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中篇小説『リヴァース・ショット』連載12回。眠れる預言者実時に降りた霊かく語りき。その正体も明かすだろう。

人間が 無から髪の毛一筋、創ることが可能
になることは 未来永劫ありえない。

優しさや思いやりは 惰弱なだけであり、
人間社会にもジャングルの掟があると、
人間が言う。
同時に 人間は獣ではない。と同じ人間が同
じ口から恥知らずに主張する。
ジャングルは食物連鎖の循環を示しているだ
けである。
その食物連鎖の循環を恐れ ジャングル、
森から逃げ出したのが 人間である。
食物連鎖のサイクルから逃れる為に
愛ではなく、過剰なる恐怖心の力を用いて
神を捏造し、雀にすら内在する愛よりも
人間にだけ通用する 神秘・奇蹟・権威を
崇め奉り、偶像と戒律、制度とを
神の御名において巧妙な手口ですり替えた。

人間は人間の捏造物に跪拝するのである。
『宇宙の理、天の理(ことわり)』を神と呼び換える悪知
恵すら発達させた。しかし。 
『宇宙の理、天の理(ことわり)』は 自らが愛であるか
らという理由だけで、それでも人間を愛して
いるのである。
恐ろしく愚かしい不完全なる人間達だが、
その中に 稀に現れる先駆者達を熱愛し、
それらを生かし、活かすのである。
その御蔭で、 
どうにか種としの存続を許されているのが
現在の人間達である。
科学の恩恵が より便利になることだけなら
まだしも許される余地が残されている。
しかし。
この大宇宙の中で孤立し、孤独の内で自らを
発狂状態に貶(おとし)め、暴走を促す、科学の悪用を
諌めるべき時が 満ちたということである。
但し、諌めるために、七十二ポンドのプルト
ニウムを大気圏に衝突させるわけではない。
『宇宙の理、天の理(ことわり)』は そんな事はさせない。大いなる見者、ノストラダムスの
あの四行詩、あのカトランにも書かれているように。すなわち、
マルス、火星の前と後、つまり 地球と木星でのスウィングバイポイントで、
『幸運にも』『制御する』のである。
しかし あくまでも『幸運にも』 である。
その幸運とは この魂の実体たちが 
果たすべきを果たす事によって 
それは 幸いにこと運ばれていくのである。
しかし。人間達の心は乱れ、魂の所在すら
見失っている者が 余りにも多い。
七十二ポンドのプルトニウムが幸いにも大気
圏に衝突せず、天蓋で爆発しなくとも、
人間は既に六十九年のアポロ十三号、九十六
年のマルス九十六の打ち上げ失敗において
プルトニウムをこの地上時空にばら撒いている。
その為に起きた現象が
たとえば エイズウィルスの発生である。
ウィルスの突然変異が これからも猛威を奮
うであろう。
たとえ
その陰窮まった事態を迎えたとしても、
遺伝子組み替えの科学が
これから現れる先駆者たちによって
育てられた 正しい見者達によって
正しく使用されれば、
エイズウィルスは
人間の多くの病を治癒するものにメタモルフォーゼする。人間の心がもっと
正しく育成されるならば プルトニウムも
まさしく その毒性を抑制され、もっとも大切
な物質への変容が 可能である。
しかし、人間は 遺伝子操作を用いて
軍事的支配の次に種子を支配し、経済的支配
のみならず、種子的支配をも将来の人口爆発
に備えるという大儀の下、支配慾を優先させ
ている。軍事的支配の欲望によって 宇宙開
発が もっと別の大儀によって隠蔽され、
遂行されているように。

その種子的支配に対抗する動きは 
既にこの日本という国において正しい農法が
ほぼ 完成され、準備が進んでいる。                 
その農法は かつて現在より遥かに
思い上がりという原罪に染まっていなかった人間達が当然の如くしていた農法である。
ロシアのトルストイという作家が晩年におい
て民話を採録した中に
『卵ほどの麦』という民話がある。
古の農夫は 孫よりも若々しく、王に問われ
て、なぜ昔は卵ほど大きな麦粒が当然のよう
に成っていたかをこう説明している。
『昔は 自分の働いたものが自分のもので、
地面の此処から此処までが自分のものだというような
今のような考えを誰もしませんでした。
又誰でも自分の働いたもので満足し、他人のものまで欲しがったり、
羨むようなそんな考えを起こす者はいませんでした。
そこだけが 今とは 違うのでございます』

