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2020/6/19の星の声

夏至を迎えるまでのわずかな間に



こんにちは。こじょうゆうやです。
最近のぼくは相変わらず田畑のしごとで充実する毎日を送っています。
みなさまはいかがお過ごしでしょうか。

さて、もうすぐ夏至です。
よく使う言葉ですが、「いよいよ」と言っていいかもしれません。
すでに、夏至以降のそれぞれの世界の兆候が出始めている方も多いのではないでしょうか。
どうやら、2020年の夏至は、胸の高鳴りが抑えられない大きな節目となりそうです。


最近聴き取っている星々の声を正直にお伝えすると、ちょっと嘆きに近い感覚があります。


「(わかってはいるけれど)ああ、そうですか」


というため息混じりな様子です。これは特に、地球に近い太陽系の星々、近い次元の星々から多く感じます。もっと次元が高くなると、そんなことまったく気になりません、という感じです。
とはいえ、どの星々も心底落胆しているわけではないようで、あっという間に切り替えて次のアクションに移ろうとしている状況のように見えます。

彼らはどうして嘆いているのか。その声を手繰っていくと、普段の彼らからは想像しにくいような、ちょっと厳しい印象を受けました。


「この素晴らしい流れを目の当たりにしても、何にも感じないんですか?」

「自由意志を捨て、他者にひれ伏して生きていくことを選ぶのですか?」

「正気、ですか?」


ぼくが星々の声を感じ取ってきて、こういう声を聴いたのはおそらく初めてです。星によってはずいぶん強い言い方をするなあと感じるときもありましたけれど、たくさんの声がこのように出揃うことってよっぽどな気がしてます。

そしてこの声は、国や社会に向けられているものではなく、全人類ひとりひとりに向けられているようなので、なんだか背筋がピン!と伸びるような、目が醒めるような、そんな感覚です。
ただ、誤解を招かないように、すこしだけ声を大きくしますね。


星々は、あらゆる人々の現在地を否定しているわけではありませんっ!


彼らそれぞれの声から共通して受け取れるのは、


「そこがほんとうにあなたにとってのどんぴしゃりな行き先ですか?」

「もう一度よく見直してみてください」



という再確認の響きです。
これは歴とした機会(チャンス)だと感じます。
行く先とはつまり「将来」とか「自分という存在」とか「次元選択」とかそういうイメージです。

今一度『2020/3/27の星の声』『2020/4/10の星の声』をご覧いただけると、そのどんぴしゃりな行き先について、ちょっと感じ直すことができるかもしれません。もしご興味あれば読んでみてくださいませ。

で、特に夏至を迎えるまでのわずかの間が、個人的な感覚としては素晴らしいタイミングになる気がしています。

夏至を越えると、冬至に向かって日中の時間が少しずつ短くなっていく中で、行く先への微妙な誤差を少しずつ感じにくくなっていくみたいですから、今、どんぴしゃりだと思える方向性さえしっかりと感じること(体感、実感)ができていれば、あとはその方向性への奥行きが深まって広がっていくことにつながるのかもしれません。

ぼく自身、この星々の声を自分ごととして感じる中で、夏至という節目までに終えること、見直すことがいくつも出てきています。残り短い間ですが、ぼくの中で針の穴を通すようなピンポイントどんぴしゃりの手探りはまだまだ続けていくつもりです。この時期の固定化は、とても気をつけています。

ただいまは、そんなことに適しているタイミングのようです。このことは、おそらくキンボの中でわざわざお伝えしなくても、すでに個人レベルでいろいろな出来事が起こっているでしょうから、あくまでも再確認事項として、感じ取っていただければ幸いです。

星々は「夏至までの見直し」を促している、というのが今週の大きなポイントだと感じます。とにかく、まったなし感が強烈すぎるんです。




私は、世界の王になる




「夜明け前の世界を、じっくり見るといい」

明後日、あらんかぎりの太陽の祝福とともに王位につく私に対して父はそう言った。私には父の言葉の意味がよくわからなかった。約半世紀にわたり父が治めてきたこの世界では、いまだに民族間や宗教間での対立が根深く残り、在位中のほとんどの時間を父は闘争の中で過ごしてきた。満足に心身を休めることもなく、ただただ、この世界のために王位を守り続けたのだ。

