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小世界

 仕事がお休みの日は、つい昼寝に明け暮れてしまう。さまざまな夢を転々としているうちに夕方になっていて、空っぽの頭で食卓に向かう。家族と晩ご飯を済ませたあとで、今こうして文章を書いている。

 一週間のリズムは、どの週もほとんど似かよっていて、変わり映えがない。平日は朝から日暮れまで八時間まで働いて、休日は家でだらだら過ごしたり恋人と出かけたりする。先週の記憶はもう覚束ない。波のように時間は巻き戻り、繰り返された日々を生きているような気さえする。これって、生活がつまらなくなったってことなのかな?

 でも、勤め先からの帰り道や微睡むまでの静寂などに、この暮らしの脆さをふと想う。両親との別離をヒリヒリと意識する瞬間がある。今の仕事もずっとやれる訳ではないから転職を考えなければならないけれど、その時間は憂鬱を招いてしまう。単調な毎日の繰り返しで安心しきっているけれど、日常という、薄氷でできた平らな道の上で日々生きているのだろう。

 今の生活には、いちいち文章にするほどでもないような、心の微細な起伏があふれている。例えば、ある日急に、同僚とどうやって会話をすればいいのかが分からなくなるときがある。スポーツ選手がイップスに思い悩むように、何気ないやりとりができず、自信を失ってしまうのだ。そんなとき、自分が周りから疎外されているような哀感を覚える(職場から、共同体から、世界から…)。何かきっかけがあった訳ではないのに、自分のふがいなさに目を覆いたい、そして同僚さえも対岸にいるような淋しさを味わう。そうした状況から僕を引っ張りあげてくれるのは、身近な人たち。家族と食卓を囲むとき、恋人と静かな夜道を散歩するとき、しれっと僕は彼ら彼女らに甘えている。

 特定の人と付き合っていくことの難しさも、この頃学んでいる。ずっと「いい人」でありたいと思いながらも、不機嫌になってしまう、精神的に落ち込んでしまう、言わなくてもいいことを口走ってしまう。慢心の先には内省が待ち構えていて、自己嫌悪の夜はなかなか明けない。こういう不安的な感じはお互いに秘めている。大好きな人との関係を維持しようとするのは、やはり簡単ではない(だけど楽しい)。

 先日、恋人の実家にお邪魔して、ご飯をご馳走になった。初めて会う人ばかりで緊張して、落ち着かないのでご飯をひたすら口に運んだ。恋人の祖父が缶ビールを買ってくれたのでそれも飲んでいたら気分が悪くなり、別れの挨拶もできずにそのまま途中退場することになった。申し訳なさと恥ずかしさで燃えそうになったけれど、数日経つと、もう僕は普段と同じように仕事をしていた。

 僕の小さな世界は、文章にするほどでもないような細やかなドラマばかりだ。僕はそれらにときどき打ちのめされ、ときどき救われている。今日も明日も大した違いはないけれど、ひび割れそうな道の上をたしかに歩きつづけている。