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「人格形成における空想の意味」

こども図書館発行の雑誌のバックナンバーのなかに、そんなおもしろいタイトルの講演録をみつけ、あれこれ考えるきっかけになりました。

 昔話を読んでも、「ああ、よかったじゃん。」でさらっと終わってしまう現代っ子があらわれている?ラボライブラリーCDを、1,2回きいて、「聞いた。話はわかった。」とすませる子と同質のものかもしれない。
 昔の人が、自分の子孫に知恵として伝えようとした奥深さを秘めた昔話も
まるで、CMで途切れながら見るTV視聴後の感想のように軽く言ってすませてしまう。
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 ゆっくりと空想する時間を持たないことは、話を自分にひきつけて考える時間をもてないということ。

 現代は、生活がひどくせわしなくなっているので、お話しを聞いても、自分のイメージを生き生きと描いて、あれこれ考える、思いめぐらすということがない。そのための時間がない。
 自我は外的刺激を受け止めるだけで精一杯。自分で、刺激と刺激を組み合わせて、自分のイメージをつくりあげていくことができない。空想を豊かにしていくことができない。
 
 たとえイメージが浮かんでも、散発的で、分散、拡散しているままでは、自我に統合していない。
 語られた話のモチーフを自分でイメージにして、それに肉付けしていくこと、そのイメージをより生き生きした、自分にとって意味のあるものに仕立てていくことが、イマジネーション。
 人の話や物語を聞いて受け取ったものを、自分の中に深く引き入れて、自分の内的な世界と対話させて、自分に身近なものとして感じること。それが豊かな内面を持つということ。たとえば空想のなかで、恐ろしいものに何回も直面して、克服すること。おそろしいものも自分の世界にとりいれることができ、そして恐れないような人格構造ができる。その過程が大事なのに、今の人にはなかなかそれができない。内面が育たない。

 ユングいわく、「現代人の心は外へ外へと向かっている。」目に見える世界、さわれる世界だけを信用しがち。
 そうして、世の中があまりにも外向きになると、多くの人が、自分の内面に対して非常に弱くなってしまっている。内面をコントロールできずに、すぐにキレルのも、その現れ。
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 以上のような内容に、確かに・・・と思いつつ、ラボっ子(ラボパーティの生徒さんのこと)は、テーマ活動するときに、「自分の中に深く引き入れて」という作業をしてるなーと、思いました。
 ラボっ子も、いえ、いろいろなことに積極的に取り組めるラボっ子だからこそ、忙しい。でも、立ち止まって、昔話をはじめとして、先人が生きる智恵として与えてくれた物語を、自分の自我にひきつけて考えることは、テーマ活動を通して出来ている!ではないか。感動。

 冬の発表会で、ホッレおばさんのマルガレーテをやった小2の子のことを思い出しました。「マルガレーテそのもの!」との誉め言葉をいただいたのですが、彼女が、聞き込むに連れて、私に、いろいろな話をしてくれました。
 「私、この前、何のお祝いでもないのに、おいしいケーキを家族で食べたんだ。そのときね、なんだか、マルガレーテのこと、思い出しちゃった。
マルガレーテは、こんな風にケーキを、なんでもないときに食べたり
絶対できないんだろうなって。」そんなエピソードをいろいろと話してくれて、自分に十分にひきつけて、内面を豊かにしてのぞんだマルガレーテ役だったから、見ている人にも伝わるものが多くあったのですね。

 でも、ただ「ライブラリーを聴いて来てね。」というだけでは、やっぱり、その子のその時の状況によっては、全然、内面にひきつけて聞いてこれない。
 そんなときは、テューターの投げかけ、発信、導入が、その子が物語から何かを受け止め始めるきっかけになるために、一役買えるようにしたいものです。 

2006

「世界の美術館の画像を使いたい」&「過去記事で初心に戻る」ためアップするシリーズ

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