私は王である父の背中を見て育った。すでにこの世を去った母の分まで、心身ともに私の成長を支えてくれた父の言葉を十分に理解できないことに、私は自分自身に対して心底腹が立った。私には父と同じ景色が見えていない。父のように、世界のために王であり続けることができないと烙印をおされたような気持ちだった。

おそらく、そんな私の胸中を察したのだろう。父は太陽のように笑った。

「お前は、少々勘違いをしているようだな」

その言葉も、私を困惑に導いた。父が言葉を放つ場所と、それを聞く私がいる場所は、信じられないほどに遠い。すぐそばに、手の届く範囲に立っているのにも関わらずだ。そのことを、私は父に正直に打ち明けた。すると、父は深い皺を刻んだ顔を崩して、大声で笑った。

「私が、お前の母君に感じていたこと、そのままだ」

父は降りしきる雨音に耳をすませ、薄明るい曇り空の下に広がる街並みを眺めながら、次のように言った。

「世界は、王である私の選ぶ言葉、行動ひとつで、驚くほどに変わった。たとえそれが些細なことであったとしてもだ。これまでに、私は王としてできるかぎりのことをしようとしたが、失敗は数えきれず、付きまとう後悔の念はその数以上にある。しかし、私はこの世界に何度も救われた。まるで約束をしたかのように、昼と夜は繰り返し訪れ、不規則に晴れたり曇ったり、このように雨が降ったり、そうやってこの世界は絶えず変化を繰り返しながらも、私の存在を許容してくれていると思えた。私が、王であり続けることができたのは、間違いなくこの世界が存在しているからなんだ」

一言一句、聞き漏らすまいとして、私は父の言葉にじっと耳を傾けた。父は大きく深呼吸をした後に、私に向き直った。

「王の務めは、支配や統治ではない」

その言葉に、私は思わず驚きの声を漏らした。父は私に構わず続けた。

「自らの心の声によく耳をすまし、それと同時に、自らの目に映る世界をよく観察する。その際、あらゆる存在に敬意をもち、感謝を忘れてはならない。そこで初めて、王の前にはいくつもの選択肢が現れる。その選択肢を注意深く慎重に、丁寧に選び抜くことこそが、王の務めだ」

そこまで言って、父は私を見てまた顔をほころばせた。

「だから、お前は勘違いしていると言ったんだ」

王という立場で、尽きることのない闘争の中心に身を置いた父から伝えられたことは、私の考えの天地をひっくり返すものだった。加えて、父は私の最も根本的な悩みをも深い愛とともに包んでくれた。

「王に、性別は関係ない」

重たすぎるほどの肩の荷が降りた瞬間だった。私はこぼれ落ちる涙を止めることができなかった。父は大きく広げた両腕で、むせび泣く私を抱き寄せ、厚みを失った胸の中に包んだ。

「私は、お前の気持ちを察することはできたとしても、お前が感じているほどに理解することはできない。そのことは、本当に申し訳ない」

父の腕に力がこもった。私はその温もりに浸るように身を委ねた。

「お前は、私ではない。お前はお前のままでいなさい」



父と過ごした貴重な時間を経て、私は王になった。
父から授かった新しい冠は、私の希望通り、父の冠と同じ形をしていたが、八つの蒼玉が散りばめられた美しいものだった。

私は私であり続けるために、いつも父の姿を思い出した。そうすれば、私は私のままでいることができたからだ。王となってから十年近い歳月が経った今でも、私は父の視線を草の陰からよく感じていた。

「お前がほんとうのお前であるとき、お前が世界なんだ」

そう言って、父は微笑みかけてくれている気がした。その隣でうなずく母の姿も感じた。もしかしたら、あの時私が父から教わった言葉は、母から父に伝えられていたものなのかもしれない。そう感じると、うっすらと目を細める母の隣で、顔中を皺だらけにして頭をかいて笑う父の顔がふと浮かんだ。



決意に至る違和感


2020年夏至スペシャルに合わせて、最近あちこちからいろいろな声が飛んできます。すべての声が吉兆を表すようなものですが、その中でも特徴的だなあと感じることとしては「決意」があります。

「決意」は選択肢を選ぶときに発生する貴重な意識づけです。通常の選択とは意識の細やかさが異なるように感じます。そんな「決意」をなさった方々に、何だかものすごく大きな進展があったように思う昨今です。

宇宙は今、それぞれの「決意」を促しているのかもしれません。住環境、仕事環境の一新、人間関係の一新、表現方法の刷新などなど、ありとあらゆる決意をしやすい頃合いだと感じています。

