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句養物語リプライズ『箱』

私は心底生きるのが嫌になっていた。こんな人生なら、とっと終わって欲しいと、毎日のように思っていた。私は、この世に存在する全ての人間の中で、私という人間が最も嫌いだからだ。

その理由については枚挙に暇がないし、説明する気も起こらない。それは私自身のせいでないのかもしれないが、私が個人的に恵まれない境遇であるのか、これが現代社会における「普通」の状態であるのか、もはや興味がないし、分かろうともしていない。


いずれにせよ、自分ではどうする事もできない。気がつくと、私は新宿のガード下にいて、まるで興味もない占い師の前に勢いよく座ると、半ば憂さ晴らしのつもりで、千円札をバンと置いたところだった。


この占い師、フードのような被り物をしていて表情が窺い知れないが、こちらも長らく女性をやっているので、なんとなくこの人も女性なんだろうと察する事はできた。


せっかくの秋の夜長なのに、忙しそうに新宿を闊歩する人々は、私にも占い師にも関心がないのだろう。もしかしたら見えていないのかもしれないと思うくらい、スタスタと辺りを行き来するばかりだ。


この占い師が何かテキトーな事を言い始めたら、その言葉尻を掴んで論破してやろうかな…。私は、密かにそんな事を考えていた自分にふと気づいて、そんな女は早く生まれ変わってしまえばいいのにと、自虐的な観念に苛まれていた。しかし、占い師は私の顔を見るなり言ったのだ。


「あなたの事は占えないから、この千円は要らない」と。


私はムッとして応えた。


「私は客なんですよ。どうして占ってもらえないんですか。」


すると占い師は、こう切り返してきた。


「すぐに死のうと考えるような人の未来を占って、何の意味があるんです?」


私は耳を疑った。この人は、ほんの一瞬私を見ただけで、私が生きることに疲れていると見抜いたのだろうか。しかし、それならそれで、余計に面白くない。ずっと抱えてきたこの苦悩を、見ず知らずの他人が簡単に理解できるはずがない。私は苛立つ気持ちに任せて、ぶっきらぼうに言い放った。


「私にはお金を払う意志があるんだから、あなたは占い師らしく、さっさと占ってくれればいいでしょう。」


すると占い師は、私の言葉には反応せず、黙って小さな箱を差し出してきた。私は咄嗟にこう応えた。


「何ですか、それは。そんな怪しいもの、買いませんからね。」


それを聞いた占い師は、うつむいたまま、フードに包まれた表情を見せることなく、話し始めた。


「ここから10キロほど歩いた所に、池があります。近くにベンチがありますから、そこに腰掛けて、この箱を開いて下さい。目的地に着くまでは、開けない方がいいですよ。」


私は理解に苦しんで、すぐに口を挟んだ。


「訳が分かりません。ここから10キロって、一体どっちの方角ですか。」


すると占い師はこう応えた。


「どっちでもいいですよ。あなたの人生なんだから、あなたが行きたいように、進めばいいでしょう。」


私は理解が追いつかなかったが、とりあえず何かに駆られるようにして、その箱をふんだくると、占い師の顔を振り返ることなく、ひたすら歩き始めたのだった。


私は、この辺りの地理に詳しいわけでもないし、何もかも嫌になっていたから、もうどうなってもいいやとばかりに、自分の身体に全ての運命を委ねた。10キロという距離だけは分かっているのだから、2〜3時間も歩けば、それなりの距離に到達するだろう。そう考えて、歩を進めた。


時計を見るのも面倒臭いので、どの方角にどれくらい歩いたのか、自分でも分からなかったが、私は確かに池に着いた。真夜中になっていたから、ここがどこだか判断することもできなかったが、もはやそんな事はどうでも良かった。我ながら、よく箱を開けずにここまで来たものだと、自分で自分を褒めたい気分だった。


月明かりが池を照らしている。水面は微かに揺らぎながらも、その身に月の姿を映し出した。今、水面にはその月が一つと、なんとも惨めな女の顔が映っているだけである。


私はその憎たらしい顔を一瞥してから、ベンチの背もたれに身を預け、感情に任せてその箱を開けた。


すると突如として、箱の中から一面の闇の中へ、夥しい数の光が放たれたのだ。




『秋蝶の飛んで鱗粉光る夜』

(鈴白菜実)




私はベンチに身を預けたまま、その光景を只々見ていることしかできなかった。手元の箱からは次々と蝶が出てきて、闇の中を羽ばたく度に、光り輝く鱗粉が辺りに撒き散らされた。眼の前にあるはずの水面は、その輝きを映すのに精一杯で、さっきまであった月が、もうそこに入り込めないほどだった。

