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中篇小説『リヴァース・ショット』連載10回。~夜明けの歌、新しい夜明けを迎えるために うたおう。

そして 
三十四歳の丸山和子は千九百九十九年の五月七日に 発作のような白い眠りの中で 無意識に彼女の指は あの印を切っていた。
唇には微かながらもあの風のような
ソウレン云々が 蠢いていた。
そして すっかり陽光から見放されたコンテナハウスの中は かなり温度を下げていた。一方で和子の肉体は その温度変化にきちんと対応しようとしていた。ビクリと彼女の身体が痙攣した。その衝動は 彼女の意識をも急激に醒ます効果があった。両の瞼は 慎重に開かれた。薄暗がりに浮かぶ 
殺風景な部屋の無表情さに和子は溜息をつく。
ノロノロと立ち上がり 炊飯ジャーの蓋を開け 内釜を取り出した。
腕をまくり、米びつから米を掬い、水道の蛇口を捻り、米を研ぎ始めた。
冷たい水が 手を濡らす。米粒を捏ねる機械的な動作と米と米が擦れ合う音とその感触とが 和子の薄く靄がかった意識を明瞭にしていく。

「あぁ そうだ。 今夜は 東京のあの人だ。そうか。今夜グランドホテルのルームサービスで ステーキでも奢ってもらおうかしら?」
和子は そう独り言を言った。
誰も彼女の問いかけに答えるものは無い。
それでもその思いつきに 気分を軽くした和子は 折角だから米は 研ぎ終えてしまい、もし中(あ)てが外れても 三代から手紙と一緒に送られてきた湯河原の味醂干と干物がある。小田原の蒲鉾もある。蒲鉾と揚げ玉を甘辛く煮しめた 三代から受け継いですっかり好物になってしまった一品は 明日愉しもう。
そんな思いつきが 和子に軽く鼻歌などさせて、
徐々にミナミという女に変身する。
生命保険のセールスレディとして働くために揃えた 数少ない まともな衣装の中から 今夜は 薄いピンクスーツにしよう、たった一枚持っている
シルクのブラウスも久しぶりに 着てみようと 頭の中でコーディネートしてみる。ミナミという女になる時専用の 少し大胆な色とデザインの下着の上に 三代から嫁入りする時に貰ったシルクのブラウスを着るのは不謹慎だろうか?と 
再検討してみたりした。少し時間には早かったけれど 一度風呂に入って 化粧をしようと思い立ち、狭苦しいバスタブに水を張ることにした。
水が満ちるまでの間 その水の音に注意を払いながら足の指に赤いマニュキアを塗った。
これがミナミに変身する自分への合図だった。
丸山和子が どれほど悲しみ、どれほど苦しみ、そしてどれだけ 怒っているか 誰も知らない。生命保険の外交員をして歩合制で貰う給料が どれほど絶望的であるか、その補填というより そうしなければ 食べていかれないからしている スーパーのレジ係りのアルバイトが 単調極まりなく、
その上足腰に年がら年中鈍い疲労感をもたらしている
なんてことは 伊勢流茶道の東京部会で上流階級然としているあの方々には 想像もつかないだろう。そういう怒りは なんとしても心の中から打ち消し難い。
勿論 自分を産み捨てにした親に対する激しい憎悪と怒り、恨みは 
全く別格であった。
ミナミに変身する時には それを思い返すまでもなかった。

和子と実時の結婚をヒステリックに反対した いや 粉砕した、実時の母親がバブルのおり勝手に買い漁った不動産購入による借金で今や伊勢流・東京部会の経営は瀕死の状態であるというのに相変わらず芦花公園の邸宅には 今時物好きなロールスロイスが 見栄の象徴として鎮座しているだろう。
あの実時が 行方不明である事をひた隠しにして、きっと捜索願すら見栄で出していないのだ。
見栄と虚栄心だけは、さぞかしご立派なことだろう。
そんな怒りこそが 和子をミナミに変えていく。本当のことをいえば、実時への想いが その怒りの下で途方もないせつなさとして
地球の中心めがけて広がっていた。

