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中篇小説『リヴァース・ショット』連載8回。攖寧社なる降霊術師の家系に生まれた男と霊を受け取る巫女として育てられた女にも 深くて冥い川が在る。

コンテナハウスの外では 夕日が数分の間
橙色に世界を染め上げてしまうだろう。 
鴉がコンテナハウスの小さな庭にある物干し台に止まっていた。
あれは 慈愛、御仏の慈愛
ガラス球のような目を開けはしていた丸山和子は 三十四歳になっていた。
あれは 慈愛、御仏の慈愛。
その言葉が 頭の中で遠く響いていた。
彼女は 漸く自分の意志を持って瞼を閉じた。熱い液体が両目を覆った。
実時のあの涙に濡れた長く黒い睫毛が 暗い闇の中では蘇ってこなかった。ただ 実時を男として向かい入れた悦びが 悲しくも激しく呼び覚まされた。十九歳になった和子。二十六歳の尊院実時。
 和子は 殆ど湯河原には いなかった。中学を出ると 和子は 
恐山は元より、四国霊場、出羽三山、などに殆ど篭り、自然の中に 目には見えない創生の秘境を見出し、五官を用いずに 感じ、そして知るための 物質以外の要素で出来上がった 霊の目と霊で出来ている耳を 形成していった。
 尊院である実時は 一子相伝と言われている伊勢流の降霊術に関する行を 湯河原において週の内三日は 朝から晩まで 呼吸法を修得する事を主体とした 座禅のような瞑想の行を 大宗師・是時による 日本語と不思議な言語とが混じった真言をまるで耳に水を注ぎ入れられるようにして 数百種類を脳内に浸透させていった。茶道の作法を習得する時その真言によって無意味と思えていた作法の動きに 自然の内に五官で捉えられない 造化の妙なる運行に従った解説が 可能であることに 実時は 気付いた。そのようにして尊院・実時と芳仙・和子は お互い別々の行に従事しながら 成長していた。

実時は音大を結局 中退し、湯河原と東京、そして小田原の攖寧社で暮らしていた。二十六歳になり、そろそろ見合い話を 母親から五月蝿く 言われていた。 十九歳になった丸山和子 いや 芳仙をなるべく尊院・実時に近付けないように実時の母親だけでなく、それ以上に大宗師と季咸・丸山三代が細心の注意を払っていた。

尊院と芳仙、大宗師と季咸。この関係において 男女関係、つまり肉体的交合を持ってしまうと 双方の霊的な能力が 激しく融合をしようとして、降霊を受容する季咸と芳仙にとっては 折角の霊媒体質を失い、精神的な病症を発する危険があるので 古くからその点を最大タブーとしてきたのであった。
後天的に 霊的な能力・体質を開発する大宗師と尊院は 努力と忍耐こそが 必要とされる。
伊勢新九郎こと北条早雲が 京都から招き寄せた 降霊術師の家系に伝わる 修行法に従ってマスターされるように出来ていたからである。
しかし。季咸、芳仙 という巫女は霊媒である。肉体上の頑強さ、それは 女性としての、子供を一年近く体内に宿し、育むという意味での生命体としての頑強さとともに 霊的なる領域への 恐怖を廃し、寧ろ積極果敢に 
この地上時空のあらましを より深く感じ知る勇気が 霊媒として求められるのである。先天的に霊と同調しやすく、霊を感知しうる過剰な直感体質を持ち合わせていなくては 大宗師や尊院から 降ろされた 霊的存在にただ取り憑かれて精神的な重い病に犯されてしまうのだ。
芳仙を見出す事は 十七代まで続いてきた伊勢流降霊術において常に存亡の決め手であり続けていた問題なのであった。
そのことを 最重要課題として 尊院・実時も芳仙・和子も肝に銘じていたのである。
尊院・実時は 十二歳の和子を 五所神社で思わず抱きしめた時も当然 
実の妹として愛しているという感情からであった。
ただ。
そう思い込むために 実時は 音大時代やや放埓気味に 女性問題を起こしたのかもしれない。一方、芳仙である 和子は ある尼僧から 自慰行為を抑制する印のきり方と、薬食を教えられたことがあった。萎びた尼僧からそんな妙なことを 伝授された時、和子は 自分が 辱められているような感じがした。
しかし それは 結局大いに役に立った。
苦しい時 和子は 尊院・実時を思いだす。
その時、なるべくすき焼きを作ってくれた 兄たる尊院様として思い出す。しかし あんぱんを千切ってくれた あの神社での実時こそが 最も和子を激励してくれるのである。
 その後 和子を掻き抱き 泣いた実時、あの陶然とゾクゾクする恐怖感との入り混じったものが 記憶から生々しく浮上してくることがあるのだ。
その時、和子は 嘗て尼僧から伝授された、指を素早く曲げては
作る図形を両手で組み合わせ、呪文のような音を風のように口から発しながら印をきるのであった。

