をキーワードに論じられる傾向があり、3章でも構想の下敷きにしている。

著者コメント(2023/9/30)

 気づいたら本誌の刊行から1年以上、私が『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』に出会ってから2年以上経っていて短いようで随分遠くに来た気がします。原稿を今読み返すと至らなく思う部分もあるのですが、しかしこれはこれで以前の自分が真摯に書いたことには間違いないですし、自分のターニングポイントとなった作品に対してその当時の出力が残っているのは貴重なことだと思います。
 そんなわけで貴重な機会を頂いた主催陣および本誌に関わったいた皆さまには感謝しかありません。また、スタァライトコンテンツに関わられてこられた全ての方々にも尊敬と感謝を。そして最後に本稿をお読みいただきありがとうございました。

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