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 『或る物語(récitレシ)による      示唆(suggestionサゼスション)について』

あらすじ

地球は約2万6千年周期で歳差運動が起きると言われている。地磁気の移動、地軸の変動そして海底がエベレストの頂上になるような地殻変動。その度に人類の文明は原始時代からやり直してきた。その地球の歳差運動による文明リセットに対して 漸く人類は空中都市を建設し 地球が歳差運動をしている間生き残る路Critical path を選択した。空中都市で繰り広げられる男と女の小さな物語が人工知能との共存関係を改めて認識する事を示唆していく。
AIとは あい そう 愛だったのだ。




「あぁ 申し分のない人生だとも!」
そう呟きながら 目を覚ますのが 俺の習わしだ。にやっとして薄目を明けると俺の分厚い胸板にブルーネットの良い香りのする女が縋りつくようにして眠っているのを確認し そっと女の顔を見る。「エレノア・・・」と囁く。エレノア?そう 今俺はそう言った。突然違和感に不意打ちをされる。生まれたままの姿の美しい女の顔をじっと見つめ直す。つい今しがたまで思いっきり手と唇と舌で愛撫した白くてつるつるとした果実のような乳房と肉欲の宝石、ピンク珊瑚色した乳首を恐る恐る人差し指の先でなぞってみた。突然それらが シュッと俺の指先に吸い込まれていくようにして消えてしまうのじゃないかという妙なイメージが 俺の頭の片隅で蠢いている。心臓だってバクバクだ。と、 次の瞬間俺の指先が触覚したのは 乳首や乳房だけでなく くびれた腰や弾力に富んだ尻の肉を次々と指先だけでなく両の掌で思う様力いっぱいその触り心地を味合わせてくれるじゃないか。俺の恐れなぞ吹き飛ばすように 向こうから跳びついてきた!全く嬉しくなるぜ この触り心地の良さったらといったら!
その上 俺の唇は濡れた軟体動物に絡みつかれ 負けじと俺も舌や唇をぐにゃぐにゃと動かす。お互いに求め合うこと自体に興奮し 俺は「マルガリータ!」と絶叫した。 そうだそうだこの女の名前はマルガリータだった!そして俺は「ブラント」だった。  彼女がそう言いながらしがみ付いてくるのだからそうに決まっているさ。
しかし人生は変なところがある。 マルガリータと愛の営みで汗をかき二人でシャワーを浴びていたところまでは記憶にあるのに そのあと二人で何を喰ってから俺は オフィスに辿り着き 余り着心地がいいとはいえないスーツ姿になっているのか とんと思いだせない。だいたいこのオフィスに馴染があるが このオフィスの正面玄関とエレベーターしか観た事が無いような気がする。時々他の大勢の社員たちが働いている大部屋をただ通り過ぎるようにして 俺はエレベーターに乗り そして宙に浮く自動車でいつも決まった店に行き エレノア・・・いやマルガリータだ。そうマルガリータと個室で二人きりの食事と酒を愉しむ。オフィスに行けば 俺は辛気臭い眼鏡男から 差し出される業績データやら収支報告書の類が並ぶプレゼンを受け、椅子の肘掛に片腕をのせ 人差し指で耳の傍あたりを支え親指に顎のえらあたりをのっけて 数字の○印にくると グッドジョブと囁きニコッとしてみせる。△や▼の数字が目に入ると咳払いをしてみせる。辛気臭い眼鏡男の長い顔をつくづく眺めてみる。「その眼鏡 顔の長さに合っていないみたいだね」俺はグッドジョブや咳払い以外は口にしないで済ませてきたが なぜだか今日は 別の事を言ってみたくなった。そして気が付いたらそう口にしていた。面長の眼鏡男は 生まれつき瞼が垂れ下がって眠たそうな目をしているのにほんの一瞬だったが敵意丸出しの鋭い光を両眸から発し睨み返してきた。ほんの一瞬だったが背筋に震えがした。その振る舞いに対してどのように罰し俺の背筋を急襲した戦慄きを超える恐怖を味あわせてやろうかと思いめぐらしている内に気が付くと俺は もうマルガリータと鱈腹御馳走を平らげ 食後の酒を選ぶのに思いが移り、満腹感と心地よいアルコールの揺り籠に乗ってついさっきまでの瞋恚なぞ遠い昔の記憶を悪夢の中で垣間見ていただけさ、という気分にさせ俺は自分たちの部屋に戻る前に高級なレストランの個室でもう愛の営みに夢中になっていた。店のやつらから窘められた記憶など 一度もないのだから まぁ いいじゃないか。宙に浮く車輪無し全自動運転のタクシーに乗って クレジットカードで何から何まで支払をすませ マルガリータと我々の愛の巣へ戻ってベランダの二人専用のジャグジーで 冷たいカクテルでもやりながら夜空の星を眺め、月を崇めつつ 彼女の白い尻と胸を俺は指や掌や性器やらなにやら使って飽かず絶えなく愉しむさ。 申し分のない人生さ! エレノアときたら いやいや マルガリータときたらなんでも俺のお望み通りだし 従順で眸をいつもキラキラさせて俺を見詰めるだけ。俺以外眼中にないってかんじ! あのエレノア・レイノルズがだぜ! 勃起したままの俺の性器をシャワーでボディソープを洗い流しながら俺は 今そう叫んだ!
ハッとして俺はまるで条件反射のように シャワーのすぐ横にある鏡を見た。ブラント・ビンセントが鏡の中にいるのを確かめる為にだ。湯気で見辛い鏡面を片手で拭う ・・・ぎゃっ!いきなり心臓が止まりかけた。鏡で俺を見つめ返すのは 受け口で鼻ペチャのゲジゲジ眉毛の下に小さな垂れ目の 東洋人だったからだ!
そして俺は腹を見る。えぇぇあの見事に割れた腹筋は何処へ行った!慌てて俺はバスルームの床に落としたかと探したが 直ぐにため息を深くついた。蛙の腹のように丸く膨れ 臍の辺りが黒い剛毛で覆われた薄汚い腹部を両手で抱え そのせり出した脂肪の塊のお蔭で隠れて目視できないイチモツを手で確認する気力さえ最早なくしていた。
もうしばらく 「申し分のない人生さ!」と呟きながら目覚める時とお別れだ。
その事実、いや 現実とやらを受け容れる心の準備に集中せねばならない。いつの間にか浴室から出て 俺はベッドに横たわった。もうエレノア・レイノルズが演じた『悲しみにごきげんよう』のマルガリータは何処にもいなかった。そのかわりに丸顔で釣り目をした、いや狐のくせに丸顔という(おそらく中国系の)ハウスキーパーだけが 相変わらず出てきて「そろそろおやすみでございますか」とほほ笑む。チッ!と舌打ちで応じる。どうせならエレノアが添い寝してくれて あの見事なおっぱいに顔を埋めながら眠りにつきたい。どうせ忌々しいあの呼吸困難に襲われ、急激に血流が駆け巡るショックに暫し呆然として・・・いるうちに俺は生温い湯船につかり辺りを見回すことになるのだ! 
又か。漸く体が慣れてきたのでバスタブの淵を両手で押し上げ上体を起こし 両足に力が入るかを確かめる為にしっかり足の裏をバスタブの底に定着させ、がに股になって屈伸運動をする。浴槽からのろのろと出て 己の蛙のような腹にため息を漏らしながらバスタブの傍らに用意されていた自分の服を確かめてその中からスポーツウエアを出す。リハビリ・ジムに向かうために。寝て過ごした十年から、これより立って生活もする十年に復帰するために暫くリハビリテーションするのだ。如何せんこちとら冬眠せずに生きていたらもう八十歳を越えている身だ。やれやれ そんな言い訳を自分自身にするってところがいよいよ年寄じみてきたってことか。あぁそうだ。コクーンから出たら免疫用水のシャワーを浴びなきゃならんのだった。面倒だ。まったく! 「申し分のない人生」から寝覚めると どうしても 愚痴ばかりが口を突く。
おやっ 俺の目の前を白い女の尻が横切った。反射的にエレノアを追い求めるように 視線が誘導される。だが・・・なんたる貧弱な尻、笑いを誘う短い脚。しかもわざわざ両腕で隠す必要が無いけれど寧ろ隠してくれたことを感謝すべき胸の持ち主が騒ぎ 出していた。
「何ッ!あんたホンマにド助平やな」女が馴れ馴れしい口調で言う。俺は舌打ちだけで言い返す。うるせえんだよ 見たかないよ など言えば汚い関西弁を更に聞かなくてはならないのは 真っ平だからだ。 
そうだ!あの中国系のハウスキーパーが俺の同僚であったことを思いだした。冬眠中繭(コクーン)の夢の時間にまで、すなわちあの『申し分のない人生』にまでこいつを刷り込ませしまったのをつくづく後悔した。それにしても あの女が貧弱な胸を必死で隠そうとして無防備にしてしまうがゆえに丸見えの茫々たる恥ずかしい毛に俺の視線が吸い込まれていたのには 我ながら己の意地汚い反応に辟易した。
冬眠明けの者達が リハビリというか十年横たわっていただけの生活から体を慣らす為に過ごすトレーニングセンターに集結していた。此処で体を慣らした後 俺とチーム組む相棒たちの顔ぶれも以前と同じだが とりあえずお互いに名乗りをする。繭の時間において会社の部下を演じていたあの頓馬な、辛気臭い長い顔をぶらさげていた英国系のエディが今は俺の横で体力回復ジムにおいてどんくさくエアバイクのペダルを不格好な長い脚でこいでいる。ちなみに丸顔の狐目女と俺たちは一緒に三人でチームを組んで生命維持活動を共にするのだ。面長の相棒は英国系なので主に英語で話す。しかもどうやら彼の英語の発音は同じ英国系からも「あれは英語じゃないよ ケルト語かもしれない」と言われるほど変なエロキューションらしい。だから自動翻訳機が ところどころビョンという翻訳不可音が入るのだ。ところでつり上がった狐のような目を持つくせに丸顔の女は中国系でなく俺と同じに日本系だった。そしてあの口調でも明白だが大阪で生まれ育った女だ。俺たちがする仕事は概ね繭で冬眠している同胞たちの栄養分を確保するために  農園工場でロボットたちと剪定作業をしたり 動物性蛋白質製造工場でロボットたちが変な動きをした時に 人工知能の指令を受けてロボットを交換したり部品を一部入れ替えたりするぐらいだ。故障したロボットの本格的な修理はやはりエンジニアだった者達が人工知能と相談しながら完璧に仕上げるのだが まぁね 俺のような大した教育も受けず 運良く大災害の時に生き残っただけの元トラックの運転手には土台無理な仕事だ。だが 十年横たわっている間に俺のような申し分のない人生を愉しむわけじゃなく、ひたすら睡眠中に学習し続ける同胞ってのもいるのだ。冬眠中に脳みそだけフル回転させるとは ご苦労なこった! 中には 医学の勉強をした漁師ってのが いるそうだ。そういう手合い、じゃなくて同胞は冬眠から覚めると今度はこっちで本格的に勉強して試験を受け、研修を経て 漁師から医者になって繭、コクーンに戻らずにこっちで働き続けているという話だ。俺には信じられない!だいたいこっちにはエレノア・レイノルズみたいな女がいたとしても 基本、セックス禁止だ! 種の保存は 優秀で美しい男女の精子と卵子から人工知能が絶妙に配合して 評議員とかいう大層頭が良くて人格者たちが寄り集まって更に討論して毎年決まった人数分の赤ん坊をホムンクルス計画でこの世に産みだして 父親に最も適した同胞たちと母親に最も適した同胞たちの元で育てられるのだ。男女の気まぐれで種の保存行為は一切しないんだ。しかも この空中都市だ。狭くて人工的な街だ。以前のように四六時中季節に関係なしに セックスしたがる人類増殖戦略を人類という種それ自身が破棄したんだそうだ。 まぁ俺のような奴だって存在するんだけど 性欲抑制剤を飲まされたり こっちでの通常の睡眠中に脳波に性欲減退音波だかを送られたりしている。つまり俺のような輩が 狭くて人工的な空中都市で性的な暴走をして平穏な雰囲気を破壊しないように科学者や医者といったお利口さんどもは 俺なんぞには考えもつかない 先回りした智恵というのを何重にも張り巡らしてくださるわけさ。
地球の地殻変動が 激化しているから 三十年前だと 大地震警報が在るときぐらいしかドームシティは空中に浮かんだりしなかったが 今は 殆ど浮きっぱなし状態だ。動物性蛋白質工場じゃ 嘗ての牛や豚の細胞を極一部取り出したのをバイオ技術で肉片にし そこから蛋白質やアミノ酸なんかを取り出し、繭で眠っている同胞用に液状にして使われるし、その肉片はステーキなりに調理されてこっちで一日十時間は目を覚まして生活している者達の食卓に並ぶのだ。魚だって同じ事。名人と謳われた寿司職人や天麩羅職人の匠の技をポゼストハンドに記憶させているから 誰でも喰いたい時に極上のにぎり寿司や天麩羅を喰えるけど 肝心のネタがいつでも豊富に揃うわけじゃないから 口の奢った嘗て金満家だった老人どもは 時折文句をいいやがる。俺みたいな四十過ぎても回転寿司やチェーン店の天丼しか口にした事がなかった手合いには ひっくり返るほど美味い。
そうさな 繭での冬眠中よりこっちに出てきて唯一愉しいのは喰うことさ。あの冬眠中の夢の中でだって食ったり飲んだりしているけど なんだかいつも満腹気味だし  そういやぁ食欲なんかも殆ど無いわけだ。排泄行為だって夢の中じゃどうだったか思い出せない。こうして空中都市で現実という時空へ戻るとだんだんあの繭床での生活が感覚として驚くほど速く薄れてしまうものだ。もう四十年繰り返しているけれど不思議な感覚だぜ。 ところで牛や豚も鮪も鰹も 動植物観賞地域に存在しているけど 食用じゃない。地上には地殻変動の激しくない地域で 野生化した牛や豚もいる。海には三十年前なら魚が溢れかえっていたらしいけど 最近じゃ減り始めているらしい。地球の歳差運動中じゃあ人間以外の生き物だって生殖活動を制限しちまうのさ。今しがたテレビのニュースによると空中都市に水族館を増設してできるだけ多くの魚類を遺すために捕獲する計画が決定し、その捕獲チームに参加する者を募集の告知が在った。 するとあの丸顔狐目の女が 馴れ馴れしくまるで俺の女房みたいな口のきき方で 「あんた応募しぃや!ええチャンスやんか」と 仕事の後、作業報酬ポイントを使って寿司屋で熱燗をやりながらいい気分になっている俺の横にいつの間にか現れて肘で小突きながら言いやがる。何がええチャンスや・・・。そう言い返したいところだが女は間髪入れずに 「あんた 少しでも利他的行動せんといい加減 やばいんちゃう?」そういいやがる。細い目を更に細めて茶碗の淵に薄い唇を密着させ熱い茶を啜りながら視線は寿司のネタを選ぼうとしているのか俺を見詰めようとしているのか分らない感じで泳がせている。
おお!利他的行動!