つまり心の問題である。とはいえ 民話の
示唆する事は本質そのものに過ぎるかもしれな
い。
日本で既に完成をしている農法は
耕さず、種子を土饅頭に込め、直接播き、
無農薬で化学肥料も一切使用せず、せいぜい
緑肥を用い、できる限り何もしない。という
ものである。勿論この農法をしても
卵ほどの麦や米がとれるわけではないが、
遺伝子操作で拵えた実はなっても種子はでき
ず、又はその種子は 決して発芽しないよう
に操作されている、そんな種子的支配に隷属
したような農作物より 遥かに安全で

健やかなる体を養い、大宇宙の真・善・美を
感じ知る心を育む農作物を刈り取ることに
なるのである。
古くて新しいその農法とウィルスとの共存
すなわち正しい遺伝子工学とがあり、
さらに 反・重力に基づいたエネルギー機関
があれば おそらく人間は 変るだろう。

反・重力に基づいたエネルギー機関とは
人間が未確認飛行物体呼んでいる空飛ぶ円盤
が使用している物である。
重力の影響を受けないその機関があれば
現在の人間達が獰猛に駆り立てられる欲望、
すなわち 軍事的支配と経済的支配からも
解放されるであろう。
戦闘的な性格が 大いに矯正されるだろう。
ただ、余りにも単純なその機関であり、 
思いやりや優しさ親切さといった、
人間達にとって 今のところ最もあてになら
ない、頼りにならない感情によってしか
発動しない機関なのである。
それでは
まるでお伽話から飛び出してきたような存在
であろう。
だが 其処へ辿り着くために人間は
『宇宙の理、天の理(ことわり)』によってこの地球とい
う星で生かされ、活かされて来ているのであ
る。そしてそれが宇宙における真実である。
グノーシスの末裔たる見者やこの魂の実体のような ただ生まれつき天性の心優しき者や 又、ヘルメスの末裔であるが錬金術師の末裔ではない真の科学者たりうる者たちが先駆者として集合し、融合していかなくてはならないのである。
嘗て 大ブッダ・シャカムニやキリスト・
イエスも偉大なる先駆者としてこの地上時空に在った。彼らの偉大なる教えと所業も人間を其処へ運ぶため、人間に賦与されたということなのである。
さて。
 
種子が 土の養分と水分によって化学反応を起こし、遺伝子が発動して発芽するというようなお伽話を 人間達は現在科学と呼んでいる。化学反応や遺伝子の発動を仲介しているもっと大切な存在は 人間の拵えた器具、顕微鏡や原子顕微鏡などで存在を実証されてない。故に、信じられないという
ファンタジーの中でも人間は現在生息可能である。
人間は人間の捏造した物の奴隷になりたがる習性があるからでもある。

さて。
エーテル体やアストラル体という目でも人間が必死で拵えた最先端器具でも認識されない、『造化の妙なる運行』について語りだすと現代の人間は 
ホラ話と決め付けるのである。魂の所在を感じ知ることができないからである。真心よりも権威を崇める心しか持ち合わせていないからである。

