主の祈り① 愛することが下手な私たちに与えられた祈り ルカの福音書11章1~13節
ある時、弟子たちはイエスに願いました。
「私たちにも祈りを教えてください」。
何をどう祈ったら良いのか、教えてもらわないとわからない。
古今東西、あらゆる宗教や文化に「祈り」という文化があります。
だから私たちは、祈りならなんとなくわかると考えているのではないでしょうか。
しかし実のところ、
天地を創造され私たちを愛してくださっている神に何をどう祈ったら良いのか、
私たちは本当にはわかっていないのです。
イエスは「私の背中を見て学びなさい」とは言いませんでした。
非常に具体的な祈りの言葉を弟子たちに教えられました。
主の祈りは、
私たちが古い習慣や独自に身につけてきた我流の祈り方を脱ぎ捨てて、
新しい習慣としての祈りを身につけるために、
イエスが教えてくださった祈りなのです。
ルカの福音書では、
主の祈りを教える前に幾つかの出来事について記録されています。
律法の専門家が永遠のいのちを受け継ぐことについて、
そして自分の隣人とは誰なのか、質問します(10:25~)。
イエスは善きサマリヤ人の譬えを話し、
「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。
しかし、その直後に同じようにはできないマルタが描かれます。
彼女はイエスをもてなすために一生懸命でしたが、
自分の姉妹に不満を抱きました。
そして11章5節から、深夜に友人にパンを借りに行く人の譬え話がされます。
彼自身、思いつきで要求したのではありませんでした。
彼は自分のところに来た旅人をもてなしたかったのですが、
そのための持ち合わせがなかったので、友人を頼ったのです。
善きサマリヤ人のように、
行って同じようにできる人間になりたいと誰もが思います。
しかし同時に、簡単にはそうはできない現実も知っています。
良い動機で奉仕を始めてもいつの間にか誰かと比較しています。
誰かの必要を知っても、他への責任もあり、余裕を持ち合わせていません。
だから、「行って同じようにする」ことは素晴らしいと思いつつ、
自分の役割ではないと線を引きます。
そのようにして、愛さないことをいつのまにか習慣としてしまうのです。
愛することを諦めた祈りに慣れてしまっていないでしょうか。
失望することを恐れ、期待するのを止めた祈りが、
いつの間にか当たり前になってはいないでしょうか。
健全な境界線は大切です。
しかしその線引きを、何によって判断しているでしょうか。
主の祈りは、まず天の父に私たちの目を上げさせます。
聖霊によって、私たちは愛することができる者へと作り変えられました。
この恵みに応答して、
イエスが教えてくださったこの主の祈りを新しい習慣を身につける時、
私たちはますますイエスに似た者とされていくのです。
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