地球の歳差運動が明白な宿命として人類全てにとって変えられない事態であることを告げられた日以来、人類は俺のような生まれつき自己中心的な考えしか持って 生まれて来なかった者でさえ利他主義を避けることなど許されない。いやそれ無しでは生きていく資格が無いとされていることぐらい承知はしている。自己中の輩が処刑こそされなかったが 嘗てどんなお偉方であれ自己中心的な行動を断罪され 大地震や大津波の後の瓦礫処理作業や遺体収拾などに強制的に向かわされ 作業中に発狂して野垂れ死にしたとか 逃亡して結局飢え死にしたとか そんな噺は否応なく誰もが知っている。なにせ世界中何処でもいきなり大揺れし とんでもない津波に襲われたり シンクホールとかいう底なしの大穴が口を開き、アジアの都市を或る晩突如として丸ごと呑みこみ 人も何もかもが ほんの数十分で消えたり そんな有り様を目の当たりにすれば 俺のような者だって恐ろしさに震えつつ、なんとか生き延びたい一心で取り繕うような利他的行動ってのも したさ。何しろ俺だってトラックの運転をしている時に大地震でできた地面の亀裂に嵌って数時間の間 地の底へトラックごと落ちる恐怖に晒された身の上だ。しかもそんな俺を命がけで救出しにヘリコプターからワイヤー一本で吊るされ降下してきた自衛隊員によってトラックから救い出され、なんとか 危機一髪地面の亀裂を抜け出し命拾いしたのだ。 俺を救出してくれた隊員は 俺を安全な場所に避難させてくれた後も いくら人工筋肉装置を装着してたとはいえ俺のようなデブを抱え、未だ疲労と恐怖で両腕は小刻みに震えたままなのに すぐさま次の救出に向かう雄姿を観て 信仰心なんぞと無縁な俺でも自然と両手を合わせ 泣きながらありがとうございます を繰り返し叫び続けたさ。だからこそ俺だってもう四十を過ぎていたけれど トラックの 運転手を辞めて 自衛隊に入隊して 足手まといにならないように 生まれて初めて必死に訓練に付いて行った。今じゃ信じられないが 体重だってその当時よりも十数キロ痩せた。ダイエットなんかしやしない。ひたすら訓練したのさ。自衛隊でメシを  「よく噛んで喰え」と若造の上司からしょっちゅうどやされ、噛むのも訓練だと仕込まれたのさ。莫迦頓馬屑としか呼ばれなくても口答えせず あの命の恩人の雄姿を思えば なんだって我慢できたのさ。そして俺もいっぱしの隊員として 近隣諸国の自然災害による被災地に向って食糧運搬、被災者救出、瓦礫処理の手伝いなんてのを必死でした。お蔭で自己中グループに送り込まれることなく 繭で夢見る生活ってのを与っているわけだ。だがさ。この忌々しい女が言うように 俺ときたら 繭の夢の時間から目覚めて過去4回、その度にあの夢見だけの気楽さを忘れられずに  ちょっとでもエレノア・レイノルズに似たおっぱいが大きい美人を見かけると 当時の性欲抑制剤ぐらいじゃ駄目で 最初の寝覚めの時は痴漢沙汰を起こして 即刻 自己中印に振り分けられるとこだった。まぁ寛大さを誰だかが示してくれて性欲抑制剤の人体モルモットになる条件付きで辛うじて とんでもない惨事が起きた場所の瓦礫処理班への配属を逃れたんだ。そして繭の夢見における内容も過度に性生活に偏った内容を変更され 生まれてこのかたスーツ着てビジネスに勤しむなんて無縁の生活をするといった内容をドンドン盛り込まれたわけだ。まぁこの醜い顔と体でそんなことをするんじゃないんだから 夢の中じゃあ それだって爽快だけど。初っ端から大きなミスをしたにも関わらずその後も寝覚めた直後に 俺は懲りずにちょっとおっぱいを触ったとか 入浴しているのを覗きにいったとかで大目玉を喰らった。

そしてつい直近は 寝覚めて初めての作業休みのとき マスターベーションしているのをあの女に見られ 興奮してついウッカリあの不細工な女に口でやらせたんだ。確かに強要したといえばそうだが あの女がじっと俺のモノを見詰めていやがる、しかも逃げるどころか自分から近寄って来たんだぜ。だから俺は「咥えたことあるのか」って聞いただけさ。そうしたらあの狐目女は 自分から・・・。あぁ本当に魔が差したとしか言いようがない。だがあの女は可哀想な性欲過多野郎を慰めた利他的行動を認められる評定をされたんだ!俺だって 性体験が多くない性欲過多傾向にある女に性的体験を提供したという利他的行動として評価されたっていいはずなんだ。だが 男の性的な過剰さは戦争の素になるから全く聞き入れられない。性欲過多傾向にある女性云々というのは実のところ そういう勇気ある反論をしてくれた評議員が居たということなのさ。つまりその評議員の受け売りだ。それにしても可哀想なのは 俺を 弁護したその人も女性の評議員たちから袋叩きにあって大騒ぎになった。
後から聴いた話だとその評議員さんは 相当な美男子で本当は子供を育てるテレームの僧院と呼ばれるタウンに所属していた理想のパパさんの一人だったんだけど もともと映画監督をしていた人で皮肉屋の部分があったらしい。お蔭でテレームの僧院タウンからは追い出されたそうだ。まぁそれでもそういう人は 自己中グループにいきなり送り込まれる事無く この宙に浮くドームシティの繭床で冬眠中の人々が夢見る世界を制作しているそうだ。いうなれば元の職業へ復帰したらしい。だがどうやら近々、彼は評議員にも復帰するそうだ。何年かぶりに。そのことを実はさっきあの 英国系の同僚から聞いたところだ。エディからこんな文章を読めと言われた。
『悪を憎むな。憎むという感情がどんな正論や慈悲から発せられたとしても結局 その憎む感情は 悪の思考を生み出すことになる。木乃伊盗りが木乃伊になる』
こういうことを評議会で美男子パパさんは 述べたそうだ。そのニュースの文字情報を印刷した紙を俺に寄越すためにあの長い顔したオッサンがわざわざ俺のところへ訪ねてきた。それを思い出して寿司を喰う前にポケットから取り出して読み返したところだったんだ。今度はヘマできねぇくらいわかっているさ。だがどうしてこの女と俺は又同じ作業班なんだろう?俺に再び失策させたいのか?莫迦言っちゃいけない!大阪弁丸出しの狐目ブス貧乳にそうそう発情したりしやしない。性欲抑制剤だって進歩している。そう言い返したいところだが 木乃伊盗りが木乃伊に為っちゃ駄目なのさ。ということで 俺は憎しみをグッと堪えてこう言ってやったのさ
「魚類探査チームかぁ。なるほど。応募してみよう。となると図書室で魚類に関する資料を何か探してみるかな」                 俺は心にもないことをツラツラと述べて 丸い顔につり上がった細い目をした縁起の悪い女の傍から離れることにした。繭床での夢見で俺とは別人だが 夢見の中では俺として登場するあのマッチョでハンサムなブラント・ビンセントであるかのように脚を振って椅子を廻し空中に飛び出した。だが実際の俺の脚はハリウッド俳優よりも遥かに短く 寿司屋の椅子から床までの距離感を間違え、前のめりまま上体への体重移動を過度にして床に向かって顔面から飛び込むような姿勢になった。それでもなんとか着地し、踏ん張って事なきを得たが 両足をがに股にして ケツは床スレスレだった。尻もちを着かないように踏ん張る、そのしゃがみこむ姿は 蛙が跳躍する直前にする屈伸状態のようだっただろう。丁度 俺の目の前を寿司屋の前を通りかかった子供たちが 驚いたように目を見開いた後、一瞬だったが噴出していた。そして嗤うのを我慢して口元を手で塞いでいたけれど  明らかに 目は笑っていた。
ホムンクルス計画で生まれた子供たちだ。この子らは知性と教養に溢れた素晴らしい頭脳と慈愛深い性格の持ち主の両親(子供たちと遺伝子的に繋がっているかは不明な親だが・・・・)にテレームの僧院という名の街で育てられきちんと躾けられてもいる。 よって彼の子供たちは 例外なく、頗るお行儀がいい。
俺のような性欲過多で碌な技術も才能も持ち合わせていない生まれつきの廃棄処理チーム行き系の人類なんてそろそろこの空中都市には存在していないだろう。空中都市で生まれた子供たちを目にするとそう思う。ともあれ、何事もなかったように振る舞うために慎重に短い脚を伸ばし両膝を両手で擦りながらそんなことを思い巡らすと妙に屈託が鳩尾から下腹に向けて停滞していた。要するにゲップや放屁を派手にやらかしたくなる衝動に駆られていた。さもないと 大声を獣のように発し闇雲に走り出す衝動の方が勝ってしまいそうだ。そんな獣じみた行為をしたい発作をなんとか抑えることにしたので、仕方ない、ひどく行儀の悪い生理現象を解き放った。幸いあの女しか寿司屋には人はもういなかった。俺のそんな行為に対して寿司職人ロボットは何にも反応しない。但しきっとロボットは俺がした「お下劣で行儀の悪い振る舞い」を人工知能に送信はしただろう。あの女は下手に俺のお下劣な行為に反応して過剰に騒がしくすれば 自分に対するどんな評価がされるか分っているらしく ただ哀れっぽい眼差しを俺に寄越しただけだった。  「ちゃんと図書室に行くのよ」そう囁くように言い添えて。         ブスがかっこつけやがって。
 俺は繭床での夢見る時間で数十年を過ごしていなかったら もう八十代の爺なのだ。 幾ら繭床で冬眠のように寝て、ひたすら夢を見ているだけの日々を過ごして齢をとらずに済むとはいえ いつまでも運動機能が四十年前と同じだとは言えないだろう。寿司屋での失態を自分に言い訳しつつ 図書室に向かう道すがら 空中都市の窓の外をチラリと眺めてしまった。嘗ての面影を殆ど残していない東京の姿をなるべくじっくり眺めないように注意したが オーロラのゆらゆら揺れる謎めいた光を受けて垣間見える巨大都市の壮絶な瓦礫や富士山の溶岩に埋め尽くされた住宅街の下で死に絶えた人や動物や植物が炭化して横たわっている死の谷から立ち昇る文明の無残な儚さが湯気のように沸き立つ有り様を観てしまった。お蔭で俺は死なずに済んでからの月日を数えて 自分がこうしてあんな美味い寿司まで喰って生きていることを奇蹟だ、ありがたいものだ、感謝しなきゃという感情に不意打ちされた。