とその時、和子の聴覚が 氣に止めている
湯船に落ちる水の音以外に、聞き慣れない鳥の鳴声を聞き分けた。
和子は 一瞬、足の指にマニキュアを塗るのを 止めた。
俄(にわか)に、和子は 嘗て ある霊場で偶々居合わせた人が話してくれた 
キリストの説教を 思い出した。
イエスが 『明日を思い患う事勿れ』と説くのに 鳥を見よと 語った、
有名な説教だ。

鳥は 働きもしない。ただ美しく鳴き、その羽ばたきは 自由自在である。それでも創造主たる神は 鳥たちを ああして養う。
人間だけが 自分達が 創られ、生かされていることを忘れ、
勝手に明日を思い患う。仮令 人間達が 自分の労力と工夫で得たと思い込んでいる日日の糧も 実は 神によって養われているからこその糧でしかない。
思い患えば思い患うままに、恐怖で思い描く物事を受け取るだけの事だ。

和子は 霊場巡りの最中に 自分とは全く関係ないと思っていたイエスキリストの話を耳にし、その時目の前で地面の何物かを啄ばむ 雀を見つめた。何処でも目にする雀でさえも その時よく見ると 茶色ばかりの色合いではあるけれど、幾種類もの茶色が 実に見事に意匠が凝らされているのに目を見張った。
その衝撃とともに イエスキリストの『明日を思い患う事勿れ』が 和子の中で強い印象とともに残存していたのである。
聞き慣れない鳥の声は、『鳥』という言葉を一瞬煌く如く彼女の意識の表層を切り裂き その表層の下で鮮烈な印象として眠っていた(又は隠れていた)そのありがたい説話を何の前触れもなく、意識の上へ浮上させた。  
人間とは そういうものである。
そして 和子は 少し微笑んだ。聞き慣れない声で鳴く鳥もおそらく雀以上にとても人間が拵えたり創造したりできないほどの見事な色や形をしているのだろうな。自分も又鳥と同じように 創造主の何らかの意志で 雀と同じくらい手の込んだ何かを施されているのだろう。そう思った。そして 我が身をもう一度注意深く思い描き直してみた。

