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句養物語 蓑虫篇③

二人は、また歩き始めていた。先ほどの二つのドアも、開閉の確認は行っていない。もしもドアが開く時があるなら、それがこの物語の終わる時ではないかと、二人とも無意識のうちに感じ取っていたのだ。だからこそ二人は決してこれを口には出さなかったし、開閉の確認もしなかったのである。

ところが残酷にも、その時は訪れようとしていた。二人はこのままどのドアも開けることなく、新しい俳句に出会い続ける旅を続けたかった。しかしどうやら二人は、白くて長い一本道の廊下の、端っこらしき地点に到達してしまったようだった。

状況を察したオッサンが口を開く。

「にーちゃん、これは行き止まりってやつだぜ。」

「はい。そのようですね…。」

太郎も同調するより他なかった。この廊下の一番奥にはドアがあり、そのドアをくぐれば先に進めるわけだが、二人はこの状況が意味するところを感じ取っていた。オッサンが『行き止まり』という言い方に至ったのも、太郎がそれに異を唱えなかったのも、そこにドアが二つあったからだ。二人は別々のドアをくぐらなければならないと、直感的に感じ取っていた。二人が道を分かつことは、この旅の終わりに等しい。だからここは、二人にとって『行き止まり』であるように思えたのだ。

二人は立ち止まって、少し躊躇していた。道は行き止まり、目の前にあるドアは二つ。これまでの傾向から言って、それは必然的に残っている『蛾』が二匹しかいないことを意味していた。二人は横に並んで立っていたから、それぞれの視線の先にドアがあって、それぞれ一つずつの折り紙がドアにかかっていた。そして、残った二匹の蛾は、二人の決心がつくのを待つかのように、それぞれの傍を舞っているのだった。

珍しく太郎の方から、オッサンを先導するように語りかけた。

「俳句はガソリンだって、確か言ってましたよね?」

オッサンは頷きながら応えた。

「そう。適度に補給していかないと、先に進めないんだ。」

太郎は、オッサンなら多分こう応えるだろうという予想をしながら、少し意地悪っぽく微笑んで言った。

「どうやら、あと二回しか給油できないみたいですよ。」

するとオッサンは間髪入れずに応えた。

「二回もありゃあ、充分すぎるってもんよ!」

太郎は満面の笑みで大きく頷いた。

「満タンどころか、溢れるかもしれませんね!」

二人は顔を見合わせて、それ以上の言葉は不要とばかりに、同時に前を向いた。傍を舞っていた二匹の蛾が、待ってましたと言わんばかりにドアの方へ向かっていった。二人は軽く深呼吸をして、心の中をリセットしつつ、その蛾が自分の前にあるドアの折り紙へと吸い込まれていくのを見届けた。

そうして二人は、ほんの数メートルの距離を一歩ずつ、一歩ずつ踏みしめながら進んでいき、二人同時に目の前の折り紙を開いた。

そこには、それぞれ俳句が一句ずつ記されていて、二人はそれぞれの目に飛び込んできた最後の俳句を、まずは鑑賞しようと試みた。

しかし、二人ともなかなか言葉を発しようとしない。手元で紙を広げたまま、微動だにしない。そのままどれくらい時間が経ったのだろうか。オッサンはふと、太郎の方を見遣った。

太郎は泣いていた。オッサンは反射的に、自分の句の方へ目を落としてみた。すると、自分の目からも涙が一滴落ちた。太郎が泣いているのは句の内容によるものだろうと、オッサンは勝手に推測していた。自分の方にある句は、一読して号泣するような調べではないのに、どうしてこの涙はこぼれたのだろうか…。一瞬そんな事を考えたオッサンだったが、答えはすぐに理解できた。これまでの傾向から言って、この二つの句はペアリングされているのだろう。片方の句が一読して泣くような内容なのだから、自分の方にある句は、あわせて一つの物語になった時に、悲しさを助長するものになるか、もしくは優しく包み込むものに違いないと、瞬時に悟ったのだ。一瞬先の未来を慮るようにこぼれた一滴の涙が、オッサンの手元の折り紙を濡らしている。太郎が口を開くまで、その物語の景は再生されない。自分の手元にある句は、果たして太郎の句が生み出した景を真正面から受け止めきれるのだろうか…。オッサンはそんな考えを頭の中に張り巡らせながら、太郎が口が開くのをじっと待つしかなかった。

一方で太郎は、自分の方にある句に完全に打ちのめされていた。そこに書いてある事が、彼にとっての『真実』に即していたからである。そして彼が、口を開くまでに時間を要したのは、その『真実』を記憶の底の底の方から、引っ張り出して来なければならなかったからであった。それは、忘れたままでも良かったのかもしれないくらい、辛い出来事だったのだろう。しかし彼はその真実と再び向き合う為に、大きく深呼吸をして、息を整えてから、ゆっくりと、その句を読み上げたのだった。


『蓑虫や父は脳死のまま生きて』

(恵勇)