 その風のような呪文も印も役に立たない時が やって来てしまった。
その日、
東京銀座にある伊勢茶道東京部会に大宗師であり、伊勢茶道の宗匠である是時が大切な茶会に出るために用意していた袱紗を間違えて持って出た。尊院実時は それを届けるために東京に出て、銀座で行きつけの鮨屋によって、新橋駅から 湯河原に戻っていたら、そして 東京の谷中にあった ある禅僧の寺において修行をしていた芳仙和子が そのまま日暮里から 東京駅に出て、小田原にある三代と暮らす家に戻っていたら、
と 和子は何度か思い返したことがある。しかし矢張り 遅かれ早かれそうなる運命だったのだと思わずにはいられなかった。

実時は 行きつけの鮨屋が定休日だったのを思い出し 急遽浅草にある別の店に久しぶりで行ってみたくなった。銀座線に乗ればすぐだ。
和子は 日暮里駅から東京駅に向かおうとしていたのだが、禅僧がタクシーで浅草に出るのに同乗を勧められ、和子は観音様をお参りして銀座線で新橋に出ることにした。
三社祭りを間近に控えた浅草は その準備で町並みにもその土地の人にも 妙に活気が あった。和子は 禅僧と別れ 浅草寺の観音様に向かった。
実時は お目当ての鮨屋に向かう途中にある観音様を素通りするのも氣が引けて、参道に入った。人出が平日にもかかわらず多く、脇道にすぐ入り直した。と横へ出たところで和子とパッタリ出遭った。
そして二人は 数年ぶりに攖寧社とも梓慶庵とも関係の無いところで お互いに見詰め合った。はじめは兄と妹のように、
「じゃあ 和ちゃんも行こう。江戸っ子らしい鮨屋だから ためしに 一度は 食べてみてご覧。小田原とか湯河原の鮨屋と やっぱり違うよ」
「実時さんって相変わらず食いしん坊なんですね! 私、お鮨なんて久しぶり!」
「そうか 修行修行で山奥にばかり篭っていたからね。」と実時は 訊き返した。
「うん!」と明るく弾む十九歳の和子は
実時の目には もう 妹を見るような視線を浮かべることは 不可能だった。抗いようもなく その視線は 豊かな胸や 細い腰に焦点を結んでいた。時折、眩しすぎるほどに美しく整った目鼻立ちに 焦点は 動かすことを止めてしまう。
和子も実時の視線を意識した。実時の目に自分は一人の女として映っているのだろうか?妹のように自分を見守っている視線とは別個の戸惑いを実時の視線から感じ取っていた。それは くすぐったいようであり、少し怖いような感じもした。
 そして鮨屋では テーブル席に座り、差し向かいで腰掛けた。白地に濃い藍色の線模様に赤い花の絵が所々に描かれている大皿に 実時が注文した にぎり鮨や 刺身が美しく並んで 二人の目の前を占領した。兎に角、すきっ腹を満たしてから、積もる話は それからだと 相変わらず食い気に勝る実時であった。
大皿の絵柄の全貌が明らかになった頃、実時は 意外な事を 言った。
「今日 親父に袱紗を届けに部会に行ったら、京都の茶会には 三代さんも一緒だそうだ。」
「はぁ?京都ですか?」和子が谷中での修行を終えて、今日小田原に戻るのは 三代も知っている。ある行が済むと、帰ったその日は概ね修行内容の報告をする事になっている。和子は 鮨で満腹になり、この数週間谷中の寺での禅修行で精進料理ばかりだったのと禅行で緊張していたのが 