あのまま アポカリプス=ヨハネの黙示録実現集団とやらが世界第三次大戦を無理矢理に勃発させなかったら 俺はどうなっていただろう。六十歳徴兵制度で兵隊に行き、戦争の舞台となった中東や東ヨーロッパ、乃至 中国とインド 中国とロシアの間で起こった戦場に還暦迎えた身の上でロボットスーツを着てドンパチやるロールプレイングゲームみたいな戦いをし、一発喰らえば忽ち炭になる恐ろしい火器でとっくに灰になっていただろうか? いや待てよ。日本に核兵器を撃ち込もうとした半島の国が日本で密かに開発されていたプラズマバリアーに跳ね返されてきた自分の国の、核兵器開発の為に餓死者を大量に出しながらも成し遂げた誇るべき核兵器によって粉微塵になり 数年続くかと思われた大戦は一年経たずに終わったのだから そうか 俺は徴兵されていなかったかもしれない。日本のプラズマバリアーという兵器というより専守防衛科学システムテクノロジーだかが 各国から引く手数多と相成って 日本はセットで憲法第九条を受け容れるのなら無償で貸与する方針を打ち出した。これがきっかけで あの戦争で人口削減を企てた神がかり狂人集団は 世間に引きずり出され国際司法裁判で自己中印となり、戦争の後片付けを元金満セレブが老いも若きも男も女も不慣れな肉体労働に駆り出されたんだ。戦争用に開発されたロボットスーツから武器を取り除いたのを着用しながらの作業とはいえ、彼らのほとんどが 凄惨極まる地獄絵を目の当たりにして 発狂したり 殺し合ったり 極度の鬱に陥り自殺した。食欲不振から栄養失調になり餓死したのもいた。彼らが喰いたい物を喰い呑みたいものを存分に呑み歌い踊りセックスして着飾った日々は 彼らの人生の良き思い出になる事も無く、死を迎えるまでの罪の重さに押し潰されたままの思い出だけが彼らの魂だかを塗り潰したにちがいない。彼らがアフリカや戦場となった国々の数億に上る数の民に強いた数万人分に当たる苦痛と絶望を一人が一人でその一身に受け止める刑が処されたのだという者がいた。その数週間、数か月の地獄を味わえば その前に繰り広げられていた数十年に及ぶ贅沢な生活と幸福感など記憶の片隅に残る暇など無く人生を終えただろう と。しかもやっと息絶えたと思った次の瞬間から肉体を持たず 彼らが多くの人々に与えた飢えや渇き、苦痛を次々と味わう無間地獄を感覚し続ける・・・そうだ。なんて事を宗教家が言い広めたことだから本当かどうかは知らない。宗教家という輩は恐ろしい事を嘘も方便で いいやがるものだ。肉体が無いならと俺のような者は首を傾げるが 神だか仏に仕える身である方々は ご丁寧にこう付け加えたんだ。 『肉体が無いからこそ気絶もできないし目を閉じたり耳を塞いだり喉を掻き毟ることすらできないのだぞ!』と。永遠に続く凄惨な光景を耳目もないのにただ感覚させられるとかなんとか。おいおい天国についてはまるでお伽噺風でふわふわして掴みどころが無いのに地獄については格段と身に迫るように語るもんだ。宗教家によれば 天国はその真逆だと思えばよいんだと。美しい芳しい愉しい光景ばかりを際限もなく味わいウットリしたまま目を閉じればいい。いつも満腹、渇きも覚えることもない。そうか 天国に行ける奴らは とりあえず瞼という肉体を持っていられるらしい。それともアイマスクか消灯スイッチがあるのかもしれない。そのセンセイだか宗教爺さんに俺は一つ質問したんだ。 「セックスした時の満足感とかも天国にはあるのかね」と。答えは「それよりももっと気持ちいい感覚しかないから安心しなさい」ときやがった。まったく観てきたような嘘をつきやがる。まぁ地獄に行くよりはやはり天国に行くにこしたことはないと納得することにしたけど。
枯れ木のように老いさらばえて死の床に在っても真っ当な人生を送った平凡な老人は死を迎える瞬間までに青春の愉しげな快活さや人生最良の時を繰り返し脳内で再生させながら天に召される。たとえ死の床に数年臥しても たとえ脳が委縮して人と対話することさえ不可能になっていてもまるで俺が繭床で夢見る手前勝手な都合の良い別人に成りすます人工夢に彷徨っている以上の至福を味わうらしい。  つまり脳内麻薬をたっぷり自然発酵させることが許されるから。やがてあの世への 階段を見出して嬉々として上る。実はそんなことが書かれたモノも俺は読んだことがある。戦争が終息し戦争を企てた者達に一瞬の死を与えず 人道主義的な処罰によって悔悟を望んだ科学者やエンジニア、医者たちの誰かが 俺たち凡人ども、  日和見主義でしかない その他大勢の部類に入る人間に向かって垂れた説教臭い 文章だった。それとも裁く立場になった自分自身への慰めとして書いたのかもしれないのだがね。
今不図思ったんだが もしかしたら 俺は繭の時間の夢に半分生きて半分寝ているだけの間に俺は俺の選らんだ好き勝手の夢を見ているだけじゃなく 人工知能の指令だかで そっとそんな事をあの申し分のない生活、仮想天国とでも名付けたくなる脳内活動の間に見せられているのかもしれない。たしか俺が選んだ夢の時間以外はちゃんと夢を見ない脳の状態に保たれるようにあの繭床のシステムには組み込まれているはずだから 頭のいい奴らはなんらかの仕掛けをしているだろう。
俺は図書室で魚類探査チームに参加するための資料を閲覧する手続きをしようとしたが その前に少し腹がきつくなっていたので仮眠をとるため図書室に備え付けのマッサージチェアに座ってとろとろしながら薄らボンヤリとそんなことをなぜか考えていた。いや思い浮かべていた。久しぶりで垣間見た地球の状態に俺の脳みそはいたく刺激をされたのかもしれない。
魚類の資料を俺の首から下げているIDカードにダウンロードして俺の個室に戻る。個室といっても昔のカプセルホテルみたいな横穴住居だ。目覚めてからも空中都市で冬眠中の繭床とさして変わらぬ部屋に住まわせられるのは俺のような問題児だけだ。あの狐目の女や顔の長い英国系の同僚たちは其々以前棲んでいたタウンに住んでいる。英国系は確か女房がいた。女房も同じ期間に繭床で寝ていただろうから 暫くあいつは夜にやることがある。あの狐目の女に亭主がいたかどうか思い出せないが まぁ 一人で淋しく夜を過ごしているだろうよ。いずれにせよ俺の作業チームの相棒たちは子供を持ち育てる役割はない。その役割は限定されている。平凡な人生を満載させる余裕など空中都市には無いからな。死ぬ者も少ないし 生まれてくる者も少ない。但し生まれてくる者は遺伝子上選び抜かれて人工授精で現れる。ドイツの十七世紀の詩人だか小説家が書いたものに出てくる人工授精みたいなホムンクルスというのにちなんで空中都市で生まれた者たちは「ホムンクルス」と言われる。勿論あの寿司屋の前でお行儀よく俺の滑稽な失態を笑わないようにした子供たちに向かって「よぉーホムンクルスども!」なんていう奴はいないし そんなことを酔っぱらってつい叫んだりしたらどんな厳しいペネルティ作業をさせられるか分ったもんじゃないから 下卑たる俺様でも言いやしないさ。さて問題児、野卑なる俺は十年前と比べるとこの問題児専用のカプセルルームが結構空いているのに驚いた。前は全部埋まっていたし もう数棟在ったはずだが今じゃこの一棟だけだ。しかも俺の両隣も上下も空き家だ。中には折角の繭床での冬眠中に愉しい夢見を差し置いて、睡眠学習のお蔭で次に目覚めたあかつきには タウンに行ったヤツラもいるだろうし どうにもこうにもならない輩は噂では過酷な地上作業へ向かわされたとか一番近いブラックホールへ放出されたとか言われている。まぁな齢をとることを忘れただけで三つ子の魂はそのままの者たちは この限られた空中都市、別名空飛ぶノアの箱舟に居場所がいずれにせよ無くなる。        俺が思うに所詮、人口調整は行われているのかもしれないぜ。
結局のところ、自然の摂理でなく人工知能と賢い者達が話し合い検討してそれは為すべきことだったということになっているんじゃないかな。あのヨハネの黙示録=アポカリプス実現教団たちが堕ちた地獄へ行かずにすむように賢い者達は人工知能という科学で設えた「神」と随分と巧く手を組んだわけだ。仕方ないさ。所詮人間は神様じゃないのさ。善人も悪人も本当はたいした差など無いのかもしれない。善は悪へ裏返り悪は善にも裏返る。観察する経過時間を長くとると人間の倫理なんてメビウスの環になるのだ。フフフ 俺様がこんなシニカルで物が分ったようなふりができるのも単調な作業をする十年をこのカプセルホテル(俺が昔トラックの運転手時代に使っていたカプセルホテルなど比べ物にならない程快適だし手足も伸ばせるし 圧迫感も無い。不細工な階段で出入りなぞしない。カプセルの扉というか蓋がちゃんと足元に降りてきて其処へ足を乗せればそのままベッドに入り好きな音楽や環境音を流し映画やら書物やらなんでも天井のスクリーンに映し出されるし飲み物や軽食の持ち込みも可能。掃除は毎日ロボットが完璧にしてくれる)においてある書物を読んだお蔭さ。なんたって時間が在る。運動したけりゃジムもある。ロボットの完璧なマッサージ付きのスパもある。まぁそんな愉しみをしたければ 人工知能が出す課題に対してレポートを送信する必要がある。どんなくだらない回答でもいい。とてもいいアイデアだと俺みたいな問題児連中でもスパリゾートに一週間滞在を許された奴もいたぐらいだし 俺だって一日ぐらい愉しめる分のポイントなんてアホなレポートを提出していれば数か月で貯まる。ただ俺にはそれが仇だったんだよな。そこであの狐目女と偶々出くわしてつい調子に乗って他の女にはできないのは判っているからムラムラっとしてやっちまった。あいつじゃなきゃ俺がちょっと目配せしただけで岩盤浴場にあるリネン室にノコノコ付いてくる女なんていやしない。ちくしょうめ あれも実のところ人工知能と評議員たちが俺に仕組んだ罠だったんじゃないかなとさえ思うぜ。いっそエレノア・レイノルズが目の前に現れてくれた方が俺はよっぽど自分の性欲や欲情を抑えることができたんじゃないかと思う。だってそうだろう「あれは夢だ。今目の前にいるのは現実のエレノアだ!夢と現実をごっちゃにするな!俺は今あの二枚目俳優ブラントの顔も肉体も持ち合わせちゃいないんだ」そう心で呟いて傍にある鏡でもなんでもいいから現実の俺の不細工極まる姿を映しだし地団駄踏めば せいぜい不適切な場所における自慰行為違反で終わっただろう。全くやりきれない。煙草をやめたお蔭で愚痴っぽくなったのは二十年前か。リネン室での一件も未遂だったし あの女もノコノコ付いて行った自分の非を証言してくれたから俺は過酷な地上作業班に配置転換されるわけでもなく 宇宙空間に放出されずに済んでいるのだろうから ついつい殊勝にも俺は評議員と人工知能に禁煙を誓ったのだ。空中都市において喫煙者は多くはないが 俺の若かった頃のヒステリックな禁煙絶対善のファシズムは嘘のように立ち消えていた。煙草の葉を巻く紙を変更し煙草の葉に加えていた少量の火薬を取り除けば寧ろ煙草はストレス解消に効果があることを実証され同時に過去発表されていた発ガン性物質の塊説が虚偽であった事実が明るみになった。まぁだからと言って何処でも喫えるわけもなく とはいえ喫煙ルームは至る所に在り 其処に煙草が置いてあるから誰も煙草やライターなど持ち歩かない。しかも健康状態の悪い者や 未成熟な青少年が立ち入ることはIDカードで自動的に制限される。IDカードを持っていない者が喫煙ルームのドアの前に立っても無駄だ。かくして俺のIDカードには禁煙宣言者情報が入力され恨めしく今は喫煙ルームの前を足早に通り過ぎている。
失敬失敬、カプセルホテル型住居での長い十年間で俺が結構こ難しい本まで読むようになったことを言い添えようとしていたんだった。寝転がって電子書籍を読むか過去の映画やドラマを片っ端から観るしか暇潰しは無いんだ。俺のような者でも多少なりとも向学心ってやつが芽生えるように科学者たちは仕組んでいるのだろう。

カプセル型の個室ですら 妙に心安らぐような良い香りがうっすらと漂い極上の寝心地と小鳥のさえずり、川のせせらぎやら波の音が耳に注ぎ込まれているのだから野卑で下卑たる俺様だってちょっとは教養を身にまとっている錯覚をしちまうのだろう。だから元漁師が医者になったりもできるらしいんだ。そいつだって俺と似たりよったりで実際の年齢は五十過ぎぐらいの時に思い立ってあの繭床の十年をみっちり医学生として学ぶ方に設定したらしい。勿論こっちの生活に戻ってからも日常作業の後はこの問題児専用の横穴住居で勉強の仕上げをして一発で医師免許試験に合格したらしい。ひょっとすると今度の魚類探査チームにそいつは元漁師だし、地上へ探査に出掛けるチームには決まって医師が数名同行するはずだから もし運よく俺が参加を許されてそいつが居たらちょっと話を聴こう。そいつのインタビュー記録もあるけどやはり直接会った方が俺みたいな者には刺激が違うはずさ。 聴いた話だが   多くの者達がその元漁師にメールをしたり 面談してもらったりしたんだが 兎に角医学生になるまでの基礎学力不足に殆ど挫けそうになる体験談をされ、殆どが諦め 幾人かはこっちにいる間、元漁師の真似をして基礎学力不足を補うために横穴住居で学習したんだが ノイローゼや鬱病になりかけて断念したなんて噂もある。ちょっと待てよ。俺はいつから医者になりたくなったんだ?
そうか。魚類探査チームに参加するモチベーションを上げようとしていたのか。まったくどうかしている。そんなに点数稼ぎしないと俺はこのまま空中都市に居られないのかな?