太郎は小さな声で、しかしハッキリと読み上げると、紙に目を落としたまま、また黙ってその句と向き合い始めた。その想いが、太郎の声に乗ってオッサンの鼓膜へと入り、脳内で少しずつ景色が広がり始めた。白い部屋に、白いベッド、横たわる人、そして泣き崩れる人…。ある程度の映像が確保されたところで、オッサンは息を吐きだしながら、涙がこぼれないように天を仰いだ。自分の側にある句を読み上げて、太郎の景を受け止めてあげたい気持ちがある一方で、まずは太郎自身の気持ちを聞く方が先ではないか、オッサンはそう考えていた。しかし、太郎は気持ちの整理がつかないのか、依然として紙に目を落としたままである。オッサンは頭に広がり始めた景の流れを一旦堰き止めて、ここまで見てきた蓑虫の句から、言葉を拾い始めた。


「蓑の身のまま…」

「絶望の風…」

「千の鼓動…」

「脳死のまま…」

「…生きて。」


「蓑虫は…」


オッサンは、ふぅーっと息を吐いてから続けた。


「蓑虫は…生きてるんだよなぁ…。」

オッサンは、涙がこぼれないよう上を向いたままで、精一杯何かに抗うようにして、言葉の続きを絞り出した。

「蓑虫っていう季語は、中身が見えないっていう特性があるよね…。さっきからの鑑賞でもあったじゃない。生きてるかどうかすら、分からないって。でもさ、全部繋がってるからさ、この物語は。にーちゃんだって、さっき言ってたじゃない。『絶望の風も、命をこぼすまでには至らない』って。ボクたちがさ、ボクたち二人が、この物語を繋げてきたんだから。だからさ…。」

オッサンは一呼吸置いてから、結論づけた。


「だから、ボクは生きてると思う。」


オッサンの鑑賞を受け止めた太郎は、小さく頷いて、目線で何かを促した。

オッサンは、すぐに自分の番だと察した。手元の折り紙に視線を落とすと、紙はさっきよりもぐっしょりと濡れていた。まるで、雨にでも打たれたのかというくらいに。そして、オッサンは蓑から蓑虫をひねり出すかのように、意を決してその句を音に変えた。


『鬼の子の泣き出す朝に降る雨は』

(ヒマラヤで平謝り)


太郎は、ふっと光が差したような顔で言った。

「鬼の子は、蓑虫の傍題ですよね。じゃあ…この句の評価のポイントは、蓑虫ではなく、敢えて鬼の子を選んだことの…是非、です!」

オッサンは、ぐしゃぐしゃになった顔を強引に笑顔に戻しながら、応えた。

「先生の評価は…!?」

太郎はいたずらっ子のような笑みを浮かべて応える。

「それは、CMの後ですね。」

「えぇ~!?」

そうして、二人は腹から声を出して笑った。

オッサンには、鬼の子の句が太郎の句の生んだ景を受け止め切れるのか、という不安があった。しかし、すぐに太郎が鑑賞を返してくれて、無事に景は一つになることができたのだ。

二人はそれ以上詳しくは語らなかったが、お互いに同じことを考えていた。蓑虫ではなくて鬼の子がいてくれたおかげで、景の中に『親子』という概念を生み出す事ができた。太郎の句には『父』が出てくるので、物語を繋げることで、『鬼の子』の涙は筆舌に尽くしがたいリアリティを持って、読み手に迫ってくる。白い部屋に、白いベッド、横たわる人、泣き崩れる人…。そこには、いつもと同じような日常になるかもしれなかった『朝』が広がる。窓の外に降る『雨』は、果たして無情な冷たさを持ってその朝を包んでいるのだろうか。それとも、悔しいくらいに温かいのだろうか。『この涙』のように。


恐らく、太郎の句は過去に亡くした父への追悼句のようなものだろうと、オッサンは理解していた。それは、ペアリングされた句の鬼の子が泣き出してしまうという展開に、一つの解釈の余白を添えてくれていた。鬼の子はまだ悲しみの満ちた蓑の中にいる。もしかしたら空は、代わりに泣いてくれたのかもしれなかった。

オッサンの中に、ふと『病室』の光景が立ち上がる。誰かがベッドに伏していて、他の誰かが心配そうにしている映像が、脳裏を駆け巡った。

「にーちゃん、ごめん。ボク、こっちに行かないといけないみたい。」

オッサンは、自分の前にあるドアを指さして言った。

太郎はコクリと頷いてから、端的に応えた。

「分かりました。自分はこっちへ行きます。思い出した事があるので。だけど、最後に父の話を聞いて下さい。」

そういうと、太郎は徐ろに、自身の父について話し始めた。

「父は、俳句が好きでした。いろんなところに投句していたようで、いつも没ばっかりだって嘆いてましたけどね。」

「うん、うん。」

「色々教えてくれたりしたんですけど、戦果が伴ってないから鵜呑みにするなよ、などと言ったりして、いつも笑わせてくれていたんです。」

オッサンは無言で、しかし笑みを浮かべながら、最後の時間を楽しむように、太郎の話に耳を傾けている。

「確かに戦績は奮わないようでしたが、俳句に関する考え方は一貫していて、こんな風に言ってました。」

楽しそうなオッサンを見つめながら、太郎は続けた。

「句が没になるっていう事は、死ぬって事とはまるで違う。むしろ、生まれ変わるという概念に近い。入選するような佳句は、それで完成形かもしれないけど、没句は違う。生まれ変わって佳句になるための、第一歩目にいるようなものだ。没句には生まれ変われる余白が残されているんだ。だから、没句に対して最初にやるべきことは、その句をとことん鑑賞するってことだ。それで、とことん愛してやればいい。そうやって見つけた一番好きな所だけ残して、次の句に活かせばいいんだ。」

