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人生が冒険だった頃

季節は真夏。新緑だった樹々の葉は、その黄味を帯びた艶やかな萌色から、燻んだモスグリーンへと変化し、風も凪いでどんより湿った重い空気と共に、真夏独特の不快さを演出していた。

清美は住んでいるマンションのバルコニーへとのろのろ歩いて行き、起き抜けの一服を点けた。本当はバルコニーも禁煙なのだが、外で吸うタバコの美味しさを知ってしまうと、中々やめられない悪癖となるのだ。

マンションからは隣りの公園の緑が広がっているのが見えた。まだ子供達の声さえ聞こえない早朝。鳥の鳴き声だけが、ときたま思い出したように聞こえて来た。

清美はかなりのヘビースモーカーである。どんな男と付き合っても大抵は男の方が驚いてしまう。セブンスターを一日三箱。それは肉体的依存というよりも明らかに精神的依存だった。とにかく口寂しく、かといって禁煙パイポや色々な禁煙グッズでは癒しきれない心の渇望があったのだと思う。

見かねた親友が『禁煙セラピー』という本を勧めてくれた。「読むだけでやめられる」というのが謳い文句だったが、やはり清美のチェインスモーカーぶりには効果がなかった。

清美はこう見えても結構な遊び人で今まで性交渉を持った男は恐らく100人では足りない。それでもたまには気の合う相手も見つかって、数ヶ月は恋愛ってものの真似事をしてみたが、なんだかセックス程の高揚感もないし、どちらからともなく遠ざかっていってしまうのだった。

いつの頃だったか1年ほど付き合った相手がいた。名前は太郎。何だか彼の名前に惹かれて付き合い始めたという事もなくはなかったが、喧嘩ばかりしていた割には、清美が望む「刺激的なセックス」を与えてくれる、いわゆる「肌があう」間柄だった。

いつか二人で週末の二日間を利用して軽井沢の星野温泉までドライブに行った。宿にチェックインして部屋に入るや否や、太郎は清美の身体を求めて来た。

「ちょっと、ちょい待ち。焦らないで。今晩は泊まるんだからゆっくりしましょうよ」

清美の言葉を遮るように太郎は清美の口に舌を突っ込んできた。そして清美のやや小さな乳房をまさぐるように愛撫して来る。

「ちょっと。んもう分かったから」

「清美、好きだ。愛している」

太郎はいきなり挿入してきた。

「ちょっと。ゴムだけは着けて。お願い」

太郎は一旦抜いたその熱り立つものを、今度は口に突っ込んで来た。

「ちょっ。」

清美は喉の奥がえづいてむせた。

二人は舌を絡めながら、お互いに服を脱いだ。太郎は再び挿入し、激しく清美の奥の方を突いてくる。

「いや、いっちゃう」

清美の局部からは大量の尿がほとばしっていた。清美は「恥ずかしい」と言いながら、両手で顔を覆い隠した。

「俺の目を見ろ」

太郎は清美の両手を広げて動けなくした。

「俺の目を見ろ」

清美は太郎の熱い眼差しをその両の眼で、しかと受け止めた。超能力者でもあるまいし、彼の思考が伝わる訳もなかったが、吸い込まれそうなくらいの透き通った美しい角膜がきらりと輝き、彼の少年のようなひたむきさだけは感じとる事が出来る気がした。

あれから5年。光陰矢の如しとはいうものの、あっという間に彼は別の女性と結婚し、今では立派な父親になっていた。

会社の都合で京都の奥に奥さん、お子さんと暮らしているというので、訪ねて行ったことがあった。

「久しぶり」太郎はにこりと笑顔で言った。

「元気そうで何より。それにしても綺麗な奥さんじゃない」清美は太郎の肩を叩きながらタバコに火を点けようとしたが、太郎は「ごめん、うちのがタバコの匂いが大の苦手でね。悪いけど庭で吸ってくれないか?」

昔は太郎も結構なヘビースモーカーだったのに。清美は心の中でつぶやいた。

清美が一人で寂しくタバコをふかしていると、太郎も庭にやって来て、「一本くれないか?」と苦笑いしていた。

「何だやめてなかったんだ」清美は、内心嬉しくなって笑いながらそう言ったが、太郎は一回吸い込むと「うえっ、やっぱり不味い」と顔をしかめながら言った。

「タバコ、本当にやめたのね」

「ああ。お前もやめた方が良いぞ」

「いいじゃない、好きなことして生きているから、あなたみたいに老け込んでないでしょう?あたし」

「俺、そんなに老け込んだか?」

太郎のちょっとした狼狽ぶりに清美はくすりと笑った。

「あたし、来なければ良かった。こんなあなたは見たくはなかった」

「そんな悲しい事言うなよ」

「うふふ。冗談よ」

清美は内心、本当に後悔していた。時は流れ、彼も変わったのだ。その事については、誰を咎める事も出来ない。そもそも自分で決めて訪ねて来たのだから。

「あの頃のあなたは、何かにつけて『人生は冒険だ』って息巻いていたけど、冒険は終わったのね」

「俺そんな事言ってたか?」

「そうよ。二人で世界の果てまで行きたい、って目をキラキラ輝かせながら、週末のドライブの計画を考えていたじゃない」

「世界の果てまで、か。」

清美はふと「ここが世界の果て」なんだ、と気付いた。ここから先は、何もない、正に虚無が永遠に続くのだ。そう、直感的に気付いた。

清美の人生という冒険は、太郎からちょうど五年遅れて終わりを告げたが、そこには無限に続く喪失感があるだけだった。

「私には、これがある」

清美は間髪入れず、お気に入りのジッポのライターで二本目に火を点けた。

太郎が言った。「随分と安っぽいライターだなあ。今度、もっと洗練されたライターを贈るよ」そう言って、玄関から戻って行った。

そのライターは、太郎がくれた清美の誕生日のプレゼントだった。

「全く男ってこれだから嫌なのよね。」

清美は自嘲的に笑ってみたが、声にはならず、頬には一筋だけ涙の跡が出来た。

清美は急いで化粧を整えてから太郎の家に戻って行った。

終わり