ともかく 自分は三歳で棄てられた子供でしかない。三代に拾われず、何処かの施設に送られていたら私はどうなっていただろうか?結局生まれつきの霊的なものへの過敏な体質が災いして 精神的な破綻を起こし、どの道 
どこかの街で 夜になれば 三十四歳、女としての花盛りをとうに下った年齢で ペディキュアを塗って身体を売るしか なかったのじゃないかしら?
三歳で実の親から文字通り置き去りにされた自分は、それでも今こうして生きている。
三十四年もう生かされている。他人と自分を幾ら比べてもキリが無い。
今の私は 味醂干や蒲鉾と揚げ玉を甘辛く煮しめたのを食べるだけで幸福を感じられる。自分は そういう風に幸福を感じるタイプなのだ。ロールスロイスを見栄で乗らなければ 不幸を感じるタイプではないだけだ。それに、私は今や季咸にも芳仙としても存在価値が無くなったにも関わらず、こうして地面と雨露凌ぐ家を 
東京部会から頂戴している。
よくよく考えれば結構なご身分なのだ。そうね。
随分と私は 慾が深いのだ。
私は 自分の愛が不足しているのを省みないで、ただ自分を憐れんで、
こうして生かされている事への感謝をすっかり忘れている。
ああ創造主様への感謝を忘れているわね。
こうしてミナミという猥らな女に変身して、お金のためと言いながら、私は私を憐れみ、ただ後悔とか、罪深さの痛みを快楽と摩り替えようとしているのかもしれないわね
丸山和子は自分自身に向かってそう心の中で語った。次にもっと簡単な言葉を口にした。
「感謝しなきゃね。そう感謝が足らないわ」
自己憐憫に明け暮れ、暗くのた打ち回る惨めさを 何処かで自分は 実時への断ち難い
せつなさを倍増させるために無闇と心に招き入れているだけだったのだ。
こんな心のままで実時の謎の失踪を嘆き悲しむのは何の意味もない。信じるしかないのだ。私に出来ることは。 
必ず 実時は湯河原の梓慶庵なり小田原の攖寧社に姿を現し、三代から安堵と喜びに満ちた手紙が 此処に必ず届くはず!
私は感謝して 此処で只そう信じ切り、実時の笑顔だけを思い浮かべて祈り続けよう。
和子の心は ミナミへの変身も今日を限りとしようというところまで昂揚していた。
その昂揚に酔うような心持がしてきた時、
注意を払っていたバスタブに落ちる水の音が 極めて小さくなったのに気付いた。
「おっと!そろそろいいわ!」
勢いよく立ち上がる。バスタブには 水が
丁度良い具合に満たされていた。そして風呂釜のガス栓を捻り 湯を沸かしはじめた。
すると ドアのチャイムを鳴らす音がした。滅多に訪れる人などいない家だ。和子は訝しげにドアに近づき ドアに付いている小さな覗き穴から訪問者を確認した。
訪問者はドアに近づきすぎて判別できない。
「どなたですか?」 和子の声は警戒していた。すると ドアの外側で 
訪問者は ドアをコツコツ指の第二関節辺りで叩いた。
和子は ハっとした。
「おーい 和ちゃん 実時だ」
音大を卒業間際で中退したものの 四十歳にして未だ 実時の声は かなり太くて 空気によく乗る。薄っぺらな外壁や隙間だらけの安普請のドアなど物ともせず 貫いてきた。和子は ミナミに変身する途中であった。
化粧は まだしていない。ペデュキアで赤くなった足指の爪が 一瞬目に入ったが 和子は ドアを開けるために 内鍵を開け、ドアーチェーンをガチャガチャ鳴らして漸く外してドアを押した。
丁度真西に向いているドアから オレンジ色から真っ赤に変る夕陽が 
一斉に音を立てんばかりに薄暗がりのコンテナハウスの中に流れ入ってきた。 そして 
シルエットながら 大柄な実時が芒洋と立っていた。和子はどうしていいかサッパリ判らなかった。突然訪れた歓喜を前に、ただ 
ポカンと口を開け、
「おかえりなさい」とだけ呟いていた。
実時は 十数年という月日の隔たりなどお構いなく、勝手知ったる我が家にでも上がり込むように荷物をドサドサとちっぽけな玄関先の上がり框に置き始めた。
「今夜 すき焼きしよう!」 
実時は スーパーマーケットの買物袋から肉をどっさり取り出して言った。
「こんなに!」
まだ 目の前の実時が実物か幻覚か半信半疑の和子だったが その余りに膨大な肉の量に 思わず笑ってしまった。
「久しぶりにサ 牛肉を馬食したくてね」
と 実時は 屈託無く謂う。 
そうだ!笑うしかない!和子は心の中で叫んだ。以前 もし なにかの拍子で奇蹟が自分の身に起きて、実時が迎えに来てくれたら、思い切り飛びつき、只嬉し涙で濡れた頬を 実時の濃い髭面に擦りつけて
なんでもっと早く迎えに来てくれなかったの!と抗議し、改めて実時の首っ玉にしがみつくだろうに と想像していた。
しかし 目の前で余りに突然奇蹟が我が身に起こると そんな芝居がかった行動などできるものではなかった。実時の荷物を殺風景なコンテナハウスの部屋の中に運び込みながら 和子は 笑っていた。本人は そのつもりだった。屈託無く笑うことなど、彼女にとって十数年以上ぶりのことだった。
又 生来 笑い慣れていない三十四歳の丸山和子は 笑いながら結局は 泣いていた。ボタボタ落ちる涙は なんだか 今まで流した事が無いような温度の高い ぬるぬるとした感じだった。
実時は 和子の笑っているのだか泣いているのだか判別しがたい歪んだ顔を、荷物を解く手を止めて見つめた。そうして なにも言わず分厚い自分の胸板に和子を頭ごと引き寄せた。
暫く無言で和子の頭や肩を掻き抱いていた。
そして、
「悪かった。悪かった。和子 ほんとに
随分ほったらかしにして 悪かった!」
震えた声で、極めて調子っぱずれだった。
実時にしてもそれが精一杯だったのだ。
実時はタオルで顔を拭わずにはいられなかった。涙と鼻水が十数年分この瞬間の為に堪えていた分が一斉だから 容赦なかった。

