映画ドラブ・マイカー感想
@自宅のPCで U-NEXT配信
令和6年秋彼岸 22日と23日に分けて。
3時間? 映画館でもわたしは今 3時間座りっぱなしだと
確実に後半でバクスイしかねない。半分づつ日を分けて鑑賞しました。
撮影監督(四宮氏)の光の設計は 完璧だったと思う。
肌には青味がかぶるのを最小限にし 影、暗部に 青を以て
写っていないはずの何ものかの息づかいを感知させていた。
冒頭の家福音の中学生ストーカーやらヤツメウナギの生まれ変わりといった
モノローグに合いすぎていて ホラー映画かと思った。
だが クライマックスにおいて 以下綴る 村上春樹からチェホフに
チェホフからドストエフスキーへ飛翔してしまう
ある意味破天荒な映画を ウェルズの定義した夢の帯として見事に成立させていたのだから
殊勲功なり!四宮秀俊氏の光の設計は 完璧だった。
そして 手話女優(イ・ユナ)を演じたパク・リムが舞台でソーニャとして
ワーニャを演じる家福を背後から手話を使って このチェホフが示した
身を切るような切なさ それこそが人生(実際そう書いたのは セリーヌで『夜の果ての旅』前篇末尾)を
映画の中の演劇シーンが そこだけ独立した映画ですらあり得た。
やっとチェホフの戯曲を【目の当たりにした】
そんな気分にわたしは 浸った。
このシークエンスがなかったら
村上春樹の小説がファッションのようなモノ扱いで終わりかねなかっただろう。脚本に大江崇允氏を濱口監督に引き合わせた山本晃久プロデューサーの
慧眼は フォードの『駅馬車』のシナリオに
モーパッサンの『脂肪の塊』を潜ませたウェジンジャーのようなものだろう。
それにしても パク・リム氏は見事に演じたし
その容姿は ソーニャとして申し分なかった。
率直な物言いをすれば ソーニャとは彼女であるべきだったのだ。
わたしは チェホフの小説を読み漁った時期がある。だが戯曲には
彼の短すぎる人生の時間にあって
やりきれない想いが募ってしまい 読み飛ばしてばかりいた。
なにしろ グリフィスの『散りゆく花』を観た時
わたしの頭には『オーレンカ~かわいい女』が蘇っていたぐらいだ!
チェホフの『中二階のある家』に何度も映画のような
夢の帯を観ていたわたしには 衝撃的だった。
ワーニャを演じる予定だった高槻(岡田将生氏)が 家福の妻の愛人であるのかないのか 宙づりにしつつ 広島の夜のドライブの車中で ほのめかしつつ 否定する。
そして家福は演出家として 高槻を激励しながら 自制心を、
つまり 自分を見つめる目を持てば
もっと良くなると諫める。そしてその言葉は 家福と家福の自動車を運転する渡利みさき(三浦透子氏)にも
鏡の反射する。同乗した3人それぞれに深く突き刺さっていくことになる。
3人は共に殺人者である。高槻は実際パパラッチまがいの盗撮男を殴打して 不本意ながら殺してしまう。
家福は 妻が亡くなった日 もっと早く帰宅できたし、すべきだったのに 妻の愛人問題を問いただしかねない自分に怖じ気づき深夜に帰る。
仕事終わりに直ぐ戻れば妻の命は救えたかもしれない。
渡利みさきは 自分に酷い暴力を振るった後 母親に顕れる別人格の少女を愛おしく想っていたのに
地滑り事故に巻き込まれた直後 なんとか自分は倒壊した家屋から生き延びたのに
母親と母親に顕れる別人格の少女を助け出そうとしなかった。
高槻を除けば 家福とみさきは
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の長老ゾシマと次兄イワンになる。未必の故意による殺人者という構図になる。細部に亘ってそうだという意味ではないが。
しかし高槻を含め 彼らは ゾシマとイワンのように 自分の内部に
自分とは認めたくない存在を直視しなくてはならない羽目に陥ったのである。
ゾシマもイワンもそんな悪魔が 悪霊が 自分の一部なんて
一方は宗教修行者としての自尊心が許さなかったし 片方は唯物論者で科学的で 冷静に世間を見渡せる知性を矜持としているのに 悪魔だとか悪霊だとか そんな存在が自分の中に在ってたまるか!だった。
たとえば イワンは
未必の故意による殺人者たる悪魔の自分が 腹違いの兄を唆して
父親殺しさせた間接的な殺人者たる自分を無視した結果を受け取る。
ゾシマは死して聖人に相応しくない悪臭を発する遺体を晒すことになる。 イワンは鼻の穴から中年太りの冴えない俸給生活者がにょきにょきと出てきて
「おまえの中で悪魔として存在してやったのに なんだ腰抜け」と捨て台詞されてしまう。
厳密に言えば 高槻はラスコーリニコフ(『罪と罰』)だった。
そして 広島の街を駆け抜ける車中で 高槻に向けた光の逆反射に見舞われた家福と家福の娘と同じ歳の渡利みさきは 高槻が下車した後 2人は共に動揺し サーブのルーフウィンドウを開けて
タバコを喫み 共にルーフウィンドウから片手を伸ばした。
小さな赤いともしびがアップサイズのショットが編集されていたが
わたしはロングサイズだけの方が ショットとして美しかったのにと
そこだけは 残念に思った。
そして西島秀俊氏演じる家福は
中学生の時から母親に生活上不可欠な自動車の運転を仕込まれた可哀想な
みさきを 北海道の倒壊した家屋跡で抱き寄せる瞬間
余りにも長すぎる間はなればなれになっていた娘と再会した父親になりきっていた。家福の娘は4歳の時に亡くなっている。
渡利みさきは 登場した時から無口で頬に痛々しい切り傷のある曰くありげな素性の持ち主で年齢不詳な感じだった。広島じゃけーのぉ とか 愚かしい邪推もしたが
手話女優イ・ユナと夫の演劇祭のコーディネーターと暮らす家で食事を共にした際
いきなり みさきが食卓で笑顔になり 家福たちの会話をよそに 席を立ち
カメラの方へ近づいてくる。みさきのお目当ては 家主夫婦たちの愛犬だったのだ。
そのワンショットだけで 渡利みさきという名前を持つ23歳の女性が
画になった。
登場人物としてこの映画の物語で重要な役割を果たすに相応しい存在として
観客の心をざわつかせるのには申し分なかった。
つまりこの感じが 蓮實重彦先生の【ショット】なんじゃなかろうか?
※
高槻の事件の後 暗礁に乗り上げた芝居は 無事に上演される。
そして観客としてワーニャ伯父さんを観た渡利みさきは
エピローグにおいて ソーニャとして生まれ変わったように登場するだろう。
家福の愛車サーブを相変わらず運転し 車内には あの犬が居るだろう。
土砂崩れの際に負った左頬の傷も癒えて すっかり綺麗な肌を取り戻しているだろう。
だが 彼女が誰と暮らしているかは 観客が自分の脳内で作る映画という
夢の帯でしかあずかりしれないのである。映画とは かくありたい。
書き忘れるところだった。
岡田将生氏は この映画でも彼しか演じられない高槻を演じてしまいました。
カンヌで助演男優賞とらなかったのが不思議です。飽くまで個人的な見解として。
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