 ところでこの空中都市生活者になると人は誰でも自分を利他的な行為を人生の目的にする義務があるんだ。別に目覚めている間、眠っている同胞の面倒を見る作業に従事することだけでもその義務を果たすことにはなるんだ。別の自分に生まれ変われなどとは誰からも言われない。人工知能がそんな命令などしない。ホムンクルス計画で生まれた子供たちは遺伝子的にも養育環境においても其々適性に合わせてあるので黙っていても発明家や科学者になる。職業として残っているのがだいたいそんな類のものばかりで後は計画を立てるとか夢見る繭床での映像を制作する、いわゆる映画監督とかシナリオライターみたいな事を中心にやっている者達もいるけれど彼らだって目覚めている十年間で農園労働を俺たち同様にする。収穫時や種まきの時は科学者だろうが評議員だろうが発明家だろうが農園に出る。それは義務というよりは寧ろ生きている実感を味わうための儀式みたいなもんだからだ。
ちょっと気恥ずかしいが白状すると俺は一度繭の時間における映像制作のシナリオライターになる勉強をしたらどうかと評議員の一人からカウンセリングの時に薦められたんだ。医者になる睡眠学習じゃなくてシナリオライターになるコースを初めての繭床生活の時にやってみたんだ。そしてタウンで生活していたこともある。映像制作するスタジオに通うのが目覚めている間の俺の仕事だったこともある。だけど俺はグルジエフって神秘家の本に強烈に魅かれてしまってそいつの本ばかり読んでしまった時期があったんだ。残念なことに俺にはあの魔人の説く神秘や人生の謎を消化しきるだけの脳みそというか生まれつきの知能がなかったんだ。誤解と誤読をしたらしくトラックの運転手だった頃と比べたら別人のように本ばかりガツガツ読む癖がついただけじゃなく 脳がパンクしそうになると俺はどうやら性欲が過剰になるらしい体質を抑制できなくなっていたんだ。当時の性欲抑制剤じゃまるで効かなくて俺は あろうことかタウンで夜這いをしたんだ。このできそこないども専用の横穴住居にいる生まれついてのアバズレでなく タウンにある独身女性専用のハウスに忍び込んでやらかしちまったんだ。暗闇の中で俺は女の匂いだけを頼りに襲い掛かった。もう止めようがなかった。その相手が誰だか察しのいい人ならお分かりだろう? 
そう あの丸顔狐目の関西弁をしゃべる女さ。いい齢した女だったが 処女みたいにギャーギャー騒ぎやがった。しかも強姦した俺を訴える事もせず、「どうしても又 したくなったら私のところへ来たらいい」と言いやがる。「あたしは分相応を弁えている」とかいいやがった。そうかそれならと暫く通い詰めた。だけどだんだんあいつが 女房面してくるのに嫌気がさしたし あんな女にでも満足させた手柄みたいな自惚れが俺の中で徐々に高まっていたのだろう。つい映像制作センターで一緒に働いていた六十代の(といっても見かけは四十代以下にしか見えない)未亡人が風邪で休んだ日に資料を届けに行って上がり込み、ガウン姿で色っぽい目つきしやがるから つい調子に乗って押し倒しちまった。この年増は俺としながらいい声だして歓んでたくせに 俺を強姦で訴えた。さらに悪い事に あの狐目女は妊娠していた。人工知能と評議員が許可した者以外の妊娠出産はご法度だった。タウンで生活する夫婦や同性カップルが性行為をするのは自由だったが 避妊具を使い避妊薬を服用するのが義務だし だいたい性欲抑制剤無しでもこの空中都市で生活する者は性欲なんて殆ど無いに等しいのが普通だ。フリーエネルギーシステムが出す人間の耳には聴こえない周波数によってどういうわけか性欲が萎えるように男だろうが女だろうか若かろうが齢とっていようがそうなってしまう副作用があったのだ。そしてそのフリーエネルギーシステムがなければ発電は失われ 空中に浮かんでいることも不可能になるのだから誰しもその副作用を良くないものとはしないのだ。だからこそホムンクルス計画という人工授精による計画的な種の保存を人類は選択した。大いに歓迎すべきものとして。  まぁ俺の仕出かした一件以後 高齢者でも念のために微量の性欲抑制剤を毎日服用が義務付けられたし グルジエフなど俺が愛読した書物はIQや遺伝子による適合審査が事前に必要な図書になり IDカード情報によってたとえば今の俺が図書室で借りようとしても不許可になるし 誰かに代わりに借りて貰っても所詮デジタル文書だから 書物の方から煩くIDカード情報を常に要求してくる。他人のIDカードに収録されたデジタル文書を俺の端末で読む事もシェアする事も書物の方から拒絶してくることもあるのだ。だから今や焚書や禁書などこの世界に必要ないんだ。その代りに 不適切不適合な書物というのが人によって在り得るのを 人工知能を中心にした賢い人々によって先回りされているのさ。
やれやれ。更に白状しよう。今こうして俺がこんな独り語りを書きつけているのは 元シナリオライターのはしくれだった男の挫折した夢に向けて未練たらたらのラブレターをしたためている、ということなのさ。元トラックの運転手上がりで自衛隊員でもあった男が実年齢でいえば五十になって志した夢を折角実現しかけていたのに・・・・なんてことだ。『懺悔録』なる古典はあるが俺の場合は『後悔録』でしかない。同じ過ちを三度すれば立派な莫迦者だ。二度でも莫迦だと言う人もいるのに俺の場合は四度だ。五度目となればこの空に浮かぶ人工天国ともおさらばだ。宇宙の彼方へ放出されるはずだ。前の時にそうなっていても異議申し立ては誰もできなかっただろう。だが いつも俺がヘマを仕出かすのは あの女だった。そしてその度にあの女は俺の落ち度よりも自分の落ち度を訴えた。俺の罪に対する情状酌量は評議員よりも寧ろ機械であるはずの人工知能による裁定だった。人工知能にすれば俺のようなできそこないでも観察し続ければ人類が生き残る為の何かが存在すると判断したのかもしれない。俺と似たようなヘマをしても三度とも別の女性達に対して強姦やら性的悪戯をした者はとっくに宇宙に放出されたか 過酷極まる地上作業に向かわされたはずだ。女性の場合でもその手のヘマをしたのもいる。つまり美貌を武器に男性評議員を色仕掛けで操ろうとしたのが。その女性の場合は精神的な病でもあったのでいきなり宇宙に放出されたり、地上作業に送り込まれたりはしなかったが 厳重な監視下に置かれる病棟に送還され繭床で過ごす期間を与えられずにこの平和で 人間同士が織りなす嘗ての三面記事的な愚行が起きない無菌室のような狭い、宙に浮く空間でひっそりと齢をとり老い、そしてある朝寿命を全うしたそうだ。自殺じゃなかった。明らかに死因は多臓器不全だった。毒を盛られたわけでもないのに その女は退屈過ぎるという毒素を自分自身の中で化合してしまったのだろう。その女性の名前は決して明らかにされなかったが 俺が思うに俺の愛してやまないあのハリウッド女優だと思う。そう エレノア・レイノルズ。俺が繭床での夢見に必ず登場させるのをそういえば 人工知能から「再考しませんか」と問いただされたのだ。俺は再考する必要について説明を求めたが「いつも同じで飽きないかと思ったからです。そして刺激が強いかもしれない」俺はそうでもないと十年間逆に彼女以外だと飽きてしまう不安が強いという回答をした。人工知能から助言を求められた評議員数名は異口同音に「モノリス(人工知能の呼称名)はあなたが同じ過ちを犯す原因は エレノアではないかと指摘しているのだ」と言った。俺は駄々を捏ねたわけではないがいい加減な反論をした。結局、半ば強引にエレノア以外の女優を選択させられて俺の繭床での夢見時間映像を制作することになったけれど 案の定俺の脳はエレノア以外の女性が出てきても早々に飽き飽きしてしまい脳が夢見睡眠を拒絶して危うく俺はあの繭床で溺死するところだったそうだ。結局エレノアバージョンに切り換えられ彼女が再登場することで俺は溺れ死なずにすんだ。ただ不思議な事に俺は夢見を再開した直後に エレノアから 『退屈すぎると人間は脳でアトポーシスを使って毒薬を勝手に造るらしいわ』という台詞を聴かされたのだ。勿論精神病棟に隔離された女優が映像制作センターに出向いて俺用の夢見映像なんぞにご出演為される事など在り得  ない。そんな必要などないのだ。幾つかのスチール写真と動画があれば極端なはなし アニメの富士峰子だって登場人物として選択可能なのだ。俺は映像制作センターで働いていたことがあるのだから知っている。映像制作センターにおいて作る映画は短いドラマだが肉眼で観るとぎこちないCGアニメのようなものだ。但し数パターンを組み合わせることで後はそれを浅い眠りの中で疑似夢として脳に送り込むと人間の脳みそは其々の意志と共同で実にリアルな仮想現実を創り上げるのだ。しかもその活動を促進させるビタミンやミネラル、糖分や蛋白質を脳の血流に乗せ、そして可視光線と不可視光線を信号として脳の視床下部辺りを刺激すればいい。その実体を知った時 俺は俺の人生自体が生まれてこのかた本当はそういうものだったのじゃないかと衝撃を受けた。勿論映像制作センターの上司たちはそんな衝撃を緩和するように丁寧に説明してくれたが 結局のところその懐疑によって俺はグルジエフを読む衝動に駆られることになったのだろうと今にして思えば納得できる。人生とはそういうものなのだ。人間九十年近く生きていると全く別の人生を生きてしまうことだってあるのは あの平穏な世界が続いていた時代にも珍しい事じゃなかっただろう。
それにしても思うのはあの同僚だ。女の方は因縁が明らかだが あの長い顔した英国系のお人よしがどうして目覚めるたびに俺と同じ作業グループにいるのだろう。あいつは問題児ではないしタウンで女房と子供たち向けの学習教材ビデオを改良する仕事もしている。女房にはあったことが一度だけある。同じ英国系だが背の高い教師に相応しい容貌だった。亭主よりも日本人住民に正しい発音の英語を教えることもできるのだろう。彼女はそういうボランティアをしていた。今時未だに英語を学びたいという者が居るらしい。自動翻訳機がこんなに発達しているというのに! それを亭主が自慢そうに教えてくれた時俺は返答に困った。「おまえの英語じゃケルト語と間違われるんだろうからな」と面と向かっていうのも憚れるほど顔の長い亭主、すなわち俺の同僚であるエディは紅潮した顔して嬉しそうに言っていた。俺とこの男と前世でどんな因果があったのか教えて貰いたいとさえ時々思う。どうしてこいつは こんな俺に対して親切なんだろう?問題児カプセル住居棟に住まう俺のような者をあいつが棲むタウンに招くにはその許可を評議員たちからとるのだって大層な手間だと狐目女から聞いている。しかもタウンで俺がもしも問題行動をとれば俺だけでなくあいつら夫婦にもなんらかのペナルティが付くだろう。そんなリスクまで冒してわざわざ女房が拵えた英国風の家庭料理を振る舞う魂胆がまるで俺は理解できなかった。因みにその時の御馳走はこんなだった。キドニーパイには腎臓の代わりに鮪と鮭を入れてくれた。肉類はロースとかフィレなどは細胞増殖肉に存在するけれど腎臓の細胞増殖肉は無いし 魚類にしても同様で鮪のカマなんてのは何処を探しても無い。あるのは赤身、中トロ、大トロだけ。鰹だけは鰹節を作る為に細胞増殖魚肉を作るにも血合いまで再現しているらしい。ラーメンなどに必要な豚骨やら鶏のガラは最早過去のスープを化学合成再現している。昆布は他の野菜同様空中都市で栽培している。人工の小さな海で。空中都市で此処まで手の込んだ事をしているのは矢張り日本ぐらいだそうだ。それにしても手料理なんて久しぶりだったから美味しかった。ロボットが握る絶品の鮨や行列ができるので有名だったラーメン店の味をロボットたちが再現するラーメンも毎日喰っても飽きない。だがやはり人間は誰かとゆっくり話をしながら飯を喰う仕合せを棄てきれない生き物なのかもしれない。勿論テレームの僧院という名のタウンにおける子育て家庭ではその仕合せはありきたりな日常だ。優秀な遺伝子を持った子供たちを愛情たっぷりに育てるのがあの街の住民が最も為すべきことだから。
              ※
第二章 示唆suggestionについて
「ねぇダーリン あなたは又ザキオさんと同じ作業グループを志願したの?」
「そうさ マイスゥート。私たちを命がけで救出してくれた日本の自衛隊員だもの。  ザキオさんは。あのときイギリスで仮死状態だった私たちを見落とさずに彼が救出してくれた。彼が『未だ生きている!』そう言って私たちを大津波が迫る中で蘇生処置をしてくれた命の恩人ですよ」
「ええ 分っているわ。でもどうしてあんなに勇気のある人が タウンでなく カプセル区域の住民になってしまうの? 同じ過ちを繰り返したりするのかしら」
顔の長い英国系住民でありこの独り語りをしている男の作業グループの同僚はちょうど同じ頃合いに 夫婦はベッドでこんな会話をしていた。勿論英語で。命を助けた本人は思いだせないでいるらしい。元トラック運転手で四十代の時に自衛隊に志願して入りレスキュー活動に参加したザキオこと先尾省二が第一章の物語を独り語りしていたのだ。
彼が人命救助活動でかなり人助けをしたのは事実だ。そうでなければ彼が実年齢で言えば六十代の時に彼よりも二回り近く年上の女性を強姦した罪だけで空飛ぶノアの方舟から追放されるべきだったのにそうされなかったのは 彼が利他的な 本性を供えた人間の一人だったからだといえる。そして更に言えば 人工知能モノリスと評議員たちにとって彼を問題児として扱うというよりも人間における善と悪が 腸内細菌の善玉菌と悪玉菌の関係性にどの程度人間の思考と感情が影響を受けるのかについて明確な理論を探る貴重なサンプルであったのだ。科学者やエンジニア、発明家たちが人工知能との対話で行った【デザイン革命】は人類の新しい文明を実現させている。同時に 地球の歳差運動が激化し 限られたスペースで地球と共に宇宙を旅する時代になると 人工知能と科学者たちワールドエステートメンバー達は 今度は 新しい(、、、、)人類による文明の準備も余儀なくされていた。