一体それはどれくらいの時間だったのだろう。手のひらに収まりそうなくらい小さな箱から、考えられないほどの蝶が闇へと放たれた。そこから飛び散った鱗粉は、心の闇を振り払うかのように、私を包み込んでくれた。


気がつくと、空は白んでいた。辺りに蝶の姿はない。まるで夢でも見ていたかのように、呆然と空を眺める私がベンチにいるのみだ。


手元の箱は、その中身を全て吐き出し、何やらスッキリとした表情に思えた。私は、ふとあの占い師の事を思い出して、立ち上がった。ここがどこなのか、新宿がどっちなのか、俄に判断は付かなかったが、道路標識などを頼りに、とにかく私は歩いた。電車を乗り継ぐという選択肢は、頭に浮かんで来なかった。ここまで歩いて来れたのだから、また歩いて帰ればいいだけだ、単純にそう思ったのだ。


私は行きと同じ道を通ったわけではないし、昼と夜との違いもあったが、昨夜と今日では歴然たる違いがあった。その最も顕著な違いとは、目に入るあらゆるものに興味が湧いたという事だ。今まで気にしたことがなかったが、目的地の新宿へ辿り着くまでにかなりの数の公園があって、思ったよりもはるかに緑が多かった。草花はどれも同じように見えて、一つ一つ違う趣きを持っていた。蝶が飛ぶ度に、昨夜箱から出てきたものと同じ種類かもしれない、と関心が高まった。目の前を鳥が飛び過ぎると、蝶と鳥とはシルエットや飛び方が全く異なるのだと、初めて気づいた。とある駅前では、大きな木に鳥の群れが羽を休めているのを見た。次の駅ではまた違う木が植えられていて、木も鳥も、それぞれ種類が違う事も分かった。空には鳥が飛んでいるだけでなく、雲が浮かんでいる。それは私が少し虫や花に気を取られているすきに、いつのまにか形を変えていたり、あるいはなくなってしまったりしていた。


私はいつの間にか、私が生きているこの世界に、興味を持つことができるようになっていたのだ。生きるとか死ぬとか、そんな事はもはや脳内に入り込めなくなっていた。あの占い師にお礼を言わなければ…私はそう思っていた。


新宿のあのガード下に辿り着いた私は、昨夜の占い師を探したが、彼女はもういなかった。辺りで聞き込みをしてみたりしたが、有力な情報は得られなかった。私は、私を囲んでいるあらゆる自然を見ることができるようになった代わりに、一人の占い師を見失ってしまったのだ。


昨日までの私なら、喪失感に苛まれていたかもしれないが、今の私はそうではない。空を見上げて、雲が流れていく方へ、自然と歩を進めた。雲は、一際高くて、2塔の連なったビルを追い越していくようだ。それが『都庁』であると、私は初めて知るのだ。そして、こんな東京のど真ん中にも、公園があるのだということも。


私の目に、くずかごが飛び込んできた。私は手元の箱に目を落としたが、箱はなんとも退屈そうにしているように見えた。私はふと思い立ったように、箱をくずかごへ投げ入れた。あの占い師に返す事ができない以上、持っていても仕方がないのだ。空になった箱を持ち歩いていても、あんな不思議な体験は二度とできないだろう。それに、私がこれから得るであろう感動は、あんな小さな箱には収まりきらないだろうから。

人工的であるとはいえ、ここにも池がある。辺りには人間ばかりが行き来しているようだが、よく見ると虫や鳥は、身近にたくさんいるのだった。ふと見上げた空には、真っ白な月が浮かんでいる。私は、こんな真っ昼間から月が見られるとは思っていなかったので、しばらくその月を見上げていた。そして、ゆっくりと池へ視線を落とすと、水面にはその白い月と、見たこともない表情をした私の姿が映し出されていた。


「綺麗……」


昨日までの私が嘘のようだが、私は確かに、そう呟いたんだと思う。




『嫦娥なる天女の君や水鏡』

(風早杏)





【句養物語リプライズ『箱』】


企画・執筆 … 恵勇

俳句提供 … 鈴白菜実、風早杏

※敬称略



【句養物語 流れ星篇】


物語本編の起点です。誰かに紹介したくなってしまった人は、このページを教えてあげて下さい…



【句養物語エクストラ】


本編の読後企画として、ABCのそれぞれの企画へご参加頂けます。応募期限は、作者が飽きるまで!


【句養物語リプライズ】


こちらのページでは、読後企画の参加返礼として、提供された俳句を使ったショートショートを順次公開しております。


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