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「497:3の乱」の末の悟り



かつて「外に出て、人と会うのが良い」というアドバイスをもらったことがある。
俺はそのことを忠実に守って、いろんな人に出会って
いろんな人からアドバイスをもらってきた。

ただ、会えば会うほど迷う一方、アドバイスを貰えばもらうほど迷う一方、
それはなぜだろう?というのが今回のストーリー。

これまでの俺の経験から行って、たくさんのイベントやセミナーに参加して、
実に数えきれないくらいのたくさんの人に出会ってきて、
コミュニケーションしてきた。

そして出会って連絡先交換した人間から
こぞってセミナーやイベントの誘いが来るようになった。
そしてその度に俺は応答して参加してきた。

そしてその度に疲弊して時間とお金を無駄に費やしてきた。

サターンリターンしている時期だから迷いに迷った、と言えばそうだろうが
もっと迷わずに済んだのだろうか?

一体誰なら本当に俺のためにアドバイスをしてくれたのだろうか?
たくさんいる友達の中で、誰ならば真実の友情を持って接してくれている??

いや、考えても無駄だろう。
俺が納得しない限りは、迷走は止まらなかっただろう。

「困っている」から人に会いに行く


起業ブームが流行っていた当時は「メンター」という単語がとても流行っていた。
要するに自分より「格上」だと思う人間に会いに行くこと、
自分がやりたいことをすでに実践している人、
そういった人を「メンター」と崇めてアドバイスをもらうこと、

これが大事だとされたのだ。

そういった時代の風潮もあって俺は「メンター」という存在をありがたがった。

しかしそもそも何で俺は「メンター」に会わねばならなかったのだろうか?
時代がそう言っているからか?

なんで俺は人に会いに行ったのか?

その源流を辿ると一つの答えが見つかった。

それは「俺が困っている」からだ。

ビジネスがうまくいかないから助けて欲しい、人との交流が無さすぎる、
ノウハウがわからないから教えて欲しい、
全部「困った」という理由が元手になったネタである。

俺はある時それに悟った。

だがちょっと待て、人が人と関わらずに生きていけるのか?

「自分は誰にも頼らず生きていける」だなんて
それは余りにも傲慢にも程がある。

そう、人が人と関わらないなんて無理だし、
人は一人じゃ生きていけない。

しかし、そんなのは誰でもわかる。わかりきっていることだ。

飯を食うにしてもコンビニやスーパーマーケットの店員とかと関わらないとダメだし
飯を食う金を手に入れるにしても会社の人間と関わって仕事しないとダメだし
自分が苦手なことをアウトソーシングするにしてもやっぱり人と関わらないとダメ、
人が生きていく中で最低限の人間と関わらなければならない、
人と関わらないとダメなことだらけなんだ。

最低限、人が生きていくためには、人と関わらないとダメダメづくしなのだ。


だが冷静に考えれば仕事をするにしても飯を買うにしても
「最低限」の人と関われば済むことに気がついた。

今の俺はどうだ?

最低限関わり合いになればいい、にも関わらず
俺は自分のキャパ以上の人間に会いに行きまくっている。

これは一体どういうことなのか??

「困っている」題材が多すぎなのだ。
俺の「困った」を付け狙われたから、甘い話の誘いだったり、変な虫ばかりが
寄ってたかって俺から金をたかろうとして来たのである。

この時期というのは人生で唯一愛してやまなかった祖母がこの世から去り、
俺は俺で自分を取り戻すための旅路に出ていることから
SNSでの投稿がガタっと減っていた時期だった。

当時は起業塾の教えで「SNS1日5回投稿すべし」というものがあったので
毎日投稿をして頑張っていたのだが、ある時期を境にパタっと辞めた。
投稿があまりにも無さすぎて、起業塾や朝活の面々に心配される向きがあった。

何しろ朝活にもよらず毎日真っ直ぐに会社に行って、帰る時も真っ直ぐ帰る、
そういう日々だから起業塾や朝活のメンバーに会っていない。
誰にも会わない、自分の内面ばかり見る日々が続いて、
俺の中である種の悟りを開いた。

「困っている」ばかりであることに気がついた俺は
一つの暴力的な結論を創出した。

その時、当時使っていたSNSであるFacebookに単文の投稿をしたのを覚えている。


「極力人に会わないべき。人が人に会うのは『困っている』からだ」


「俺は人に極力会わないのを良しとしている。人はなぜ人に会うのか?
『自分が困っている』から、人に出会うのだ」

と。

当時使っていたFacebookでオレはこのようにブチ上げた。

先述のように人が一人で生きていくなんて、余りにも傲慢が過ぎる。
「人は誰かに会うために生まれてきた」なんて説もあるんだから
これは独善的な唯我論、、エゴの塊でしかない。

しかしそれは俺も敢えて承知で使った。
まるで500人の「友達」を突き放すかのように。

当然この俺の唯我論には反発の方が圧倒的に多かった。
当時いた「友達」で500人いるうちの3人だけが賛成の意を表明してくれたので
「497:3の変」なんてこのことを呼んでいたりする。

だけども、それに対して俺は意に介することはなかった。

外に答えを探しに行きまくって、散々迷い散らかした挙句
散々「友達」から外部セミナーに誘われまくって
誘われるたびに参加して迷いに迷って
何の答えも出せなかった男だから。

そういった俺自身、時間と金を無駄にして、
亡くなった祖母のように本当に向き合うべき人と向き合えなかった、
そんな数多の苦い経験が糧になったが故に、この発言が出た。

もう7年も前になるが
今でもそう発言したことは、俺は一切後悔していないし、
今でもその意、その気持ちに一切の変わりはない。

元同僚も俺に言っていたのは「本当にあなたに必要な人間は誰か見極めろ」だった。
このことは、必要な人間の見極めが全く出来ていなかった
俺自身に対する戒めでもある。

アデプトになったからこのように悟ったのか、それは定かでない。

総括


迷わない人はいない。人に会わなくて生きていける人はいない。

しかしいつだって心の迷いを突いてくる「悪魔」のような存在が
この物質次元には存在する。

彼らが皆、本当にあなたのことを考えてくれて発言してくれているのか?
その発言は、その意図に愛はあるのだろうか??

それを見誤ったら、自らのキャパを超えたら、いつかはしっぺ返しを喰らうのだー。

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