そして 既に日が落ちきって暗がりとなったコンテナハウスの中で
実時と和子以外の存在が 声を上げた。
実時と同行してきた猫、ゲーテが 狭いバスケットの中で辛抱しきれないで 四十一歳になろうとしている男と三十四歳の女という年齢が高い割に些か瑞々しく、メソメソしている恋人たちに対して 申し立てていた。 
いい加減 この狭苦しい函から自分を解放し、東京から数時間我慢している小用を済ます機会を与えよと!訴えていた。
人間と猫では 重力からの影響の度合いも、 時間が及ぼす感覚においても人間の一時間が 猫の肉体において その三倍は少なくとも 経験している事になる!などの
猫の高説は 猛烈なスピードでドアの隙間から身を摺り抜けさせ、辛夷の木の根元で用を足し終えた後で、ゲーテが 実時に向かってしきりと唱えた。
しかし実時にも和子にもニャゴニャゴと鳴いているとしか 聞こえてはいなかった。
と、和子は 頓狂な声を上げた。
「わっ!しまった!」
そして彼女は 身を翻して 風呂場に向かった。湯が煮えくり返っていた。
「もう 風呂に入るの?」
実時の声が 追いかけてきた。
和子は 返答に窮した。彼女は これからミナミという夜の女に変身することなど頭脳回路からスッ飛んでいたのだ。
「ええ あの 早めに入ろうかなって」
実時の居る方へ 戻ってそう答えた。
ペデュキャアをした赤い爪をした足の指を隠したくなってソックスを履いた。
「僕 今猛烈に 腹が減っているんだ。
和ちゃんが どうしても 風呂に入りたいのならそれでもいいんだけどさ。ご飯食べる準備だけ ちょっと手伝ってくれないかな」
と 実時が 例のイタリア製、特注の皮製ズタブクロをごそごそ掻き回しながら言う。
「勿論、そうしましょう。風呂なんて後にします」和子は そう答え すき焼きをするための準備をはじめた。炊飯ジャーのスゥイッチを入れた。
ああなんて私は 直感が働いたのだろう!お米も二日分研いでおいたのは 正解だったわ!と内心変な得心をしていた。
葱を洗い、小口に刻んだ。肉を乗せる大皿などない。どうしようかと悩みだした。すると背後から実時がヌっと、
「春菊が なかったんだ」
和子は突然そう謂われて ビクっとした。
「しゅ春菊?」少し実時を攻める感じになった。実時は 頭をポリポリ掻きながら
「そう 怒るなよ。スーパー中探し回ったし、店員にも訊いたよ。時期じゃないって。でね、エノキとクレソン買ったんだ。椎茸も一応買った。ホラ」口を尖らせてまるで子供だった。和子は 頭を撫でてやりたくなった。屈託無く自然に頬が緩んだ。
「相変わらず食いしん坊なのだもの」
実時はもう十数年の時間を忘れてしまったかのように
「春菊この辺なら 売っているかしら?」と
和子の微笑を更に引き出そうとしていた。
「そんなに春菊食べたいの?」
和子は 自分の息子のように実時が見えてきたのが可笑しかった。
実時は微笑む和子が愛おしかった。
「えっ?僕?僕は春菊なんて食べたくない」
「だったら いいじゃないですか」
「だってさ 君は 春菊好きでしょうが」
和子は 頭を振った。
「私は 別に。もしかして どなたか別の女性と勘違いしているんじゃなくって?」と
和子はからかってみた。実時は 天井を見つめた。そうして
「やっぱり半年間の記憶喪失で僕の脳はやや混線しているのかな」
と恍(とぼ)けた。