胃から 一気に娑婆へと解放された上、大好きな実時と屈託なく 食べ、
喋り 頭はポワンとして妙に幸福だった。そこへ 季咸・三代が小田原にいない。となると 緊張がさらに無くなっていた。
しかも実時に ビールぐらい呑め呑めと勧められ、軽く一杯呑んで フワッとしていた。実時は ビールをそれ以上勧めなかったが
「もっと 鮨をたのめ」という。
若い和子である。少し調子に乗って注文した。大トロの炙りを にぎりと刺身で堪能してしまった。
「こんなに おいしいものたくさん戴いたら わたし 今日まで天妙寺で積んだ禅行、なんにもならなくなっちゃうかしら?」和子は クルリと大きな眸を廻しながら実時に向かって頓狂な声で言った。
「まぁこのくらいで 元も子もなくなるような禅行じゃあ 所詮人助けする力に ならんのだ。心配するなって! それに何度も言うようだけど、ここの支払いは東京部会!季咸と芳仙が いなきゃ 大宗師も尊院も何もできない!そして東京部会だって 小田原の攖寧社がなかったら実際、存続できないのだから! まぁ禅行無駄になったら 又天妙寺に修行に行き直せば いいだけさ」実時は 
かなり 大胆なことをペラペラと喋った。
和子は ざっくばらんに物事を思うように喋ったことなどなかった。小学校、中学校に通っている時も友人は いなかった。いつも目立たないように息を殺していた。自分の複雑な境涯を尋ねられてもどう応えていいか判らなかった。いい加減な嘘を拵えてそれを並べ立てていく試みを 心の中でいつもしていたが、どう考えても辻褄を合わせていける自信がなかった。自分の考えなどどうでも良い事なのだと幼い頃から決め付けていた。
しかし、十九歳になった和子は 目の前にいる実時の鷹揚さにすっかりと心が解けていた。コップ一杯に満たない、生まれて初めて呑んだビールは少しも美味しくなかったが、なんとも心持ちが 緩んで 少し意味無く愉快でもあった。東京部会から時々小田原の攖寧社に訪れる人々の何とも云えないお高くとまった仕草や表情、そして季咸たる三代や芳仙たる自分に対して どこか侮蔑的な色を隠さずにする慇懃無礼な言動に対して 具体的な例を立て続けに挙げて 厭な氣がした事を実時に話した。どのように不快だったか、どうしてそういう言葉が 自分にとって不愉快と感じたかなどを 三代にすら愚痴ったこともないのに 和子は喋った。喋れば それに相槌を打ってくれたり、一緒に怒ってくれたりする実時がいた。咽喉が渇いたのでお茶を飲もうとした。すると、
「未成年に勧めたくはないが、えーい! 
駆けつけ三杯というからな」と実時が 
ビールを注いでくれた。和子も実時のコップにビールを注いだ。
円形の飾り窓を縦に格子が並んでいる。その格子の奥には 白濁のガラスが入っている。そこが 真っ赤に染まるほど夕日が差し込み
二人は ともに黒い影法師のようにならんでいた。ビールがコップに注がれる。黄金色の細かな泡が白く沸き立ち、夕日に染まる。
千九百九十九年、五月七日の仙台の郊外にあるコンテナハウスの狭い部屋で三十四歳になっている和子の見開いた目には そのビールの泡立つ様が 間延びした時間と重力の緩慢な映像としてボンヤリ浮かんでいた。
呆けたような半開きの口は やにわに硬く閉じられた。そして同時に瞬きを忘れていた両目も硬く閉じきった。そして暗闇の奥の方から