輪廻転生とは そのエーテル体とアストラル体、心と魂を形成するボディの連続性に関する認識である。今この魂の実体に降りて その声帯などを借り 言葉を連ねるている
存在、霊も又同様である。
電話、ラジオ、テレビ こういった機器を人間が拵えたのは 霊やエーテル体、アストラル体などを目に見える形で再現したいという人間の潜在的欲求に依って拵えた物であるといって良い。
そのエーテル体とアストラル体は厳密に言えば
石と植物の差異以上の違いがある。
しかし、物質的世界とその世界を感覚する五官しか持っていないと頑なに信じ込む人間存在とその集合的無意識領域における膠着状態にある現代の人間達にとって、
見者などの先駆者となるべき宿命にある者以外には こうして言葉で語られても反対に
感情が 認識への路を遮断し、軽蔑という感情を優先させてしまうのである。何故 そうなってしまうかを詳細に解き明かすのは 
又別の機会に譲ろう。
今 汝(和子)に伝え置くべき事は 汝の魂を構成する中に
 マグダラのマリアのエーテル体が存在している事である。
勘違いをしないでほしい。汝は マグダラのマリアの生まれ変わりではない。
マグダラのマリアという魂の実体がこの地上時空において キリスト・イエスを扶すけ
先駆者の一人として生きた、その時に彼女の心と魂、ある部分においては 肉体の構成そのものにも浸透していたエーテル体の一部が 汝の中にも浸透し、存在しているということである。
イエス・キリストの「このパンは我が肉であり、このぶどう酒は 我が血である」というのは つまり 今汝に伝え置きたいエーテル体について
彼(イエスキリスト)の弟子達に教えた喩である。
草木が人間や動物などのような 器官を所有していなくとも生命を維持し、人間と同じ耳目、言語を用いずとも 虫や鳥は花の蜜を探し出し、共に生を享受できるのも エーテル体やアストラル体といった、
人間の目や耳など五官では知覚できない存在によって 人間の思考能力を遥かに超えた
愛と呼ばれるべき実在の為せる業である。
又 それは
『宇宙の理、天の理(ことわり)』の存在を示唆しているのである。正確に言えば
『宇宙の理、天の理(ことわり)』の自己表現としての『造化の妙なる運行』である。それは 感じ知るべきものである。人間の五官知覚能力は 人間なりに感じ知るための便(よすが)、方便にすぎない。その方便を正しく、思い上がらずに 用いる者達が 先駆者である。

 汝は 幼少より過酷なる運命を生きてきている。辛き事を身に受けてきた。
それは、汝を汝たらしめるエーテル体に
マグダラのマリアのエーテル体が 存在するからである。大いなる先駆者を扶すける天性を備わった魂の実体に授けられた宿命の星である。
汝は 今 我が 声を借りる魂の実体、これより先駆者の一人となる者を扶すける宿命の星を此処で自覚せよ。
そして 幼き汝を棄てた親への憎しみを
全身全霊から棄てよ!
もし汝の親が 汝を棄てざれば、汝は この魂の実体と共に生きる宿命に生きられなかったことを是非とも感じ知ってほしい。
そうする事が『宇宙の理、天の理(ことわり)』を知る最良の路として汝には 開示されるのであるから。そしてその路を歩めば 汝の心には
この魂の実体を扶すけてゆく『寛容』の二文字が 汝とこの魂の実体を硬く結び、ともに『寛容』の心、寛容の思考と寛容の感情の二重螺旋構造体が 汝ら二人にとって永遠の光明となる。
汝の肉における穢れを思い患うな!
されど それ以上 その身を苛む(さいな)事勿れ!
単(ひとえ)に『寛容』の二文字を心に刻め!
「汝ならばできる」と、
『宇宙の理、天の理(ことわり)』は 仰せだが、
如何に?」
突然、和子は 訊ねられた。
語られる内容が難解で 和子は半ば呆然としていた。
ただ厳かな気配が 自ずと立ち込めていた。畏れ敬う心情で聞惚れていた。
汝肉の穢れを思い患うな、されどそれ以上その身を苛む事勿れ!
と叱咤?された時は
思わずペデュキュアで赤くなった足の指を隠そうとした。
和子は 実時を扶すけよという指令を受容れるかどうかを 訊かれているのだという事だけは 直ぐ理解できた。しかし『寛容』の二文字とは 自分を棄てた親を許せということなのだろう と思ったが、あやふやだった。
しかし、自分を棄てた親を許すよりも何よりも 実時を扶すける事をするかしないかと問われれば、誰に言われようと言われまいとそうするのである。
つい 今しがたまであれほど能弁だった声が
和子の応答を待って 沈黙していた。
和子は 「はい」と 答えた。
「よろしい。」声は 再び話はじめた。
「この魂の実体も 汝と出遭わなければ
先駆者になりえなかったのである。
この魂の実体は これで 安心立命の境地を得たのである。現時点において 七十二ポンドのプルトニュウムが 天蓋から降ってくるかどうかは 
五分五分なのである。
あくまで 名も無き先駆者達が 各ポイントにおいて果たすべきを果たすかどうかでそれらは 決るのである。
この魂の実体が 月山へ赴く。果たすべきを果たすことを 汝は信じ切り、この灰色の猫と共に この魂の実体の帰りを待て。
この魂の実体と汝とが 共に扶すけ合い、互いに信じ、互いに愛し合う日々は 必ず来るのであると 信じきることである。
そうなるしか ない!と信じきるのである。
信じ切るという心の力を 逞しくせよ。
信じ切る心の力と 自惚れ、思い上がる心の動きとの差異を 見極めよ!