オッサンは食い入るように聞いていた。そして、早く早くと急かすように、こくりこくりと、頷いた。

「だけど、そうしてできた句が、また没になる可能性もある。何度生まれ変わっても、理想とする言葉になり切れないかもしれない。でも、そのプロセスは間違ってない。自分がその句の芯の部分を愛することができていれば、それでいい。」

太郎は父親の言葉を懐かしむように語っていたが、ついには完全に父親になりきって、その語り口を真似ながら、饒舌に話を続けた。

「父さんは、たまにこういうことも考えたりするんだ。没句単体でどうやっても詩が結球しない場合は、没句同士を引き合わせることで、お互いに共鳴し合わせて、新しい物語に昇華させることもできるんじゃないかって。異なるアプローチがぶつかり合って、生まれた摩擦から火花が散るって感じがするんだよ。そんなわけで、父さんは俳句のお友達から没句を預かったりしてるんだ。大きなお世話かもしれないけど、なんとかして、生まれ変わらせてやれないかって思って。」

オッサンは目を丸くして聞いていたが、自分たち二人は、太郎の父が言っていることを体現してきたような気がしてならなかった。

一方で太郎は、父親の言葉を吐き出してすっきりしたのか、満足そうな表情を浮かべている。そして、何かを悟ったようにして、今度は父親へ語りかけるように呟いた。

「父さん、蛾が蝶に生まれ変わったとしても、その本質は変わらないよね。光に群がっていく蛾も、花野を舞う蝶も、生きたいように生きているだけだ。」

オッサンは、一際大きく頷いて、こう付け加えた。

「蓑虫だって、バッチリ生きてるしね!」

太郎は笑顔でオッサンに向けて一礼すると、前を向き直して言った。

「蓑虫は、ここでまだ生きてる。」

太郎はそう言って、目の前のドアに手をかけた。それと同時に、オッサンも自分の側にあるドアに手をかけた。両方のドアノブは、二人の手が捻る方向に力を逸らしたかと思うと、二人を中に引き込むようにその身を開いた。

オッサンのドアの内側は、二人が歩いてきた長い一本道と同じように、白い光に包まれているようだった。一方、太郎のドアは対照的に、真っ暗で何も見えないような闇に包まれているようだった。

オッサンは何かに駆られるようにして、一気にドアの内側へと踏み込んでいく。太郎も真っ白な空間から真っ暗な闇の中へと、その身を放り込むようにしてドアをくぐり、そして二人は同時に、それぞれのドアを閉めた。


そこは真っ暗という言葉では足りないくらいに、完全な闇が支配している空間だった。太郎は自分の身体を認識することすら憚られたが、自分の口元が微かに緩んでいるだけは分かった。目を開けていても埒が明かないので、いっそ目を瞑ってみることにした。すると程なくして、上の方にぼんやりと月の灯りが見えた。太郎は目を瞑ったまま、月灯りに導かれるようにして、歩き始める。やがて、月光が何かを照らしていることに気づいた。それは、そこら中に転がっていて、月の灯りに呼応して、足掻くように光ろうとしているように見えた。

「父さん、これ全部…そうなの…?」

太郎は目を瞑りながらも、月光に照らし出された『詩の欠片』を拾い始めた。永遠に続いていくかのような闇と、決して手の届かない月が、そこにある膨大な量の『詩の欠片』を湛えていた。太郎はふと、あの日の事を思い出していた。

父が脳死判定を受け、身体的な死がそれに追いつくのを待つという残酷な運命を、太郎は受け入れられずにいたのだ。『脳死のまま生きて』という言葉は、そのままでもいいから、とにかく生きていて欲しいという気持ち…どうすることもできない複雑な気持ちが生んだ、太郎自身の言葉だったのだ。

しかし今、太郎は心底驚いていた。ここは、死んだはずの父親の脳の中だ。

機能が停止した脳内に、無造作に転がっている『詩の欠片』。

その欠片を繋ぎ合わせて、結球させようとする『月光』。

この瞬間、太郎は悟った。自分にできることは、脳死を受け入れてその人生を終わらせることではない。最後の1ページにある言葉を一つ残らず照らし出し、それらを組み合わせ、『物語』を継続させることだ、と。

そして今まさに拾い上げたいくつかの欠片が、優しい光を受けて結球しようとしていた。

父親の声をなぞる様にして、太郎がその句を読み上げる。


『月影や脳死は永き終の頁』



句養物語 蓑虫篇④ 

再び現代パートに戻ります。お楽しみに。


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句養物語エクストラ 月影の小部屋
















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