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『流れ星のゆりかご』 制作秘話 #2



うまのはなむけ × こじょうゆうや

二人展 『流れ星のゆりかご』


会期:2 0 2 1 . 1 1 . 2 4 (水)ー 1 2 . 1 9 (日) 月と火はお休みです

時間:1 2 時 ー 1 9 時 (1 5 時以降は予約制・1 枠 3 0 分程度)

場所:KOUSAGISHA GALLERY
   京都市左京区浄土寺上馬場町 113 木のビル 1 階






本展の物語、『流れ星のゆりかご』は全3章+エピローグで構成されています。物語を書いていると言っても、ぼくは自分で創作している感覚が一切ありません。

何をもって創作というのかがわからないので、いつもぼくが何かしらの物語を書くときの道筋をざっくりお話しします。ぼくは有名な作家ではないし、俗に言う成功者でもありませんから、How to という意味合いではなく、単純に「ああ、こじょうゆうやってそういう人なのね」という視点で、ここからの記事をお楽しみいただけたら幸いです。

スピリチュアルな感性を、物質世界における日常生活や表現活動でどう生かしているかの一例、と言えるかもしれませんね。




つくらない物語



1. きっかけと出会う

今回の物語の場合であれば、きっかけはいくつかあります。


・うまのはなむけ
・KOUSAGISHA GALLERY
・海
・龍
・木彫りのタツノオトシゴ


『流れ星のゆりかご』はこの5つの要素から生まれました。書き始めの段階で、ぼくは木彫りのタツノオトシゴの声に耳をすませながら、他の4つの要素も感じていきました。ちょうど今思い浮かびましたが、もしかすると料理のレシピに似ているかもしれません。


2. きっかけを混ぜ合わせる



・小麦粉
・塩
・砂糖
・ベーキングパウダー
・水


先述のきっかけを言い換えたらこんな感じでしょうか。その素材をボールの中で混ぜ合わせるようなイメージです。きっかけが十分に混ざり始めると、日常生活のあるところから、ふわふわと物語の断片が写真や短い映像、音(響き)などで浮かび上がってきます。


3. 呼吸を合わせて、少しずつ手繰り寄せる

『流れ星のゆりかご』の場合は、まず最初に「流れ星のゆりかご」という言葉が木彫りのタツノオトシゴから聞こえてきてすぐに海の中が見えてきました。見える聞こえると言っても、目や耳で捉えているというよりは、もうちょっと内的な感覚がベースです。

目や耳 1〜3 : 内的な感覚 7〜9


だいたいこんな割合です。ぼくの場合、目や耳でも捉えられるようになってくると、焦点を当てている対象と相当にピントが合っている状態だと言えます。今回の物語に関して、最初のうちに目や耳で捉えられたのは1〜2くらいだったので、内的な感覚を主として手繰り寄せた印象です。

海の中の様子は、とっても静かでした。潮の流れに乗って、海の中のあちこちを巡りながら、きょろきょろあたりを見渡していました。でも、相当深いところにいるのか、たまに生き物の気配を感じても、ほとんどと言っていいほど何も見えずにいました。ただ深い青の世界に包まれていたのです。

その状態をいつどこで体感しているのかと言いますと、日常生活のそこかしこでです。車の運転中とか、薪割りの最中とか、何か音楽を聴いている時とか、お風呂に浸かっている時とか、例を挙げればキリがありません。

そのようにして日常生活の中で体感していると、徐々に、目や耳で捉える外的な感覚と、内的な感覚の呼吸が合うように、混ざり合っていきます。この状態が出来上がってきた時に鉛筆やペンを持って紙と向き合うと、文字や言語、簡単なイラストなどが立ち現れてきます。いわゆる、自動書記なのですが、もちろんそれだけでは物語として成立しません。

ここからがいよいよ、執筆の始まりです。



4. 意図や判断を入れずにじっくり観察する


いよいよ、本当に時間がかかるフェーズに突入します。

ぼくは基本的に物語をつくる・・・ことはしません。キャラクターに名前がある時もない時も、自分で考えて生み出すわけでなく、ぼくという人間の表面に浮かび上がってきたものだけをただただ実直に抽出していきます。

この時、ぼくの中に存在しているエゴ(意図や判断)が加わると、あっという間に執筆は破綻します。

浮かび上がってくるものは、絶対にと言っていいほど、とにかく純粋無垢で清廉潔白です。ですから、少しでも思考(エゴの影響を受けやすいひとつ)が加わると、あっという間に汚れだけが際立って目立つようになります。