「ふふふ うそ!    よく私が春菊好きなの覚えていてくださったのね!」
実時は 肘で和子の腕を押した。
「ほら。やっぱり。僕は本当に つい昨日、半年振りで自分が 伊勢実時と言う名前であることを思い出したばかりなんだぜ!」
そう云って両手に抱えていたクレソンや
椎茸、エノキほうれん草、しらたき、焼き豆腐を和子の横へドサドサと置いた。そうして猫に向かって
「そうだ。ゲーテ おまえさんにチーズあげなきゃ」と言うなり 今度は スーパーの袋を掻き混ぜ、チーズを取り出した。キャットフードの大きな袋が横にあるのに。
「実時さん この家には 肉や野菜を盛り付ける大皿とか大きな笊が ないんですけど適当でいいですか?」
実時は和子を見ずに猫にチーズを与えている。猫は ウォンウォンと人間の言葉になりかけているような嬌声を発している。
「皿なんてなんでもいいよ。皿なんか僕は食べません!」と おどけた調子で答える。
「それとね 実時さん! あなたの横にでっかいキャットフードの袋がありますけど、その猫ちゃん そっちの方が 食べたいんじゃないんでしょうか?」と付け加えた。
「ちがうんだな! ゲーテは キャットフードより、チーズの方が 好きなんです」
でかい図体をした少年であった。しかもそう謂い切るや、クルッと身を捻って、和子の方を見ながらあっかんべーをした。和子も負けずに同じ事をしてみせた。
実時が大笑いした。
「いい年して お互い馬鹿だね」と言った。
実時は笑いながら猫にご意見を伺っている。チーズを食べている最中の至福を邪魔されて 猫のゲーテは剣呑な目付きで一瞥を加えただけであった。
和子はありったけの鍋や皿を総動員してとにかく野菜、焼き豆腐、しらたきを盛り付け
テーブル兼用にしている炬燵の上に次々と置いた。肉は スーパーのビニールトレイから直に盛り付けることにした。そして手早くコンロとすき焼き鍋代わりにすることに決めたフライパンを用意した。干し椎茸と生の椎茸を煮て、味醂と酒、かつお出汁で割り下を即席に拵える手間に掛かった。熱した鉄鍋に牛脂を走らせ、肉を焼き、醤油と砂糖を塗してから割り下を注ぐのが 実時流であったからだ。それと酒である。すき焼き用に使うべき日本酒ならたっぷりあったが、実時の口に合うような酒ではなかった。
「実時さん お酒、こんな廉いのしかないんですけど、熱燗?それとも冷?」
「どれどれ 」猫から相手にされず、実時は立ち上がり、和子が手にした
日本酒の銘柄を眺めた。
「これって地酒なの?」酒の薫りを嗅ぎながら訊く。
「そんな高級なものじゃありませんよ。ここら辺りでは 地元の普通のお酒」
「なるほど 普通だ。ビールある?」
「ビールは とりあえずとして。その後」
「なんだ 君は 随分飲兵衛になったのか?」と謂いながら 実時は その酒を手元近くにあったコーヒーカップに注いで ガブリと呑んだ。和子は 少し呆れた。
「伊勢流茶道の後継ぎが お行儀の悪い!」と言った。
黙って実時はそのカップを和子に手渡し、呑んでみろと仕草で伝えてきた。
和子は思い出した。そのカップには 今しがた、干し椎茸を戻した時に使い、洗わずに置いておいたのだ。
和子は 拒否した。そして可笑しくて腹が捩(よじ)れそうだった。
実時はしつこく呑めと勧めてきたが和子は その場にへたり込んで笑っていた。
実時が 頬を膨らませて和子の顔に迫った。
強引に和子の顎と頬を手で引き寄せて口を近付けてきた。
笑いながらキャーキャー叫んだが、実時の唇は 和子の唇を占領した。
一瞬酒と干し椎茸の戻し汁の入り混じった匂いが 和子を笑わせていたが、氣がつくと夢中で舌と舌を絡ませていた。
十数年ぶりでするキスと抱擁は 少し変な味のするものになってしまった。

猫のゲーテは 実時が放り出していったチーズの箱からチーズを包むビニールを取り除く事に夢中だったが、余り長いキスは健康に悪いという意味を込めて、実時に向かって一声を浴びせ掛けた。
「ニャアァァンゴ!」と。
実時は その意味を理解したわけではなかったが、長いキスを終了させた。
「あっ あいつあれ全部平らげるつもりだ」
「チーズの包装を取って欲しいんじゃないの?」和子が もっともらしく応じた。実時と和子は 猫を眺めた。十数年間、お互いにお互いを待っていたことが 言葉を用いずに ともに感じ知ることができた。
しかし実時も和子もお互い、自分の事をどこから話せばいいのか 戸惑っていた。

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