特にこの時期、違和感はものすごく強烈に起こるはずです。決意と直結するような違和感を覚えた際は、できるかぎり静かな環境を自分自身で準備して、自分自身の内側と向き合うことに意識を集中してみるのもいいかもしれません。

また、「決意」と混同する可能性を感じているのが、「決断」です。そんな些細な言葉の表現に気をつけていられない、と思われるかもしれませんが、ぼくはここに落とし穴を感じたため、ちょっとお話しします。
(その落とし穴は自分でこしらえた自作自演環境で、他者は関係ないです)

「決断」というのは、ジャッジメントが入ります。耳にタコができるほどに何度も用心をお伝えしておりますが、ジャッジメントというものはほんとうにほんとうにお気を付けいただきたい、ということです。もちろんそれはぼく個人のお願いではなく、星々の声をそのままお伝えしています。

ジャッジメントは「正義感」「頑固」「原理主義」などと密接に関わっているようです。何度も言いますが、それらが悪いわけではありませんからね。良い悪いでの判断は、意識の固定化や思考との癒着につながるため、これからの地球を楽しむ上で、しっかりと自分自身の意識下で感じていただくのがいいと思います。ジャッジメントの否定にもご用心ください。モトノモクアミのようなものです。

例えば、「ぼくは◯◯するんだ!」という意図を含んだ決断をする場合は、星々が言うには、◯◯に向かう上で少なからず意識の柔軟性が失われるのだそうです。これはほぼ必然的に起こるように感じます。

かと言って、意図することを安易にジャッジメントして、意図なんかするもんか!ってならないようにご注意くださいね(笑)

意図があるからこそ生み出されてきた素晴らしいものがたくさんあります。この地球だって、星をつくる存在による意図が入って創られた星ですから、意図はまったく悪いものではないんです。

あくまでも、意図することによって意識の柔軟性が失われることに対する注意が必要、ということだと思います。特に人間の意図はジャッジメントがベースになっていることが多分にあるようですから、そのような意図の場合は特にご用心!かもしれません。

でもそんなこと言われたら意図しにくいでしょ!と思われる方もたくさんいらっしゃるはずです。しかーし、そんなぼくたちには朗報があります。

なんでも、意図を遥かに凌ぐ高精細な意識感覚があるそうで、今後は意図を超えたその感覚を重視すると意識の自由度を失わずに済むようになる、とのことです。

それが「純粋意識」です。

ぼくはこの言葉をたった今初めて使いました。いろいろと調べてみましたが、すでに瞑想法などでその意識が存在することはわかっているようですね。ただ、今回は、ぼく自身が内的感覚を通して、星の声を通して言語化した「純粋意識」の話をします。

この章のテーマは「決意」ですが、それは純粋意識と極めて密接な関係があるそうなので、このまましばらくお楽しみいただければ幸いです。

さて、純粋意識とは真我と呼ばれる悟りの極地的な状態を表すそうですが、今インターネットなどにある「純粋意識(真我)」の細々とした説明は、ぼく自身もそのひとつひとつを感じてみましたが、ほとんど違和感を感じませんでした。強いて言うなら、まだ言い足りてないなあと感じたくらいです。それもそのはず、言葉に置き換えるには相当に難しい領域なのでしょう。実際に、今のぼくにはちょっと困難です。

ただ、その純粋意識は、誰しもが、今この瞬間で感じることのできる素晴らしい意識状態のように感じます。
もしその状態が獲得できなかろうと、獲得できたところで刹那的であろうと、あるいはある程度持続することができようと、決して優劣の対象にはなりません。はっきり言うと、ジャッジメントできるような次元の状態ではない意識のようです。神意識とも言えるかもしれません。
(言葉は適当ですから、あんまり気にしないでくださいね)

では、それはどうすれば感じることができる意識なのでしょうか。

ぼくがキンボなどでお伝えしている言葉(メソッドではありません)で表すと、

「もよおし、違和感に忠実に」

「自己一致」

だと感じました。

正直なところ、メソッドは百者百様です。瞑想で感じる方もいれば、滝行みたいな修行の中で感じる方もいるでしょうし、スポーツ中に「ゾーン」的に感じる方もいれば、自他を愛する際に感じる人もいるくらいに、あらゆる人の営みの中で十分に感じうる意識なのかもしれません。