十九歳の丸山和子の自分の姿と二十六歳の
実時が肩を並べて歩いて来た。
浅草をほろ酔い加減でそぞろ歩いている。
やがて二人は けばけばしいネオンサインの街並みに紛れ込み、ただ夢中で実時にしがみついていている自分に呆然とした。
「大丈夫 和子は 俺の女房になればいい」
実時は そう繰り返した。その声を掻き消すような恐ろしい風の音が 体の奥から吹き上がっていた。外界における自然の厳しい側面を真冬の霊場で修行する時、幾度も見知っていたし、あえて極寒の山奥で斬るような雪混じりの風の中を真言と呼ばれる呪文のような意味を持つ音の連なりを敢えて排除した文言を唱えながら夜通し歩き続けたこともある。
その時耳にした 漆黒の闇の中で前触れも無く突然轟音を立てて起きる雪崩の凄まじい地響きよりも 恐怖で全身を竦ませる音が 十九歳の和子の奥から響き渡っていたのだ。
いけない!これ以上は いけない!
和子は一方でそう叫び 一方でただ貪るように快楽の淵へ突き進んでいた。
あなたといきたい!あなたと生きたい!と叫ぶ。
実時の荒い息遣いや、硬直した背中の筋肉、そして血が混じり合っているのではないかと思った程 二人の汗がただ溶け合っていく感触が 真っ白になった頭の中で視界からの感覚を遮断していた。十九歳の丸山和子のその記憶は いつでも再現可能だった。三十四歳になった今でもそれは 永遠の現実のように、再び強烈な快楽と恐怖を追体験できるのである。
ポトンポトンという蛇口から漏れ落ちる水が湯船を打ちつける音が甦る。
それを聞きながら 実時の腕に抱かれ、温い湯の中で自分の乳房が実時の掌で捏ねられているのを不思議な思いで眺めていた。
狭い浴室で口づけをすると、鳥の囀りが木霊しているようで 面白かった。それでも時折ゾクゾクと悪寒のような恐怖が 身体を走り抜けていた。
これから先、もう 自分は 芳仙、そして季咸として生きてはいけない。中学を卒業して以来 殆ど休むことなく行われた 霊場や修験場巡りの旅の日々は 一体何だったのかしら?そして これから先、実時の妻になって生きてける確証は どこにもない。それでも今実時と一つになった悦びの中で 十九歳の丸山和子は 身体を走り抜ける恐怖に対して立ち向かう氣が 湧いていた。
「あの時 私は なんだか誇らしかった。
 まだ 十九の私は 余りにバカだった。」
三十四歳の丸山和子は その永遠の現実から再び戻るとそう呟いた。深い深い溜息と、その永遠の現実からの虚しい帰還。そして指に絡みついた惨めな粘液を 近くにあったティッシュペーパーで拭い取った。 下着のズレを直して、涙の跡を拭いた。洟をかみ、少しスッキリした。もう早めに風呂に入っておこうと思い立ち、浴槽に水を張るために立ち上がろうとした。今晩 七尾会から指名予約が入っているという連絡があった。あの東京から来る痩せっぽちの中年さんだわ。お得意様だわ。少しは身奇麗にしていかなくっちゃ。小田原の養母たる三代からのせつない手紙が 少しぞんざいに皺寄ってしまったのを 修正しよう・・・と目をその手紙の方に向けた瞬間、グラリと視界全体が揺れた。
「ああ まただわ・・・。」和子は咽喉の奥でそう言葉を洩らした。そしてその場に又横たえた。失神していた。分裂症で6年間入院していた和子は 未だ 時折そういう風に氣を失った。但し、断片的な記憶が 微かに意識の果てで浮かんでいた。
一つの顔が 浮かぶ。浅黒くて脂ぎった男の顔が 銀縁眼鏡の奥で一重瞼の小さな目が 力なく和子の方を見据えている。その顔に愛情とか愛着といった感情がまといついてくることはなかった。ただ この男の子供を2度まで身篭ったのに、一度目は 余りに過度の早産で、二度目は 不幸な事故で流産した。
この男にどんな風に抱かれたのか?この男との結婚生活で、その結婚式の様子さえ曖昧にしか思い出せなかった。養母たる三代もましてや実時や大宗師是時が その式に加わっていなかった悲しさなど 思い起こしたくもなかった。悲しげな花嫁の和子の横に座った和子の花婿となった男は、そんな花嫁の胸中など全く意に介さない。つまり鈍感な男だ。
十六歳年上の九州地方の県会議員だった。
地方都市の大きな資産家の家に嫁いだのだが
その広くて大きな家の細部は 既に記憶の底に深く沈殿してしまったかのようであった。
舅や姑の顔も薄ボンヤリとしていた。