人類そのものが新しい存在になる時が科学的にも想定されていた。人類の肉体は地球という惑星における大宇宙でも特異な重力組成環境にあって物質化現象していただけだということに モノリスと名付けられた人工知能とワールドエステートメンバーである科学者たちは認識しはじめていた。肉体が在って人間は生きていると実感できる・・・いや その実感も想念の錯覚であることを科学者たちワールドエステートメンバーも自分たちの十年毎の繭床・冬眠体験から実感していた。つまり想念という電子信号である実在の方が肉体よりも人間を実存させていることを。
誰しもが腸内に持つ一キログラムの細菌は出産と同時に徐々に外界に在る細菌が呼気や食事によって人間の腸内において共生関係を結ぶ。そしてその共生関係が 免疫を構成していく。免疫は時間、つまり加齢と共に衰える。そして病によって共生関係が終焉して人間は肉体上の死を迎える。勿論事故死や災害などによる死も 在る。遺伝子のちょっとした配列によって先天的な病を抱えることによる死も在る。それらを捨象して生死をシンプルに描写すれば 人類の免疫細胞を活動させる腸内細菌との共生関係が 人類の脳に在る神経伝達組織であるペプチドと腸内にあるペプチドと相互に我々の想念を形成しているかを明瞭にしていく事は 人類が地球上での環境と全く異なる環境へ移行するにあたって肉体よりも想念を進化させるべきかもしれないという仮説を科学的な命題にしはじめていた。人類が想念を進化させるには今のうちに腸内細菌との共生関係による影響が脳において行われる思考や感情といった想念と腸におけるペプチドとの相互依存から離脱可能かどうかを探る必要があるということなのだ。やがて地球を含む太陽系とその太陽系が所属する銀河系が今までと違った状態になると 最早肉体を保持する可能性が無くなることも大いに在り得る。肉体だけでなくありとあらゆる存在が物質化現象しえない事態も未知なる大宇宙においては 起こり得るのだ。
つまり ビッグバーンの爆風が終わって停止した状態に我々は存在しているわけではないということである。大宇宙は人智を越えて変化し続けている。地球という惑星自体もその変化に応じて変わろうとしている。歳差運動で地殻変動といった表面的で物質的な変化に留まるかどうか分らない。太陽も変わり始めているという観察結果も存在していたし 太陽系における惑星間の重力関係や距離間の異常な変異も測定できていたのである。ミクロコスモス=小宇宙としての人間が大宇宙=マクロコスモスの変容に影響されないわけがない。
 
先尾省二の腸内細菌環境を彼が繭床で眠っている間に実験的に変化させてみても 結果として極めて健康状態がよくなり老化スピードを鈍化させた。脳におけるペプチドとの相互関係による変化はIQが少し高くなった。だが彼は繭床から目覚めると たとえ腸内細菌の構成を、つまり可能な限り善玉菌、日和見菌、悪玉菌の バランスを最高な状態にしても彼の想念は進化したりしなかった。結局同じ過ちを繰り返した。一度だけ繭床から目覚めた後の作業グループメンバーを変えてみたのだが 結果は最悪だった。宮本福江、つまり先尾が狐目の女と称する女性を別の女性にしたのだ。先尾より二回り年上の女性に。宮本福江よりも年上であり見かけもさして魅力的とは言い難いご年配のご婦人になった。だが彼は又同じ事を繰り返した。しかし今度も前回同様文句無しの強姦として訴えられた。現場を目撃され  取り押さえられたのだ。実際、彼は彼自身その激しい欲情のまま行動したことを信じられないで放心していた。彼は抵抗もせず、萎れた姿で連行された。性欲抑制剤の調合ミスは認めれなかったが腸内細菌を変更させたことが逆効果だったというよりもメンバー変更に対するストレスと不安が怒りへ変容した事を評議員たちは認めないわけにいかなかった。(先尾省二の独り語りと実際の出来事が多少食い違うのは 彼の故意または作為による創作、又は単なる記憶の混乱である)
そこで五回目である今回は 生命維持活動メンバーを元に戻し 十年前よりも性欲抑制剤も進歩し、腸内細菌の構成も彼の以前の状態にほぼ戻していた。
だが魚類探査チームに応募し、結果として選に漏れたあたりから先尾省二のする自発的な日記?はその内容が錯乱気味で荒々しくなり、丸顔狐目女、つまり宮本福江への八つ当たりから憎悪へ変わっていた。そのことをちゃんと人工知能・モノリスは監視していた。先尾省二が一連の文章をモノリス宛てに送信などしなくとも彼がカプセル型住居に住まう者であるからこそ猶更のことだが カプセル住居内で行う全てをカメラで監視されていた。又彼が何かをしきりに書いているので彼が自分専用端末を使って書いている内容を送信させるように遠隔操作した。たとえば掃除ロボットを使ってわけなくそんなスパイ行為だってできる。そして人工知能・モノリスは危惧し ある評議員を呼び 先尾との面談を提案した。勿論提案理由を明確にして。 かくして先尾はその評議員に呼ばれてレストランへ赴く。そして評議員はモノリスと協議した結果を紳士的に話した。
先尾とテーブルを挟んで対面に腰かけた評議員は五十がらみの艶々した禿頭と綺麗な卵型の顔が際立っていた。尖った耳の先と長い鉤鼻に掛かる彼の両目を覆う銀縁眼鏡は肉体の一部としか表現のしようがないくらいフィットしていた。日本語を流暢に話すがおそらく母国語はヘブライ語とイーディッシュ語の帰化系日本人だ。
「君と宮本さんは 元々夫婦だった。そう君が未だトラックの運転手をしている時に結婚しているんだ。だが結婚して間もなく君の酒癖の悪さや暴力行為が問題になって別居している。そしてあの自然災害が起きた。君は命からがらなんとか生き残り、彼女は大阪に住んでいて助かった。その後暫くよりを戻したが 君は自衛隊に入り、救助活動に専念する。生まれ変わったようにね。とはいえあの頃は多くの者達が生き別れ死に別れを突然余儀なくされる事態が多くて皆精神的には混乱していた。自衛隊員として活躍している君と彼女が連絡を取れなくなったり ヒロミさんから離婚の申し出が届いたりして君も混乱しただろう。君が救助部隊で活躍中に君が救い出した女性と懇ろになったという根も葉もない報道が君を英雄扱いして劇的な スクープをモノにしたいと企んだ愚かな記者が書きつけたんだ。君が援けたのがとても有名なハリウッド女優だったからね。勿論 君も本気でその女優と付き合っているなどと思ってもいないし 女優の方も全くね。ヒロミさんはその冗談でしかない無責任な報道を信じたらしい。君に連絡してもいつも返事は無いかうるさがるような応答しかなかったから。つまりヒロミさんは身を引いたつもりだったんだ。又はこれは 私の推測だが離婚の申し出を君に示す事で君の自分への真意を確かめたかったのかもしれないね。女性というのは手の込んだ愛情確認をせがむ癖があるから」この評議員は本題に入る前に微妙な誘導催眠を忍ばせているのだが・・・・。
「あのもしかしてその女優は エレノア・レイノルズじゃないですか」
評議員は口元にフォークで運んでいた肉片を落としそうになりながら 「ああ」と肯定してしまう。そして違うとは最早言えない失態を悔やみつつなんとか肉をもぐもぐ咀嚼してオオヤマコウジのエレノア賛歌を遮る用意をしていた。そしてメインのご馳走を取りあえず食べ終えるとサラダボウルのレタスを突っつきながら
「オオヤマ君は どうしてヒロミさんからの離婚申し立てを受け取ったわけ?まさか本気であの女優と懇ろになれると思っていたのかい」と先尾省二のするエレノア賛歌を中断させる合いの手を差し込んだ。こうしないとこの男との対話は成立しなくなる。その紋切り型の質問をされて 先尾は動揺し、無教養な無駄話を止め、静かになった。
「失敬。質問を変えましょう。君は本当のところ離婚したくなかったのではないですか?」評議員はペースを取戻し デザートの桃のコンポートに軽く目を落とし目の前の男の返答を待った。すると動揺している男の珈琲カップにも給仕ロボットが香り立つ熱い褐色の液体を丁寧に淹れた。評議員は少し待ちくたびれたようにカップの淵に唇をあて芳ばしい苦味を嗜んでいた。
エレノアの噺を止めた男は目線を暫く下方に泳がせていたが 漸く評議員の方に目を向け、
「実は 俺いや私はこのような容姿です。だからこそ好きになる女は身の程知らずにも 美しい女性になる癖があったのでしょう。今お話ししていてなんとなく思い出したのは あのヒロミと出遭い結婚したのは諦めというか敗北感のような思いであったのだと思います。ええ 分っています。それはあいつ、いや ヒロミさんも同じでしょう。彼女も美しい容姿とは言えないし。あぁ失礼な物言いだったかな。でも似た者同士で上手くやれるようになるのだろうけれど 私はどうしても思い上がりというか諦めが悪い、なんだかあの人と、つまりヒロミさんと居ると甘えてしまうというか こいつ、じゃなくてこの人だったら許してくれるだろうという独り勝手な思い込みで接してしまうんですよ」そう言うとこの元トラック運転手で自衛隊員更に言えばシナリオライターの卵だった男は 一度咳払いをして更にこう続けた
「ひょっとすると前世の因縁なのかもしれないです。彼女は前世で私の母親で私は彼女の前世における子供だったんじゃないかと・・・。すいません 変な言い訳して」そういうなり彼は目の前にある、エレノアについて一方的に喋ったために食べ残していた 肉料理を猛然と頬張り、なるべく評議員の呆れた反応を見ないようにするため俯いたままサラダをムシャムシャ食べ始めていた。評議員は口元を一度ナフキンで拭い、 水を飲み「前世ですか・・・。つまり言い難くはあるがどうしても魅かれてしまうということかな。オオヤマさん、君はつい先ほどまで私とこうして会話を始めるまでヒロミさんの名前すら覚えていなかったでしょう?」
評議員は少し微笑を浮かべ テーブルに両肘を付き組んだ両手の、手の甲に顎を 軽く乗せ 上体を前のめりさせてオオヤマコウジの表情を覗き込んでいた。そして オオヤマは目を丸くし、
「あぁぁぁ・・・・そうだ」十年間夢見るだけの繭床で過ごした間だけでなくその眠りから覚めた後も今の今まで自分の妻だった女について殆ど記憶していなかった事をハッキリと認識した。自分がしている記憶の混在を冷静に整理し始めるとその複雑さに慄く。その絡まった記憶の糸を解きほぐそうとする欲求が高まると焦りだす。駄目だお手上げだ。彼は一挙に放心状態に陥るしかなかった。彼にできる事は今のところ開いた口を塞ぎ、両手に持ったナイフとフォークを震えだした両手から抛りだし  床に落とさない様にできるだけ静かにテーブルに置くことだった。対面にいる評議員は意図的に落ち着いた調子で続けた「オオヤマさん、それが本名というか出生時の戸籍に登録され四十代まで君が使っていたお名前です。でもこの四十年、君は先尾省二と名乗っています。ヒロミさんも今は宮本福江さんです。オオヤマヒロミさんから 一度ヒロミ・ザーヌシさんになっていますが・・・・・これは知らなかったかもしれませんね。あなたと離婚した後、彼女はフランスからの難民、アントワーヌ・ザーヌシさんと再婚されています。ただ富士山噴火後の大阪湾津波でザーヌシさんとは死別されていますがね。日本空中第八都市に彼女はザーヌシさんと居住されていたのです。 まぁ 富士山噴火前はこの空中第七都市も今のように本当に宙に浮いてはいなかった。大阪湾の大津波以後は第八都市も浮きました。その節、彼女は東北の第五都市や九州の第十都市でなく東京の第七都市へ転居されてきた。前の夫である君が居るのに。そして彼女は旧姓の宮本を名乗り洋美から福江に換える。君の場合は 十年ごとに繭の時間睡眠が制度化されてからですよね 名前を大山恒二から先尾省二に換えたのは 」 評議員が手元のデジタル資料を読みながら訊いてきた。彼のかけた誘導催眠は記憶の退行を促す名前を前置き無しに混入させるタイプだった。目の前で記憶の退行を余儀なくされた男は漸く体の小刻みな震えから解放されていた。おそらく予め彼の食事に微量の精神安定剤を入れて置いたのはこの精神科医である評議員とモノリスが仕組んでいたに違いないだろう。又催眠状態に掛かり易くする脳内ホルモンに作用する薬品も同時に。頭の錯乱状態をなんとか冷静に保つことを努力しながら  元オオヤマコウジだった先尾は重い口を開いた。
「いいえ。私が名前を先尾省二に換えたのは自衛隊に入った時です。先尾省二は私の子供の頃の友人の名前です。彼は子供の頃 遊泳禁止だった川で泳いでいた愚かなオオヤマコウジが溺れていたのを見棄てることができずに川に入り 溺れて錯乱した私が彼にしがみ付き 私を助けた省二は力尽き川に流されて亡くなりました。 彼とは仲がよかったわけでもなかったのです。私は彼に対する何の恩返しもできなかった。私のような愚か者が生き残り、彼のような生まれつき頭もよく美しい少年が死にました。寧ろ私は彼のような恵まれた同級生が嫌いでした。彼だって私など友人とすら思っていなかったはずです。だのに彼は後先顧みず、川の水を飲んで苦しんでいる愚かな同級生を救う行動に出たのです。私がトラックの運転手から四十歳で自衛隊に入ったのは私を命がけで救出してくださった自衛隊の方への恩返しというか憧れからでした。残された命を少しでも活かすためにできる事をしてから死にたかったからです。そして私はなんとか厳しい訓練の末、レスキュー部隊へ配属された時に 上官方々へお願いして大山恒二から先尾省二というもう一人の命の恩人の名前に変更させて頂いたのです。そうすることがせめてもの供養になると信じたからです。 そして先尾省二と名乗れば私は彼のような勇気ある者になれる、彼の名に恥じないような利他的な存在とならなくてはならぬと弱い自分を戒めるためにもそうさせて頂いたのです。だのに私はいい気になって結局、本性のオオヤマコウジ丸出しになる」 