自惚れと自棄は同じ心の弱さであることを先ず知らなくてはならない。
卑屈さと謙虚さは まるで別物であるように。
心の力が逞しいとは 剛毅さではない。
柔軟で優しく、陽気であるが、決して諦めないという心の次第を保てる強さである。
又 許す心、寛容に至るとはすなわち
勇気のことであり、
ほんとうの勇気とは乱暴粗雑な蛮勇や横暴、図々しさとは 全く別物である。
宇宙の真・善・美という人間が捏造したのではない本当の『法』がこの大宇宙の隅々に存在する。勿論人間の魂には 誰にも生まれつき予め埋め込まれたように、刻みつけたように本当の『法』は内在している。
しかし人間は思い上がりという原罪に未だに縛り付けられている。思い上がり
魂よりも、肉体や心の易きに甘んじる。
本当の勇気と蛮勇や横暴、図々しさとを見極めることなど容易いことである。
しかし 魂が自分の中に感じることができないほどに思い上がり、人間の拵えた 捏造した社会や制度に自分自身だけでなく他人までも委ね、自らの思考を止め、自らの感情を正しく内在する本当の『法』によって育む労を厭(いと)う。それを厭わぬ心の次第、心の力を
古来中国では 『徳』と言った。
信じ切るとは 『徳』の命題である。
汝は 静かにこの魂の実体の帰りを待ちながら
その修行をすることになる。
愛する者の
天命の達成と成就を祈るだけでなく
そうなるしかないと信じきるのである。
それが汝に課せられた最後の修行、徳の行である。
人間は 皆 修行を している。
汝のように 巫女として幼き時より生きていかねばならなかった者だけではない。
すべての人間は 修行をしに この惑星に自らの意思で生まれてきているのである。
恐れる莫れ!恐れる心は 重力に比例する!
この単純な物理の法則は 物質化現象にも適応されているのである!
又、万有引力の法則とは 
寧ろ、言葉、言霊が この地上時空において物質化する現象を説明するのに有効なのである。恐怖は 重力に比例し、希望は重力に反比例する。
反・重力とは 
この地上時空の何かに対して反対・反発することでは ない。
ベクトルの向きを逆にすることである
磁石の極の反発は、目に見える、その比喩であるといってよい。