それよりも 三代と大宗師是時の蒼ざめた顔が二つ 明瞭な輪郭を次第に露にして浮かんで来るのだ。紙のように白くなった顔に青い色を目の周りに滲ませ、下瞼の淵が真っ赤になった季咸・丸山三代、養母であり、『かあさん』と呼んでいた三代の異様な形相である。そしてがっしりとした鼈甲フレームの眼鏡をかけている銀髪をオールバックにしている大宗師伊勢是時の形相も又異様だ。その二つの顔が 並んだ。と、突然和子は 骨ばった三代の掌で頬を打たれ、続けて耳や首筋を何度も叩かれていた。その異様な形相の三代の顔が 涙でクシャクシャになっていた。
「ばか!あれほど 言い聞かせていたのに!
なんで!どうしてだ!ばか!」三代の叫び声のような叱責が降っていた。
と 次に和子の近くで何かが割れた!そして伊勢是時の怒鳴り声が 小田原攖寧社の離れの座敷に響いた。
「許せるわけが あるか!この愚か者!」
その声に重なって肉を打つ鈍い音が聞こえた。実時の声がその後をさらに追うように
「和子と結婚するしかないんだ!」と実時は吼えた。その声は 是時の声を圧倒した。
和子は 三代に覆い被さられていた。三代は和子を激しく揺さぶったり拳で打ったりしていた。その痛みの下で和子は震えていた。そして不図射るような視線を感じ 恐る恐るその視線の方を見た。その視線の主は 実時の母親であり、是時の妻である悦子だった。
奥二重の両目が吊り上っていた。
「こんな捨て子を どうして伊勢家の跡取りの嫁にできるんです!」温度の極めて低い言葉は その場を過剰に凍てつかせた。次の瞬間ピュンと風を切る音がして 悦子の顔面が歪んだ。実時が 実の母親を平手で打ったのだ。実時は又吼えた。
「撤回しなさい!今のその言葉を撤回しなさい!今すぐ 和子に謝れ!」
実時は ドスンドスンと足を踏み鳴らしていた!悦子は打たれるなり横倒しになっていた。実時に猛然と飛び掛る是時を実時は 簡単に跳ね飛ばした。カウンター気味に息子の実時に胸のあたりを突かれた是時は まともに床の間に飾ってあった花瓶に腰から落ちた。悦子も是時も恐怖のために竦んでいた。三代が和子から離れると竦んでいる是時に向かって平伏した。
「お許しください!必ず芳仙は 私が身命を賭けて 探し出します!お願いします!和子は 私が拾った子です! どうか暫く私の手元で育てさせてください!決して尊院様に近付けさせは致しませんから!」
和子にとって養母たる老いた三代の小さな身体が ペシャンコに潰されたように畳に額を擦り付けているのが 途方も無く悲しかった。
この世で一番愛している尊院、いや 伊勢実時との結婚が 祝福とは正反対の様相で今目の前で崩壊していくのが わかったからだ。
そして初めて季咸・三代でなく、養いの母、三代の母たる情愛を感じ取った和子は 身動きできなくなっていた。その和子の腕を実時が取った。
実時は 充血し、涙を浮かべた目で和子を優しく見詰めた。
そして力強く自分の方に引き寄せた。和子は よろよろと立った。
「和子は 私の妻です。お許し戴かなくて結構です。お世話になりました」実時は決然とした調子で そう云った。そしてその場を二人で立ち退こうとした。すると 三代がいきなり実時と和子の方を向いた。
その姿を見た和子が 驚愕の叫びを上げた。実時も足を止めた。丸山三代が 是時の腰で砕かれた花瓶の破片の一片を両手で握り締め、しかもそれを咽喉の上に突き立てていた。
「尊院様!あなたが 出て行かれたら 私は此処で 死んでお詫びしなくては なりません!和子を芳仙にする事は 私が責任を持って請負ったのでございます!大宗師様は あなたより年齢が下では いずれ問題が起きるからと 和子を芳仙にすることは はじめから反対されていたのです!しかし 私は和子以外に最早これに優れた芳仙は 無いと断言したのでございます!」そう云い終わると鋭く尖った破片の先を咽喉に突き刺さそうと
一度両手を伸ばした。しかし直ぐに 和子がその両腕を掴んでいた。
三代の破片を握り締めていた片方の掌から鮮血が滴っていた。
尊院・実時が 力ずくで三代の手首を捻り、漸く破片を取り上げた。
そして和子に向かって
「救急車を呼ぶんだ!」と云った。
和子が動転しながらも電話のある東の事務室に向かおうとした。
すると是時が 「救急車はダメだ!斎藤医院に電話して、往診してもらえ!ここに救急車は まずい!」和子は その声に従った。
実時は三代の傷口をハンカチで抑えながら両の掌で硬く握っていた。
「なんてバカなことを」と呟いた。
氣を失いかけている三代は 実時を見上げて「実時さん!伊勢流降霊術
攖寧社は あなたで十八代続いているのですよ」と応えた。
電話をかけて戻った和子は その二人の姿と会話を目の当たりにした。
実時は目で和子に
「大丈夫だ」と語っていた。