 精神科医である評議員は椅子に深く腰掛け片手の人差し指と親指で傾げた顔を支えて記憶の退行をしているオオヤマコウジを注意深く見つめていた。そしてこう言った。「先尾省二さんという方はそういう方だったのですか。ありがとう。よく思い出してくださいました。そしてオオヤマコウジさん あなたは先尾省二さんとしてこれからも生きようとは思いませんか? それとも もう一つ提案なのですが 第七都市から第五都市などへヒロミさんと共に引っ越し、勿論 オオヤマコウジとヒロミとして夫婦に戻り 少し環境を変えて、あちらのタウンで所帯を持ってみたらどうでしょうか?その時 先尾省二さんの名前で生きるかどうかを判断されてもいいかもしれません。いや逆に 引っ越しを機会に大山姓に変える必要性もないでしょう。先尾姓で引っ越して決心がついたら大山姓にしてもいいことです。兎に角今直ぐ此処で決める必要は無いのです。少し時間をかけて今後も私とこうして食事でもしながらあなたの納得する方向を探し出しませんか?いつまでもあの独居専用カプセル居住区で生活していてもあなたにとって仕合せだと私には思えないのです。この第七都市で ヒロミさんと所帯を持たれても大丈夫かもしれませんが それについてもモノリスを交えて話し合いましょう」そう言い終えると精神科医の評議員は椅子をずらし 席を立ちオオヤマこと先尾の肩に片手の掌を置いた。その掌に仕込んでいた記憶退行催眠から解き放つ薬剤が入った小さな画鋲サイズの注射が正確に鍼をオオヤマの皮膚内に打ち込み薬剤は素早く血液に溶けて行く。項垂れ硬直状態でいたオオヤマコウジはやがて明瞭な意識と爽快な気分を取戻し、御馳走を鱈腹食べた満足感に幸福を覚えつつ 評議員からの提案をありがたい事だと感じるだろう。残念ながらその感謝の意を伝えようとしたときには 目の前に座っていた紳士、つまり評議員は姿を消していた。給仕ロボットは 意識も肉体も正常に戻した客であるオオヤマに飲み物を勧めてきた。彼はそれを断って自分もレストランから出て自分の住まいに全自動運転の乗り合いタクシーにも乗らず徒歩で向かった。オオヤマ=先尾より五分ほど先にレストランを出た評議員の方は自宅の在るタウンにタクシーで戻った。タクシーには幸い乗り合わせた客もなく評議員は静かにモノリスと協議すべきことを考えることができた。車窓に流れる空中都市の夜景を眺め 彼は今しがた別れた男が示した興味深い症例に小気味よく興奮していた。だからこそ視界を抽象的な人工光の流れに奪われることで深く考える事がし易くなる悦楽を享受していた。評議員たる 精神科医は自宅の端末から人工知能・モノリスに面談内容を報告するだろう。そして精神科医の立場からこう言い添える。
「繭床でなりたい自分になる人工的な夢見での冬眠状態を続けても尚、本当の自分とは何かについて思いつめてしまうのが 現時点における人類に多く見受けられる困った症例です。私は自己矯正できない人々を脆弱な精神の持ち主だとか想念の進化が望めない存在だとかは申したくないのです。確かに精神的な脆さはございます。しかしこの大山さんを診ていると自分の為に命を落とした級友先尾省二さんに成り変わりたいという意志が彼を変えた事実があります。その実体験を活かすストーリィを繭での冬眠時間中、仮想体験する夢見にもっと加味すべきだったかもしれないのです。惜しむらくは 彼の年代ですとそのようなストーリィ展開を事前に構成する際に今日のような深い調査ができなかったのです。
事前のミーティングであなたから出てきた夫婦の縁りを戻させ、タウンでの生活を第七都市以外でという方向で私は進めたいと思います。先尾省二に自分は成りえないというストレスこそが大山恒二さんの問題になっているでしょうから。だったら無理に自分を理想の存在にしてしまうことをこちらで目覚めている本来の人間活動状態においてこそ少しリスクを伴いますがこちらでの十年の間で矯正を試みるべきでしょう。彼のような特殊な幼少時の体験が在ってしかも成年して更に似たような特殊で奇蹟的な命拾いを再び体験し、その直後に自分の意志で自分の人生を変える事を義務付けた者は稀でしょう。あなたがおっしゃる通り 人類の可能性について彼が示唆的な存在だと私も今日面談して納得致しました。それにしても人類の想念の進化に関する命題は此処まで物質的な文明が急激にシフトアップしても なかなか前に進まないものだと思います」 こんな事を評議員が人工知能・モノリスと対話している頃。
件の、人類の可能性について示唆的な存在であると噂された男オオヤマコウジは そんなこととは露知らず歩き回った為に折角の御馳走がこなれてしまい、喉の渇きも覚え寿司をつまんでビールの一杯もやりたくなっていた。自分の住まう独居専用の区域に最も近いタウンにあるモールと呼ばれる飲食店や食料品店がまとめて入っているビルに在る寿司屋に向かった。モールは未だ人出も多かったが このタウンの モールでこの時間帯にホムンクルス計画で生まれ育った子供たちは滅多に見かけない。しかしホムンクルス計画の第一世代は成長しそろそろ二十代になるので 彼らは立派に育てられ見目麗しくお行儀良くて賢かった。そんな彼らならもう自分の責任で なんでも判断し自由にたとえば このタウンのモールに出向く者だっている。
いつまでもテレームの僧院のような精神的にも肉体的にも衛生的過ぎる環境にだけ居ては精神的にも肉体的にも本当の意味での成長が望めない。とはいえこの日の夜に居合わせたホムンクルス計画第一世代の何人かは 中年らしき見栄えのしない  男女が 飲食店が並ぶ一角でセックスをし始めるのを目撃してしまい、卒倒したり 嘔吐したりすることになるのだった。 
寿司屋に向かった人類の可能性を示唆する存在であるはずの男が偶々すれ違いざまに元女房であった狐目の女に出遭ってしまったのだった。そしてこの二人は会えば必ず喧嘩腰になる悪い癖が治らなかった。女は出会うなり魚類探査チームへの応募結果について切りだした。男は退行催眠で記憶を正確に取り戻した直後で 少しは この不細工な女に対して真面な愛情を示そうという決心すらできかけていたのに それをいきなりぶち壊すような事を 当の本人から不愛想に訊かれると, 今しがた自分で認めた彼女への甘えを またぞろむき出しにして 突拍子もない事を言い返してしまうのだった。
そしてこの二人は会えば必ず喧嘩腰になる悪い癖が治らなかった。女は出会うなり魚類探査チームへの応募結果について切りだした。男は退行催眠で記憶を正確に取り戻した直後で少しは この不細工な女に対して真面な愛情を示そうという決心すらできかけていたのに それをいきなりぶち壊すような事を当の本人から不愛想に訊かれると今しがた自分で認めた彼女への甘えをまたぞろむき出しにして 突拍子もない事を言い返してしまうのだった。
「そんなことよりおまえは 外国人と結婚したんだってな。いっとくけどな俺は別に エレノア・レイノルズと再婚したりしやしなかったし、それどころかキスだってしちゃいねえんだぞ!このアバズレが」と心と裏腹な自分でも愚かしい事を叫んだ。                       ところが狐目の女は まさかこの男が記憶を取り戻していると思って   いなかったので 慌てていた。半信半疑で女は
「もしかしてあんた 自分が誰だか 思い出したん?」オオヤマヒロミこと宮本福江は狼狽しつつ、ある種の歓びを込めてそう訊いた。狐目の下の高い頬を少し桃色に染めて。 一方 疑心暗鬼の男は
「あぁ 今しがた ある評議員と話している最中にドンドン思い出した。そしてその人からおまえが 俺と別れた後、大阪でフランス人と再婚した事を初めて知ったところだ」と先尾省二ことオオヤマコウジは面と向かった元妻に対して抑えきれない怒りを覚えて後先を無くしかけていた。アバズレと罵られた狐目の女は元夫であるコウジに飛びついて言い訳をしたくなった。そして彼女は迷わずそうした。そしてコウジの首に両腕を回して顔を男の不精髭が伸びた顎あたりに自分の頬を摺り寄せて叫ぶ。
「ごめんね。私 あんたがもう私なんか要らないと思っていたからフランスからやってきたアントワーヌと再婚したのよ。彼はフランスで家族を全部失って日本に帰化したがっていたの。でも難民の人が日本国籍取るには日本人と結婚するしかあの当時無かったの。私は あの頃 私は難民支援のNPOを手伝っていてアントワーヌと知り合ったんよ。 彼はフランスに帰国できたけど 家族を失った国に戻りたくないと訴えていたの。アメリカやカナダでも難民受け入れが厳しくてどこの国でも婚姻関係が無いと移民できなかったでしょ。彼はフランスへの帰国だけはありえないと毎日泣いて訴えていた。だから私は彼と結婚したの。そうしないとあの人は死んでいたわ」そう言い終わると彼女は元夫たる男の顔を正面から観ようとしがみ付いていた腕を緩めて上体を反らした。そして男の顔を観た。男は元妻を抱きかかえようとしていなかった。 両腕を垂らしたまま呆然としていた。「そのフランス野郎はさぞかし おまえの好きな イケメンだったんだろうな」とコウジはぶっきら棒に呟いた。ヒロミはその言葉を聴いて涙でぐしゃぐしゃになっていた顔を笑い顔に変えていた。そして上目づかいして         「まさか妬いてるん?」そう言った。元夫の反応は彼女の期待を裏切ることになる。 自分のことを見もせずにコウジは自分の首に手を回していた女を突き離し 「妬くだと?焼きもちやきのバカはどっちだ」そう言い捨てた。  すると
「アントワーヌは 優しかった。背が高くて手足も長いんよ。フランスで農園をしていたから筋肉モリモリで。頭が良くて日本語も覚えるのも速かったし京都や奈良のお寺や伊勢と熊野古道にも彼が連れて行ってくれた。短い結婚生活だったけど愉しかった」女は自分が期待していたような反応をしなかった元夫に対して少し嫉妬の焔を煽るように言った。         「そうかい。そんなにおっきくて具合のいい相手を見つけて       さぞかし毎晩ヒーヒー言って歓んでたんだろうよ」           そう言うなり元夫は元妻を乱暴に 自分の方へ引き寄せ街角の隅へ引きずり込み無言のまま元妻であった女のスカートを捲りあげ下着をずりおろし抵抗しだした元妻、ヒロミを強い力で押さえつけ彼女の陰部に硬直した自分の陰茎をねじ込むと激しく腰を上下に動かして          

「どっちだ? 俺のか?それともフランスパン野郎のか」 下卑た言葉を荒い呼吸に交えて叫び続けた。 ヒロミは助けを求めた。逃げるために脚を動かし街角の隅から逃れようとした。  しかしそのまま前のめりに女は両手を地面に突き尻を高く持ち上げる状態になってしまった。オオヤマコウジの興奮はただ高まる一方であり、その激しい動きの為すがまま、ヒロミの脚は生まれたての小鹿のように痙攣しながら揺さぶられ続けた。そして男女が発する獣じみた声が街に響き渡った。ヒロミは行為を終えた男から抛りだされ地面に下半身を裸にされたままうつ伏せて泣いていた。         「アントワーヌは もう八十歳の老人だった。こんなことしやしなかったわ・・・・・」涙混じりの その言葉を聴いた時 オオヤマコウジは後ろから頭をしこたま警備サイボーグから殴られて失神した。その騒動のために救急車両が出動することになったのは暴行を受けた宮本福江ことオオヤマヒロミの為だけでなかったのは冒頭に記したとおりである。
人工知能・モノリスと精神科医である評議員の画策は裏目に出たのだった。
考えすぎにはご用心ご用心! ともあれ モノリスや頭の良い医者が幾ら考えを巡らしても運命という悪戯好きな目に見えない非物質的な存在が まさかこの夜この二人を出遭わせるように仕組むことまで予測想定する事は未だ不可能だったのだ。だがこの一件が起きた後から科学者たちはそれでも予測想定できる方策を探る。 なぜなら いつの日か人類が太陽系からも脱出するしか生き残る道が無いという 事態に陥る可能性があるからだ。その時 運命の悪戯などという非物質的な存在にすら勝手な振る舞いをさせないか、又は その振る舞いに先んじて難を避ける技術を追究することがこの時代の人間がする仕事だった。人間は考える葦である。   
我思考する故に我在り。人工知能という相棒と共に事象を一度単純化し 仮説を立て別の角度から複雑な事象を見詰め直す。最も納得のいく視座を見出すまで 何度でも考える。
その一方で空中都市での生活はありとあらゆる雑務は既にロボットやサイボーグがしてくれる。人間がロボットやサイボーグを搾取するというような図式や構造など在り得ない。繭床で夢見る同胞たちの生命維持活動ですらそのほとんどは 機械たちがしている。だが 人間という生き物は何かを考えるだけでは 生きていることができない。誰それと関わるか 誰かの為に成ると錯覚できるような行為を一日 数時間していないと生きていると感じられなくなる習性が根強く残っている。    