本題に入る。
この魂の実体が 果たすべきを果たしたとしても他のポイントで果たされなければ 
『恐怖の大王』、七十二ポンドのプルトニュウムが 天蓋から降り注ぐ事態も確率として存在する。
つまり 『成功』と『失敗』というとだ。
『成功』した場合と『失敗』した場合、
どのような世界が 八月十八日以降の地上時空において展開されるであろうかを語ろう。
その前に、 この魂の実体の
咽喉が限界にきている。一度身を起こさせ、
水を与えて欲しい」
そう言い終っても実時は目を覚まさない。
和子は 言われるまま 水を用意し、実時の重い身体を抱き起こし、実時の唇にコップを持っていった。実時は 完全に熟睡状態であり、体は ぐにゃりとしている。体重は和子に預けられ、和子は 必死で水を飲ませようとしていた。ようやく 実時の唇が コップに反応した。唇は コップの薄いガラスの淵を捉え、和子は 水を注意深く流しいれる。
このような状態で 実時が咽るのではないかと心配だったが、余計な事は 想念から外した。必ずこの一杯の水を 実時は 飲み干す。
心配をしない代わり、優しく水を見詰た。
「お水さん 実時さんの咽喉を潤して」
和子は そう呟いた。水はゆっくり唇と唇の間にできた隙間にだけ流れていった。
やがて実時は咽喉を鳴らして水を飲み干した。大きな赤ん坊のようだった。少なめに淹れてきたコップの水は すぐ空になった。
和子は 直観で未だこれでは 足りないと感じ、一度実時の上体を元に戻し、もう一度水をコップに満たし、同じようにして再び実時に水を飲ませた。実時は 案の定、咽喉を鳴らしてその二杯目の水を飲み干し、大きく呼吸をした。和子は 実時の頭を注意深く枕に降ろし、自分も又 ベッドから降り、何気なくテープレコーダーを見た。テープの残量が少ない。慌てて和子は カセットテープを裏返し、念のためもう一本のカセットテープの包装を剥がし、いつでも変えられるようにした。本題は どれほど長くなるか見当もつかなかったからだ。そして この大きな霊が語る内容は 後で 是非とも実時に解説して貰いたいことがたくさんあったし、その内容は傾聴しなくてはならないという思いがまるで衝動のように心に湧いていたのである。
殺風景なコンテナハウスに今、自分が居ることを 忘れていた。
とっぷりと夜の帳が覆っていたが、和子は室内に照明を点さなかった。
仙台の五月上旬の夜は 気温が下がる。
和子は 実時に布団を掛けるべきかで躊躇いはしたが、自分だけ炬燵に脚を入れ 暖を取る氣には 些かもならなかった。
実時は 又少し 意識的な腹式呼吸を繰り返していた。しかし 当初のような痙攣などは起きなかった。 そして。
「この魂の実体が 気温の低下によって風邪等ひくことは ない。心配しなくてもよい。
但し、汝は 一枚上に着て、膝にも何か掛けよ。そしてそう畏まりすぎず、脚を楽にせよ。また、汝は 尿意を我慢するな。録音がされている。汝は心置きなく済ませよ。この魂の実体も 眠りから覚めれば脱兎の如く排泄に走るであろう。
そして 部屋の明かりを 少し点しなさい。
暗黒の闇で 我が声を聞かずとも良い。
この魂の実体は 夢心地である」
和子は 促されるまま 蛍光灯を最小に燈し、上に一枚カーディガンを羽織った。そして膝にはセーターを置いた。尿意は感じていなかったので ただ そうして声を待った。
「よろしい。本題に入る前に一言注意しておくことがある。
それは 我が声を 『大天使ミカエル』などとこの魂の実体は 事前に説明したようだが
無論それは 喩であり、他意はない。しかし
この世紀末において そのように霊を名付け
贋の預言者が多く現れ、弱い心の人間を惑わすのである。
『大天使ミカエル』と嘗て名乗った霊は 人間には 降りない。
大天使ミカエルならば 人間に降りず、
自らこの地上時空に立って自ら語る。
しかし多くの人間には それは天から降り、地から唸る轟音であり、
その姿を見ようとも光の柱としてしか知覚できない。
見者など先駆者達が かろうじてその声を肉声の如く聞き分け、
その姿を垣間見る。
植物や動物の方が 明らかにその存在を感じ知る点において
多くの人間より正確である。

では かく述べる我は 何者かと問われれば、こう答えるのが適宜であろう。
我は 『宇宙の理、天の理(ことわり)』によって織り成されている
『知識と認識の回廊』すなわち
『グノーシス』の住人の一人である
、 と。
断じて全知全能の神などでは ない!
人間には 決して 大天使ミカエルが降りる事がないし、
ましてや全知全能の神とも言い換えられる『宇宙の理、天の理(ことわり)』が降りる事など 全くありえない。
又 贋の預言者たちは 天使や大天使の役割とその言葉について何も判っていない。
贋の預言者とは 地に蔓延る怨霊と悪霊の
合成物によって戯言を吐いて、人間を騙す事を目的としている。
この点について 
汝らは 未だ明確に目覚めても気づいてもいない人間達に 思いやり深く 注意を喚起させなくてはならない。
贋の預言者は『恐れさせ、責め立て、甘言を散りばめ、
そして 自分だけの正当性を誇示し、化けの皮が剥がれぬように 
神秘・奇蹟・権威を 捏造し
概ね 大天使ナニソレ、など勝手に作り上げた神霊の名を
何処からか剽窃してくるのである』
これらは 全く見極めねばならない。
真の先駆者達が 行う思いやりの深さを
妨害するために彼らは 現れるのである。
そのためならば 真の先駆者達の表面的な
真似さえ厭わないのである。
どうしてこのように贋の預言者について言明しているかと言うと、これから話す人間であって人間でない、先駆者達の活動を支援し、保護する存在が 実に複雑な登場の仕方をしなくては ならないからである。
先駆者達を支援し 保護する者、彼は『ショーグン』と呼ばれるだろう。
しかし彼は人間の姿をしているが 
人間ではない。


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