斎藤医院から往診に来た医師は応急手当をし、そのままタクシーで入院させる手筈を取った。複雑でしかも深い傷だったのだ。三代と和子が タクシーに乗る。実時も同乗しようとした時、是時が 実時に向かって言い放った。
「実時 お前はもう 攖寧社に戻るな。尊院は 篤時に任せる」かなり厳しい言い方だった。実時は 乗りかけていたのをやめて  
是時に向かって云った。
「どうぞ そうしてください。
篤時は 茶の作法すら未だに呑込めない感の鈍さがあります。
まぁ 芳仙探しも梃子摺るでしょうが、お父さんの方もどうか
お達者で。気長に 篤時を 御仕込みなさい。どうもおふくろに似て
あいつは 金勘定にばかり夢中になる」
そう云ってタクシーに乗り込み、病院に向かった。
タクシーの後部座席で和子の腕に抱かれた小さな老婦人、
丸山三代は 深い溜息をついた。
「実時さん 親不孝しないでください。あなたしか十八代は 継げません。
篤時さんでは御無理なのは 十七代様もご存知なのですよ」
実時は バックミラー越しに三代を見た。
そして次にジっと和子の方を見た。和子は
三代に氣を取られていた。バックミラー越しに自分を見ている実時の視線を感じてはいたけれど、その狭い空間で実時の視線に応える自信がなかった。