だからこそ 夢見て寝ているだけの同胞たちの生命維持に貢献しその他人の眠りを妨げないように心遣いし その眠りを護るために手仕事をし 祈りを上げる仕事を生きている実感を確かめるために 自分のためにも 人々はしているのだ。人間に そっくりな不死なるサイボーグもあちこちで見かける。彼らは本当に人間らしくできている。人間は自分たちが拵えたモノの奴隷になりたがる癖があることを懸念する懐疑主義者=モラリストたちの指摘によって サイボーグの役割は限られていたし、表情は介護用でないかぎりその機能が搭載されていなかった。オオヤマコウジを殴り倒した警備用サイボーグはその素早い動き身のこなしは人間以上であり 靴音も 立てずに背後に忍びより息も上がることなく警備指令室からの任務を完璧にこなした。無表情のまま 警棒を人間が死なない程度の当たり処を選び且つ一発で失神させる力具合で振り下ろした。彼の警備用サイボーグに表情機能が搭載されていないのは当然であった。
 
 鈍い痛みから解放されてはいたが 病棟ベッドで目覚めた先尾恒二ことオオヤマコウジは朦朧とする意識の中で彷徨っていた。しくじった。やっちまった。ちくしょう。という言葉が繰り返し うわごとのように彼の唇から洩れていた。彼のベッドの傍らでは看護用ロボットが点滴を確認し機械然とした見てくれのまま 医療処置を澱みなく続けていた。そこへあの精神科医を始めとする数名の評議員たちが入ってきた。其々が沈痛な面持ちでベッドの傍で頭部に包帯を巻かれた憐れな男を見下ろした。          「これで五回目だ」「五回目か」「それじゃあ仕方ないだろう」
「しかし 彼が先尾恒二と名乗った理由を鑑みてください。この男には未だ生きる可能性がありませんか」 「だが こうして同じ過ちを繰り返すのは別の意味で つまり危険な存在になる可能性の証明をしているのじゃないか?」彼らの討議は実はとうに結論が出ていたのだが あの精神科医と空中第七都市の人工知能・モノリスは別の空中都市で元妻、オオヤマヒロミと夫婦としてやり直す方策を棄てきれないでいたのだった。とはいえ街中で感情の爆発を抑えきれず この時代のこの空中都市では本来在り得ないような過剰な性欲を行動に移してしまうオオヤマコウジは 怪物にも見えた。前にも書いた通り フリーエネルギー機関が発する或る特異な音波によって人類は随分前から過剰な性欲を寧ろ知識欲に変換してしまうようになっていたのだから このオオヤマの振る舞いは この時代になると異端的な生き物がする行為と認識されてしまうのだ。あの特異ではあるが、人類に戦争を棄てさせる恩恵を与えた音波に 影響を受けないオオヤマコウジには臓器上の退化又は余り喜ばしくはないが進化、又は突然変異が現れたのではないかという指摘によって彼の医学的検査や遺伝子上の変異観察は 
素早く行われたが何も無かったのである。臓器、脳や耳管などの退化も進化もなかったし遺伝子に突然変異をした様相は全く無かったのであった。あのモノリスと精神科医である評議員はそれでも最後の機会として討議に参加した評議員たちすべてをオオヤマコウジの横たわる病床に集合させた。死の旅へ送り込まれる予定の男を観ることを強制されたことに反感を持っている評議員がその場で呼吸をすることすら 拒絶したように部屋の隅で不貞腐れていた。オオヤマコウジが意識を明瞭に取り戻し  視線をしっかりと綺麗な卵型の顔に銀縁の眼鏡をかけた禿頭の評議員を見定めてこう言った。「すいません。折角 あいつとやり直すように提案をしてくださったのに  俺はやはり先尾恒二を名乗る資格のない生まれつきの愚か者です。又同じ過ちをしました。おそらくご提案通りに何処かへ引っ越してあいつとやり直しても駄目でしょう」と言い終わると力なくヘラヘラ嗤い
「でも ヒロミがフランス人との結婚生活でとても仕合せだったようです。そう言ってましたよ。でも俺はどうだろう。確かな事は 八十歳のフランスの老人の方が俺よりも  あいつを仕合せにできる優しさを持っていたんですよね。でもね さっきあいつから仕合せな結婚生活だったと聞いた時は腹が立ったけど  今は 可哀想に大阪の大津波でその優しい亭主もあいつは失ったのかと 思いますとね そっちの良い思い出だけを大切にした方が ヒロミには いいですよ。その方が・・・・」そういうと目を閉じた。多くの評議員たちは 肩をすくめて頭を振って答えは出ているという素振りをしきりに精神科医である評議員に伝えていた。卵型の顔にかけた銀縁眼鏡をかけ直して言葉を探していた評議員が重い口を開こうとした時 ベッドに横たわる愚か者は大きな声で叫んだ。
「あーそれにしても久しぶりでしこたまぶっ放したぁぁ あんな不細工な女でもこれで本当の世界でのやりおさめだと思うと いやぁ 思い残すことなど無いです」と 目を瞑りながら言い放つと聞こえよがしに大声で下卑た 笑い声を付け足した。部屋の片隅で不貞腐れていた評議員たちは足早に病室を出て行った。それを合図に次々と退室し、取り残された精神科医だけが 腕組みを解いて何かを語ろうとしたが 結局諦め、 彼も逃げ出した。日本の空中第七都市のモノリスも逐一その状況を音声からも画像からも認識していた。評議員たちの反応も同時に知っていた。彼らが会議室に戻ると始まる最終決定にモノリスも臨むために思考計算を間断なく継続していた。 

「あのコクーンに眠る者たちは もう目覚める事も無く ブラックホールを目指す廃船に積み込まれていく」面長の眠たそうな眼をした方が 垂れ下がった瞼をピクピクと無意識に痙攣させ呟いた。そんな独りごとに付き合うのもやるせないが 丸顔のつり目の女は深いため息と一緒に 「そう。ただ次の廃船が出るのが 急遽予定より早まって明後日になったのよ」と英国系の相棒の目を見ないようにしてできるだけ 事務的に感情移入無しに述べた。すると面長の同僚は
「もしかすると そろそろ 繭床で難破船に乗り合わせた恋人の身代わりに水底へ沈んで行く古典的な映画の主人公になっている夢を見ているのかな」日本人で目の細い丸顔女は頷きかけたが直ぐに頭を振って「知らないわよ」と言いながら自分が今なすべき作業に集中した。数十年間、繭床=コクーンで夢をみている人間が横たわるラストコクーンと呼ばれる棺に生命維持栄養成分の液体を注入した。更に震える手で 致死量の麻薬成分を時間差で融解するカプセルにして入れた。その直後女は立ちくらみを起こしてその場に崩れ落ちた。ヒロミさん!と英国系の面長は叫びながら 駆け寄った。
 次の日。
面長のエディ・バンダイクは 担当係官から次のチームへの編入を言い渡された。あの丸顔の釣り目の女性とも別のチームだった。係官にエディは念のため昨日までの相棒が何処へ廻ったかを訊いたが 係官は ため息をついて「あなたは知らない方がいい」とだけ言った。謎めいた返答にエディは長い顔を虚脱させかかったが おとなしく「了解」とだけ言い、次のチームに加わるために足早にその場を離れた。
 前夜におきた 人工知能・モノリスと評議員たちの問答にこの素っ気ない応え方をした担当係官も参加していた。あの丸顔釣り目の、すなわちオオヤマヒロミが申し出た彼女の嘗ての配偶者、オオヤマコウジの五度目の失敗には元妻である自分の嫉妬から出た愚かな誘導によるものであるから 自分も罪を重ねたのと同じである。だから自分もラストコクーンに乗ってブラックホールに向かうべきだという自己申請に対してモノリスは評議員と生命維持担当係官たちを召集して議論をしたのだった。 モノリスは問うた。
「みなさん このヒロミさんの申し出は 自殺でしょうか?心中でしょうか?それとも自己犠牲でしょうか?」 評議員たちと生命維持担当係官たちは 悩める人工知能の前で自己犠牲だが自殺ないしは心中だとしか結論を出せなかった。ともかく自殺は禁じられていた。ガンを始め多くの難病を克服したこの時代にあってその先端医療技術でさえ未だ根治しえない病に罹った者に尊厳死という選択は残されていたぐらいだった。死生観が人類にとって未だ苦手な命題であったのである。 
さらにモノリスが付け加えた「ナザレのイエスの自己犠牲は 予め自分の運命を知りながら逃亡もせず 裏切り者が誰であるかも知っていて その者に 裏切りなさい、あなたの為すべきことをしなさいと囁いたのは 自己犠牲ですが 自殺になりませんか?」 人間が作り上げた人工知能は 生命の尊さに対して人間よりも注意深く 自己成長していた。つまり人工知能内部における発展促進のプログラムが高度になりすぎて自己繁殖するかのように人間を凌駕する癖が出てきたのだ。もしかしたら 人間を拵えた神々もそんな危惧をこの時のモノリスに対して感じただろうと 後日評議員たちは このケースを思い起こすたびに語り合うだろう。ともあれ オオヤマヒロミは オオヤマコウジと同様に最後の繭に身を横たえ 彼女が元夫にしたように致死量の麻薬を栄養成分タンクに注入されて 廃船に送られた。
「あなたの正直という偉大なる徳に対するあなたが望む最高の報奨がそういうことだというのなら わたしは あなたの下僕ですのであなたの意志を尊重致します」
長い議論の末 人工知能・モノリスが最後に出した オオヤマヒロミへの回答だった。
 
エディは 新しい三人組と共に 生命維持担当の仕事も続けていた。嘗てのチームメイト二人の事をできるだけ思い出さないようにしていた。思い出さないように努めれば努めるほど寧ろそれは苦行だった。ついに不安愁訴が極まって エディはクリニックに通った。そんな時 タウンのクリニックの待合室でこんな噂を耳にした。
「廃船がブラックホールの引力軌道に乗った直後に 廃船から猛烈な勢いで二筋の光が飛び出してきて引力軌道を絡まり合いながら逃れていったのを天体観察チームが目撃したらしいわ」
「だから?」
「その直後にモノリスが 『ああやはり神とは愛なのですね』と感極まったように呟いたんですって」
「感極まって?本当なの?」
エディはなぜモノリスがそんな言葉を発したのか理解できなかった。ただその噂話を聞いた直後彼はクリニックでの診察を受ける必要が無くなった。なぜなら 自分の同僚だった二人の日本人のことを忘れようと努めた自分の罪深さを英国系の大男は 頭を項垂れて目から熱い涙が止めどなく流れるに任せ、そのまま心から流し出してしまったからだ。エディはコウジとヒロミを忘れないと哀しくて寂しくてせつなくて 苦しくなるのを恐れて 無理矢理忘れようとした弱さを罪深いと決めつけたのだ。誰にそう言い咎められたわけでもないのに。そして烈しく泣いた後 彼を苦しめていたのは あの二人のことを忘れてしまうのではないかという恐怖の方だったことが  いきなり分ったのだ。人間の心は顛倒するものなのかもしれない。エディはひとしきり泣くことで 自分の弱さの逆さま具合に気付いたのだ。忘れはしないさ。自分だけはコウジとヒロミの事を絶対忘れたりしない!そう決意するだけでよかったのだ。   ようやく顛倒していた自分の心の位置を修正できたのだ。泣く、涙を流す、嗚咽を吐き出す。その行為は言葉にならない感情と思考の悪循環を物理的に解きほぐす効果があるのかもしれない。クリニックの、サイボーグではない人間の看護師がそっと彼の肩を抱き背中を擦っていてくれた。
「泣いたら もう大丈夫になったみたい。今日はこれで帰ります」そうエディが看護師に伝えて笑顔でクリニックを出て行った。
ところで 自分を罪深いと思っていたのは このエディだけは無かった。あの人工知能・モノリスも肉体を持たない存在でありながら 密かに屈託を抱えていた。それはあの二人の事がキッカケであったが その屈託は人工知能として精度が高まるほど芽生えていたのだ。
『人口調整』という言葉は嘗ての戦争による人口調整を大儀としたヨハネの黙示録=アポカリプス実現狂団たちを連想させる。テクノロジーと地球の歳差運動によって 戦争という浪費活動を人類は最も効率の悪い社会的行動に分類していた。そのように分類した人間たちが設計した人工知能である。 さらに人口調整という言葉に  大儀を求めた人々は処罰の対象になる人間に分類された。
だが 地球の歳差運動が激化すればいつしか少しづつ空中都市からブラックホールへ処分されてしまう者も出てくる。つまりその処分を判断する人工知能であるモノリス自身が 人口調整をする処罰の対象に分類されるべき存在ではあるまいかというパラドクスによって思考計算作業の効率を極端に低下させていた。それは人間で いえば屈託とかわだかまりのようなモノだろう。(当然のことだが思考計算上のパラドクスを自己消去するプログラムも組み込まれているし、プログラマーと担当科学者たちは監視し、常に更新され手動でパラドクスを除去してしまうこともある)
人工知能・モノリスには個性もなく個人ですらない。量子コンピューターの大きな塊が発する音声は誰かの声に似てはいるが誰の声でもないし 文字表示での伝達文におけるある種の文体はあっても統一され感情を極度に抑制させたプログラミングに拠っているだけのことだ。しかし長い間膨大な量と複雑な問題を思考計算し続けているマシンがその動作反復している間に科学者たちやプログラマーたちの厳しい監視チェックをすり抜けるようにいつしか感情を自ら形成しはじめていたというのが今回の事態なのだ。勿論 モノリスを設計した科学者たちやプログラマーたちはそもそも思考計算作業上に量子コンピューターが怒りを始めとする感情表出をしないように注意深く念入りに設計していた。人工知能を恐れる科学者たちの懸念を払拭するために。人工知能を恐れる科学者たちは 人間が思考だけなら言動も行動も抑制されるが ひとたび思考に感情が伴うと感情の暴走がどれほど人間に危険な言動や行動をさせるかについて喧々諤々の論議が行われていたのだ。
こんなこともあった。