でも、汚れは別に悪いものではありませんから、その汚れを生かした作品づくりもできるのでしょうけれど、ぼくが興味あるのは、内的世界からもたらされるイノセントな物象なので、ぼくのエゴによる汚れが見え始めたらたとえ何枚書いていようと一度全部消します。

ぼくのエゴでよく出現するのは「きれいにまとめたい」とか「美しい描写にしたい」とか「何かカッコいいフレーズはないか」とか、そういう類の虚飾です。

いかにもエゴっぽいですよね。でも、それを含めてものづくりしたって何も悪いことではありませんし、むしろそれを通じて絞り出して生まれる名作だってあるでしょうから、良い悪いの話ではなく、単純に好みの話なのでしょう。

ぼくは目に見えない世界に存在する、無尽蔵の、信じられないほどの美しさを、そのまんまの状態で言語化することを目的として書き物をしているため、そのような向き合い方になっているんだと思います。

そこでぼくはエゴが存在できない領域に移動します。
その領域こそが「今この瞬間」です。

連続する(ように思えるかもしれませんが、そうではなさそうです)今この瞬間に、ただ浮かび上がるものだけをじっくり観察し、それを描写し続けると、エゴ(意思や判断など)は入りようがありません。同時にその領域は感情も入り込む余地がありません。

そこでしっかりと描写ができれば、「きれいにまとめたい」とか「美しい描写にしたい」とか「何かカッコいいフレーズはないか」とかの虚飾は必要なくなり、むしろ虚飾の対義である「実像」が浮かび上がるのです。

その「実像」をぼくは「本質」とか「真実」などと呼んでいます。



5.  立ち位置を変える



「今この瞬間」という領域で、エゴのない観察を続けて、そこからいくつもの描写を書き出したとしても、読み返してみると「おや?」と違和感を覚えることは本当によくあります。

書き出した達成感で、その「おや?」に気づかずに公開してしまうと(よくやりがち)、当たり前ですけど、読者さんの「おや?」につながります。ですから、書き出したものを二度と読みたくなくなるくらいにまで何度も、時間をかけてゆっくりと読み返すことを、描写と並行しておこないます。

ここがぼくにとっての最難関で、ものすごく苦手で、面倒くさがるところです。自分の中ではすんなり描写しきっているからか、「おや?」を感じられないことが多々あります。

ですから、ここで、できる限りいろいろな立ち位置から読み返すようにします。おじいちゃんおばあちゃん、子ども、働き盛りのサラリーマン、工事現場のおじちゃん、女子高生、and so on ...

そのために、ぼくとは別の存在である彼らと同じ立ち位置に立とうと、ありとあらゆる工夫をこらします。

若者に人気のアイドル(最近はBTSさま頼り)、または世界的なアーティストの音楽や、歴史に残る優れた楽曲を聴く(HIPHOPからクラシックまで)、スナック菓子やカップラーメンを食べる(これはぼくが食べたいから笑)、スポーツ全般の映像をYoutubeなどで楽しむ、などなど、自分の身体を使って、世の中の本流に向かって飛び込んで、そこでひとしきり遊びます。

その直後に物語を読み返すと、不思議なことに「おや?」に気が付きやすくなります(あくまでも個人の体感によるものです)。

この行程は信じられないほど時間がかかります。自分勝手でひとりよがりな文章を書くのであれば、時間をかけずにサクサク仕上げてられますが、ぼくの場合はもともと文学的素養がないため、この道のりをしっかりと歩まないとなりません(今のところ)。


読みにくい部分は多々あるかもしれませんが、物語を書く上でぼくが取り組んでいるのはこの1〜5です。

ここでぐいっと話を戻しますが、木彫りのタツノオトシゴから見えた海の中の世界で、ぼくはマッコウクジラのラッタンに出会います。そこでラッタンが教えてくれた「海の記憶」は、ラッタンの実体験も含まれていました。

それでは、次回の記事から『流れ星のゆりかご』のストーリーをネタバレのない範囲でおはなししていきます。

こぼれ話ばかりになりそうですが、次回もまたお楽しみくださいませ。


(続)

あたたかいサポートのおかげで、のびのびと執筆できております。 よりよい作品を通して、御礼をさせていただきますね。 心からの感謝と愛をぎゅうぎゅう詰めにこめて。