  三代の手術中に和子は実時に こういった。
「実時さん お願い。いくら深い傷だからといってもうかあさんは大丈夫よ。命に別状はないです。それより 親をあんなふうに 
投げ飛ばしたりして・・・・。
まるで あなたらしくない事をしちゃって、
心が痛んでいるのでしょ?
ねぇ 日があくとドンドン謝りにくくなるものじゃなくって?」
実時は 和子の髪をそっと撫でた。
「すっかり 君の方が 大人だ」
和子は 少し微笑んだ。実時が 和子の提案を素直に受容れて 
攖寧社に帰って行く後ろ姿を見送った。
すると不意に 浅草での一夜からこの数週間、実時に抱かれながら 
いつも漆黒の闇で起こる雪崩の似た音の正体が突然その瞬間に解った。 

兄の如く実時を愛し、養母の三代や大宗師是時が望んだように、芳仙から季咸に上がり 実時とともに齢を重ねながら この小田原の地で兄と妹以上の関係、大宗師と季咸という関係を享受し、生きていく方が 実時を本当に愛することだったのかもしれない。
つまり、予め自分に与えられていた宿命に抗うなという魂からの壮絶な叫び声が きっとあの、ひどく恐ろしい雪崩の音の正体なのだと。

病院の冷たく光るリノリュームの床に 自分の涙が水溜りのように浮かんでいるのに漸く気付いた頃、三代が手術室から出てきた。
掌と指に負った傷とはいえ、深く、複雑だったために全身麻酔をかけられていた。 
血の繋がらない養いの母は 眠ったままだった。
その顔を和子は 見つめながら 予め定められていた宿命に逆らった自分が 今後どうなるのかを思うと 奥歯が勝手にカタカタと鳴った。寝ている三代の胸に縋りついて泣いてしまいたかった。
 
そして、和子は 九州のある県会議員で、いずれ中央政界に打って出ることを野心とする十六歳年上の男と名古屋で形だけのような見合いをし、
そのまま霊場修行の旅に出るような身軽さで九州へ向かった。
三代の嘆願と是時の計らいで攖寧社によく訪れる国会議員の斡旋で その結婚は猛スピードで決った。そのわずかな期間ですら和子は 三代の唯一の
親戚がいる三重松坂に やられた。三代は 和子に対して さらに口数少なくなっていた。常に表情は硬く、和子がする「かあさん」という呼びかけにも ぎこちなく応じていた。
しかし 見合いの話をしに三代が 三重松坂を訪れた時だけは 以前にも増して 和子にとってこの世で母親と呼びうる唯一無二の存在になっていた。松坂近隣の温泉で二人きりで小旅行した時、はじめて三代と和子は母と娘として笑い、泣いた。

その頃 一方の実時が どうしていたか。

和子は 実時も自分と同様、すぐに 結婚したと思っていた。
ところが その後 実時は結局独身を 通して、大宗師へ上がるべく修行に励み、日本各地の霊場を巡っていた事を知ったのは 千九百九十八年、秋 突如、実時失踪の報告を伝える三代からの手紙によって はじめて和子は知ったのである。和子が嫁いだ九州地方には 伊勢茶道の家元もなく、伊勢実時に関する情報など一切和子の元には届かなかった。三代から偶に来る手紙にも 無論一切実時に関する事は 書かれていなかった。千九百九十九年五月。実時の行方は未だ知れないという三代からの手紙を読み返し、あのミナミこと丸山和子は 泣き、氣を失っていた。
 

丸山和子が 氣を失っている頃、つまり実時は 千九百九十九年五月七日、半年余りの記憶喪失から記憶を呼び返し、まさに丸山和子に逢いに行くために東北新幹線の車中の人となっていた。ゲーテという名の猫と一緒に。
勿論丸山和子は そんなことは 何も知らない。
その頃実時は 十五年の月日を隔てて逢う 和子の姿を思い浮かべながら 車窓から東北地方の風景を眺めていた。そして 実時は半年間の記憶喪失状態から漸く回復した自分の記憶装置が どの程度戻っているのか判らなかったのだが、自然と脳裡には
忘れてはならない和子の顔が
仙台に近づけば近づく程 明瞭に蘇ってくるので安心した。
そして 実時は目を閉じ、大切な記憶をゆっくりと呼び覚ましていた。
つまり 和子の知らない実時の日々。  

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