純粋意識に至る、寸分違わぬ自己一致は、日常生活の中でじゅうぶんに実現可能なのです。ですから、特別なことはする必要がありません。自分自身にまとう思考や意識のこわばりを、いかにほわっほわにやわらかくできるかが大切なのかもしれません。

不都合なループが起こる時に、ご褒美システムを採用するとか、
世界創造大工さんに依頼するための時間をたっぷりとるとか、
そんなこと一例ですが、それぞれができることは無限にあると思います。

で、この純粋意識の状態に、ある人が到達したとすると、その人はもう一切のジャッジメントを受けない領域の中で、この世界を生きることができるようになるそうです。
(ここでぼくは星々に、「ほんまかいな!」と口走ったことを白状します)

ある意味、生命と肉体を持った魂たちの最終目的地かもしれませんね。
そのあとも、その状態のままで人生を歩めるわけですから、奇跡の連続の日々になることは容易に想像できます。

昨年2019年の夏至以降に、地球上に誕生した「愛の世界」と呼ぶにふさわしい、可視化された愛の領域は、この純粋意識を基礎とするあたらしい世界のようです。

その世界では、あらゆる人が王になります。
そんな世界で生きるかどうかの問いかけの絶頂が、2020年夏至なのかもしれません。

もちろん、愛の世界に生きなくたっていいんです。
悟っちゃったら人生つまんないじゃん、と思うことはまったく問題ではありません。悩み苦しんで到達する世界の方が生きがいがあると言うなら、それを選べばいいだけだと思います。そもそも、ぼくたち魂は、まずその経験とともに、これまでの世界を生き抜くことを選んだわけでしょうから、これまで通りの選択を続ければいいのです。

ただ、このタイミングで生きることを望んで、この世界にやってきたぼくたちは、魂の目線で見たときに、果たしてほんとうのほんとうのところはどこなんでしょう。初めの章でおはなしした、


「そこがほんとうにあなたにとってのどんぴしゃりな行き先ですか?」

「もう一度よく見直してみてください」



というのは、そういうことなのかもしれませんね。自分の内側から表に出てくるものをよくよく見つめてみましょう。そこに魂の本望がはっきりと刻み込まれている気がしてなりません。

内側の観察を日常の中で徹底的にしてみると、もしかするとどんぴしゃりの方向性はわずかに違うところだったり、はたまた180度違うところにあるかもしれない、そういった諸々のことを感じ取るビッグチャンスが、この夏至を迎えるタイミングだと思います。







星々の挑発



さて、星々から言わせると、そんな大切な時期を迎えているぼくたち人間のほぼ全員が、何らかの勘違い、思い違いをしているそうです。そしてそのまま行こうとしているから、星々は嘆いているんでしょうね。


「この宇宙の歴史の中で二度とあるかないかわからないような、そんな貴重な瞬間に立ち会っているのに、あなたの選択肢、それでいいの?」


もはや星々の挑発にしか聴こえません(笑) ただ、それくらいの何かがあるんでしょう。ほんとうに、こんなこと今までありませんでした。

ぼく自身のガイドを担当している存在や、内的なぼく自身から言われることはあったとしても、まさか全宇宙参加型即興演劇をご観覧中の観客席からそんな声が聴こえてくるとは。いやはや、面白いですね。このままだとポップコーンの容器がポップコーンが入ったまま飛んできたり、ジュースを投げつけられたり、それがもし極まるとデモにまで発展しちゃいそうな気配です。


もし、こんな挑発を受けてカチンとくる場合、逆に何にも感じない場合は、おそらく星々の声のど真ん中の対象者であるかもしれません。ちなみに、ぼくは後者でそのようなことがキンボ執筆中に起こりました。

とほほ。


今回の声を聴くかぎりでは、できるだけ、静かに、穏やかに、
ご自身の持ち場において、夏至を迎えられることをオススメします◯

夏至以降、人々は本格的に目指した方向性に向かって変化を始めるでしょう。ぼくもまたその一人ですし、みなさんもきっとそうなると思います。

従来の意図ではなく、純粋意識にまで到達した意識状態による最高純度の意図で愛の世界を生きていくことが少しずつ始まる様子を、ひとりの主役として、ひとりの王として、ぼくは感じていきたいです。


今週は、そんなキンボです。






こじょうゆうや

あたたかいサポートのおかげで、のびのびと執筆できております。 よりよい作品を通して、御礼をさせていただきますね。 心からの感謝と愛をぎゅうぎゅう詰めにこめて。