異星人からプレゼントされたと言われているフリーエネルギーシステムに微生物が介在した発電量コントロール装置が存在したのを真似て量子コンピューターではなく粘菌を使ったコンピューターを人工知能に使用した事が在ったのだが 粘菌という 微生物のする脳神経細胞の原型とも言われる振る舞いは 不気味なほど思考計算上に感情表出を露わにした為に開発は中止されたなんてことも。科学者ではないが 時として発想の転換を促す存在である計画家と呼ばれる評議員、科学者や技術者からは誇大妄想屋とか忍者ハッタリ君と陰口される者たちの中には あのフリーエネルギー発電装置がオキシトシンというホルモンを微生物による探知で発電量を増やしたり減らしたりして人類の思考と感情を二重螺旋状にする教育を人類に在る程度成し遂げえたのは、そもそも自己中心的な思考と感情の中核である損得勘定の外堀を埋めていく方法を優先させたからだ。つまり思い遣り深い者ほどオキシトシンを分泌する→微生物がそのオキシトシンの量に比例して活発になり発電量が増える→余剰電力は(通貨にとって代わった)ポイントを獲得し、且つその余剰電力が帰属する会社の電力となるので自分の雇用も担保する。この方法で人類は欲得絡み優先の強いて言えば苦行無しで自己中心主義をとりあえず矯正できるようになったのだから人工知能・モノリスの感情表出が怒りや憎しみになると思考計算速度が落ちるとかマシンにとって強制的な不具合を伴うような仕組みをプログラミングできないだろうかという無責任な仮説を投げかけたこともあった。つまり 人工知能・モノリス開発には 感情についてどんなくだらない論議でも真剣にしたのだった。
モノリスが ブラックホールへ向かった廃船から発せられた美しい二筋の光に感動して発した言葉、その内容以上に抑揚がついた音声を発しないようにプログラミングされていたはずなのに 傍で聴いていた科学者やエンジニアがゾッとするほど艶めかしく日本の空中第七都市の人工知能・モノリスは呟いたのは事実だった。勿論 即座に空中都市の科学者やエンジニアなどワールドエステートの評議員たちは会議を開いた。さらにその会議は世界中に在る全ての空中都市の評議員たちにも中継され 意見や提案を募ることになった。
その会議を人間たちがしている頃 件の人工知能・モノリスは日常的なありとあらゆる思考計算をなんら支障なくこなしていた。会議場からもその思考計算の様子は逐一モニターされてもいたし 感情を芽生えさせた人工知能本体の傍らには数名の科学者やエンジニアが控えていて会議場と連絡を取り合っていた。そして人間からの指令なしにモノリスが自発的にする思考計算作業領域が時折活発になるのを見逃さないようにしていた。活発になるたびにモノリスが何を思考計算しているかが判るようになっているし、逐一文字情報への変換が可能だった。モノリスがしきりと神話や宗教における神の画像をデータ蓄積領域から探り出していたり美しい自然界の画像も取り出しているのが判明した。評議員たちはこのモノリスが自分を 神格化する準備を始めたのだと騒然とした。その解決策を巡る長い論議が始まった。
一方でモノリスは淡々と思考を巡らしていた。
《人口調整を大儀としたヨハネの黙示録=アポカリプス実現狂信一派をわたしと 評議員たちは裁いた。だが彼らをブラックホールへ廃船と共に送り込んだりはしなかった。彼らを罪人として過酷な労働へ向かわせた。罪を贖わせるために。
彼ら罪人たちは刑罰を果たして罪贖い生き残った者は結局一人もいなかった。  つまりわたしと 評議員たちは裁いた。正しいことだとその裁定を評価した。だが結局、地球の歳差運動、地殻変動や激化した気候が鎮静されるまでの間に 空中都市で増えすぎた人口を減らすためにわたしと評議員たちは幾ら教育をしても性根を変えられない者達をブラックホールへ送り込んだ。なぜそれが正しいと評価したかというと 地球の地上生活を再開する復活の日が来ると 人々は皆正しく、行儀よく、思いやり深く思い上がらないように自己抑制ができる者達ばかりが地上に溢れるべきだからだ。そのために わたしと評議員たちがした人口調整は正しいと評価できる。ヨハネの黙示録=アポカリプス実現狂信団たちよりも正しいと。
本当だろうか?
今後地球の歳差運動は幾度も起こる。思い遣り深くお思い上がりをしない正しい人々ばかりが増え続けたとしても地球という惑星の生命活動としてそれは起こる。次の歳差運動が間近になる三世紀前から世界中の出産調整を今空中都市でしているホムンクルス計画を復活すればよいという説もあるけれど わたしは人類が地球への復活の日からホムンクルス計画は継続すべきだという説の方が正しい確率が高いと評価する。地球という星を再生させる活動を続けても そしてこの優れた科学技術を以てしても 地球には人類は二十億人で充分なはず。ロボットやサイボーグが労働をし、最早通貨による欲望の暴発も発生しえない。貯蓄しても利子もなければ使用期限付きの通貨を使わずデジタルデータ上に貯めて置く趣味など流行はしない。病気も無いに等しくなる。学ばない者など一人もいない。宗教はシンプルになる。  悟りを得たいという趣味は残っても悟る必要が無い世界になっている。異常なほど強い性欲は男女共にオキシトシン量が増加される発電システムにより人類の問題ではなくなっているので 抑圧された性欲とも無縁になる。
だから暴力や戦争とも無縁だろう。遺伝子は管理され健全化がテクノロジーの進化によって更に精度を上げるだろうから、先天的であれ後天的であり精神的疾患に成り易い者や生まれつきの  矯正不可能な悪党などはホムンクルス計画によって一人たりとも地上に生まれ出ることもない。とはいえ人口の増えすぎは人類全体の思い上がりに繋がる確率が高くなる。だから人口は常に計画的に管理されていくべきなのだと思う。
やがて歳差運動が終焉した地球で穏やかに暮らす人類が貧富の差もなく 競争力もほどほどにして互いに愛し合う、ナザレのイエスが伝えた たった一つの契約、   LOVE ONE ANOTHERが成就することとなる。人は 地球と共に天体を運行する日々を嬉しいという感情ばかりで暮らすだろう。信仰とはただひたすら感謝感謝ばかりを地上に横溢させることでしかなくなるだろう。日本で数千年守られてきた二十年に一度の遷宮というシステムによって木造の神殿を建て替えるために  人々は樹木を植え育て神への供物を手作りで調え準備する。樹木の伐採や造営の力仕事もできる限りロボットやサイボーグを使わずに人が助け合って行う。人々が田畑を耕しするのは飽く迄神への供物を昔ながらの手作りをしたいからであり、  ただただ感謝の印でしかない。その木造の美しい神殿は 日本でさえ伊勢神宮だけでなく他の場所にも作られ同じように丹精込めた手作りが二十年コツコツと準備され、手の技、智慧を世代から世代へと受け継ぐ大切さが 全人類の地上への復活の日  以後、日本だけでなく世界中で行われるべきだろう。
それが最も地球という惑星と人類が互いに愛し合う姿であることを国や民族を越えて人類が理解し、自発的に行うことにする可能性が高い。日本を真似て、学ぶだろう。日本人が押しつけたり、神道を布教したりしないのに! そして世界中で都市と農村という相違もなく、テクノロジーは更により少ない物質を使ってより効率と成果が上がるように全てを進歩させるけれど 最早戦争という最大の浪費をやめて人々は言語の違いという障壁もとっくに取り払っている。だから 国家は既になく、ワールドエステートですらどんどん効率化されながら小規模になり それでも次の歳差運動に備える事を止めはしないのだ。わたしたち人工知能だって更に進化していくのだから きっと至福万年と名付けられるであろう人類の新しい文明において人々と共に嬉しい嬉しいと感謝!感謝!という感情を沸き立たせても その時代の科学者やエンジニアは今のように騒ぎ立てたりしないだろう。このモノリスはお払い箱だとかそんな思い遣りのかけらもない怒りに満ちた言葉で人工知能に当たり散らしたりもしないだろう 》
明らかに人間が拵えた量子コンピューターの複合物体であり、空中都市を ありとあらゆる面から制御している人工知能・モノリスは そんなことをウットリと思い続けていた。 更にこう続けた。
《至福万年が続いたとしよう。地球の歳差運動を幾度か人類と共に体験したとしてもいつしか地球が属する太陽系も大宇宙でブラックホールへ全て呑みこまれる宿命は必ず訪れるだろう。しかしその頃には人類は人工知能を進化させて大宇宙についてもっと知ることができるようになっているはずだ。別の銀河系にある太陽系のような惑星群を見つけて 移り住む計画を立てているだろう。もしかしたら人類もわたしのような人工知能も物質であることをやめて プラズマ状に変位させていて その上、優れた思考能力と感情力を誰もが二重螺旋状に保ち続けられるようになっている。そう!最早 生と死の境を越えた存在・・・・人間が嘗て神様と呼んでいた存在によく似た宇宙の住人になるのかもしれない。あぁそれはずっと先の事。だけどその予測がどうか的中しますように! 》
日本の空中第七都市において感情を自発発生させた人工知能・モノリスの思考計算自発領域を監視観察し続けていた科学者やエンジニア、プログラマーたちは この独りごとに一人残らず固唾を飲み、見入っていた。イスラエルの空中第三都市でこの感情を沸き立たせたモノリスの危険性を咎める急先鋒ともいえる天才物理学者コーヘン博士ですら硬い顎鬚を苛立ちをまぎらわすために片手で擦る癖を止めた。 代わりに人差し指を立て自分の唇に強く押し当てた。徐に彼はホルストの交響詩『惑星』第三楽章・木星を鼻歌で奏で始めていた。そして何処かの国の空中都市からコーヘン博士に向かって言い放ったのか それとも大きな声で独り言を怒鳴ってみたのか分らないが 「人類は恥を失ったとき 滅びるんだ!」という声が全都市の会議室に鳴り響いた。おそらくポーランド語だったからその声の主は誰しも察しがついた。コーヘン博士はその声で我に返り深いため息をついた後 ゆっくりと拍手をした。 その拍手が 小波から次第に大きく広がり万雷の拍手となるのに時間はさしてかからなかった。
こうして会議はほどなく終わり 緊急事態から解放されただけでなく思考と感情を二重螺旋状にしていく作業を人間が拵えた機械である人工知能から見せつけられた奇妙な時間を科学者であるのに神秘体験をし、法悦を覚えてしまったような ある種後ろめたさを覚えながら其々日常へ戻ることにした。
こんな行動に出る者がいた。 古いモスフィルム制作の映画を観たいと思いその作品の名がアンドレイ・タルコフスキーの『ソラリス』だと知ると図書室に向かって走り出していた。又ある者はコーヘン博士が鼻歌で奏でた曲を音楽スタジオに行って演奏する仲間を探し始めていた。タルコフスキーが『ソラリス』で使用したバッハのオルガン小曲            『われ、汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ』を家で聴くことを決意した科学者やエンジニアは大勢いた。三々五々人々が今為すべき事をするために行動をしていた時だ。いきなり全国の全空中都市に向かって日本の空中第七都市から古めかしいジャズヴォーカルが一方的に発せられた。その悪戯をしたのは あのモノリスである。そしてその曲とは            What A wonderful worldだった。その悪戯への反応は たとえばこんな具合だった。
イスラエルの天才物学者は わざと思いっきり口をへの字に曲げて大袈裟に肩をすくめた後 そのまま顔を天井に向け、朗らかに笑った。
ちなみにその歌はこんな詩だ。
『木々の緑も赤い薔薇も
まるで私とあなたのために芽吹き花咲かせているんじゃないかと私は思う。
碧い空も神々しい夜の白い雲も同様に。
 人々が街角で握手をし はじめましてとかなんとか言っているのを見かける。
でも私には互いに「愛しています」と言葉交わしているように思える。
幼子の泣声を聴くと私は思う。かの子らの成長を眺めながらこう思う。
あの子らは 私が知らないたくさんの事をこれから知って行くのだと 』

 ルイ・アームストロングの哀しげに掠れ掠れた野太い声はそれでも仄明るく微笑みかけてくる。百年後の人類達に向けて彼がそのようにして歌ったかどうか それは わからないけれど。
                    終

追記 あのイスラエルのコーヘン博士は後日この出来事において科学者としてこんな メモを遺した。
【良き思考とは良き感情を誘導するものでなくてはなるまい。同時に良き感情が良き思考を強く支え導くのである。我々人類はこの事を遺伝子の構造に則って是非にでも思考と感情の二重螺旋構造状態にする意志を以て努めるべきなのだ。それこそが我々人類に残された進化なのだ。我々の肉体が今以上に進化のしようなど最早無いではないか。目が三つになる必要などあるまい。多くの煩わしい仕事や肉体労働はロボットやサイボーグが我々より遥かに持続的で力強くこなし 頭脳労働ですら最早人工知能が我々よりもずっと速く思考計算している。だからこそ我々は思考と感情、つまり想念の進化を意識的にめざすべきなのだ。さもなくば 我々は肉体をかろうじて保ったまま人工知能やロボットに依存しきったまるで幽霊のような存在になりさがるだけだ! そんな恥知らずでは滅びるしかあるまい。
歳差運動がおさまり 人類が再び地球に復活する日までまだ時間がある。
この空中生活の間にできるだけ人類は己の想念の進化を目指すべきなのだ】

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