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他者貢献の動機は考えて生まれるのでなく、感じて生まれるもの

親しい知人にある案件でお金を貸していたのですが
その知人が自己破産寸前にまで経済状況が追いやられた

と言う話を面と向かってされました。

こちらが貸したお金が吹っ飛んでしまい、何年かかけて返済せねばならないと。

本来は驚くべきなんでしょうが、

どういうわけか驚きもせず、ごく自然に受け入れられた。

たくさんヒーリング受け続けてきたからとか、
あるいは形而上学でお金についてどういうものか

さんざん教わってきたからとか、理由はあったかもしれませんが。

やる理由・「自由」を買うためのお金が欲しかったこと

僕がかつて起業活動をしていた時の真の動機は
「自由を手に入れるためのお金が欲しい」ことでした。

月商7桁いければ何でも買える。愛だって、自由だって思いのままだ。

しかし起業塾のメンバーはこぞって
「日本のために起業する」と言ってる熱い人たちでした。

意識の高い仲間を横目に私の掲げた理由というのは
実に私利私欲にまみれたものでした。

陰険な上司同僚の顔色を伺いながら、毎日やりたくもない仕事の嵐。
仕事の時間は会社に拘束されていて、自由がない。

金のためだけに束縛されることをよしとして
自由な時間は休日というなけなしの時間だけ。

だから僕は「他者貢献」なんて考えたこともなければ
そのために行動したこともない。

起業にあたって高尚な理由なんてないけど
自分の底の浅さがバレてしまうのが嫌だと思ったので

猿真似でしかなかったですが、同じように「日本のために」なんて言ってました。

「やる理由」もしょせんは猿真似でしかなく起業は失敗し
月商7桁も、「愛」も、「自由」を手に入れることはできませんでした。

「愛」と「自由」をお金で買った結果

僕がお金を貸した知人は一時期ビジネスの「成功者」に上り詰め
周囲がうらやむような異性と結婚したが、夫婦仲がうまくいかず離婚。

多額の慰謝料を元奥様に支払い
たくさんのお金で手に入れたものを手放すことになった。

ありとあらゆるものの歯車がうまくいかず、自己破産の手前という形になった。

もしかしたら僕も、見栄えのいい「成功者」に上り詰め
そうなったら「愛」「自由」を買うことはできたのかもしれない。

僕も彼も同じような末路をたどっていたのかもしれない。
知人を通して「自分のもう一つの未来の姿」を垣間見たような気がしました。

「1割の真実」だった関係

僕がITフリーランスになった当時、右も左も知らないのをいいことに
短期投資話を持ちかけられてお金を騙し取らたり

次から次へと怪しいビジネス話に乗せられ高額の怪しいものを買わされたり
「愛」なんてない、壊滅的な人間関係を構築していました。

実の親からは、お金の使い道や怪しいビジネスに乗っかったこと
フリーランスになったことを咎められるわで周りに誰も味方がいませんでした。

誰も心から自分を助けてくれる人間なんていなかった。

「メンター」とやらはいたかもしれないが
自分を含めて誰も自分を愛してる人間なんていなかった。

会社の人間なんてもってのほか。
「金を取るか取られるか」という損得勘定でしか縁がなかった。

誰が「真実」なのかわからないし、針のむしろでしかなかった。

そんな中で出会ったのが冒頭の知人。
お金での失策を帳消しにする方法を教えてくれたし
フリーランスになってどうすればいいかの不安も
知人の「知恵と経験」からくる処方箋で助けてもらったし
要所要所で人生相談にも乗ってもらった。

一言でいうと「恩人」でしかないし、実の親よりも信頼できる人だと思った。

知人がいなかったらここまでくるどころか
取り残されるのを苦にして、とっくにあの世に行く決断をしていたはずだ。

知人が「私を助けた」のも、仕事の一環でしかなかったとしても
嘘に塗りたくられた世界にいた私にとって彼の存在は「1割の真実」でした。

そんな知人が窮状に立たされている。

今後の日程のセミナーで学ぶであろう施術を活かせないか?そう考えました。

今まで実感が湧かなかった「誰かのために動こう」という動機が出たのは
僕にしてみれば、おそらく人生で生まれて初めてかもしれません。

他者貢献の気持ちは考えて生まれるものではない、感じて生まれるもの

今でも僕は「学び」というものに精を出しています。

結局同じ人間が何かを学びに行くので
どんなにこぎれいな言葉を取り繕ったところで
「学び」に執着する理由は、あの時と比べてそう大差はないかもしれない。

セミナーの時に「なんで学びにきたのか」と毎回聞かれることが
「私利私欲のみの理由で足を運びに来てはならぬ」とストッパーにはなっていますが。

行動原理としてはどうしても綺麗事で取り繕ってた部分はあったと思います。

やれ「他者貢献」だの「世界平和」だの言われてもそれは対岸の火事的な出来事なんだと。

自分自身が会社とか含めての束縛から「自由になりたい」という

私利私欲の部分は捨てきれなかったと思う。

もちろん今でも束縛なんてゴメンだと思ってるし完全に捨て去ったわけではない。

自分のためだけに前進してきたヤツがいまさら
急に他者貢献とかそういうのに目覚めた、と言うのは明らかに虫が良すぎる話だから

「生まれて初めて誰かに何とかしたい」なんて
もしかしたら、それはただの勘違いかもしれないけど。

今まで私利私欲を貪り散らかすしかできなかった自分が
長い人生で自分のためにしか働かず自分にしか興味を示さなかった私が
生まれて初めてヒーリングセミナーに行く理由として

誰かのためということを見出すことができた。

「やる理由」とは考えて生まれるものでなく、感じて生まれるものと思いました。

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