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キリスト教、信じたら窮屈になる?? 「神の温かさに触れられて」 ルカの福音書6章1〜11節

この冬、灯油ストーブを新しく買いました。

スイッチを入れると、内部が煌々と燃え始めます。
朝、子どもたちは起きてくるとその周りに座りこみ、
しばし火を眺めながら暖を取ります。

もちろん、親は安全に気を配ります。
ストーブの周りに柵を巡らし、
事故につながる行為をしないこと、
その柵自体にも触れないようにと教えます。

その柵自体は実際には熱くはならないのですが、
これに触らなければストーブにうっかり触ってしまうこともないからです。

このストーブの柵は、イスラエルの律法に似ているところがあります。


イスラエルの人々は、
神の聖さを表したモーセの十戒に違反しないために、
より具体的で細かい生活に根差した律法のリストをもっていました。

とりわけ、
「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ(出エジプト記20:8)」
を実践する機会は7日に一度必ず巡ってきます。

それゆえ、安息日を守るための律法はより細かくなっていきます。

それは言わば、
ストーブの熱を届きにくくするほどに外側に柵を置くようなことで、
宗教家たちの頑な心として現れるようになったのです。


安息日は神の温かさを伝える日です。
「安息日は人のために設けられた(マルコ2:27)」からです。


しかしパリサイ人たちのかたくなさと、その安息日の守り方は、
会堂にいる右手の萎えた人を癒すかどうか
じっと見つめていた視線(ルカ6:6-7)のように、
冷たい頑なさで満ちていました。


日常の仕事や家庭において、
私たちは複雑な判断を迫られることがあります。

単純化して白黒を判断しようとするなら、
いつの間にか相手に対する愛が冷えていたり、
第三者への誠実さが抜け落ちてしまっていることもあるでしょう。

イエスは、
かつて勇気を出してダビデを助けた祭司アヒメレクのことを
思い起こされました。

当時は、
アヒメレクの判断は微妙なものとして人々の目には映ったかもしれません。

しかし心身共にボロボロだったダビデは
アヒメレクを通して神の温かさに触れました。

神はアヒメレクを覚えておられ、イエスは彼の行為を肯定したのです。


今、「これこそが私なりの信仰の表し方だ」と考え、
親しんでいる習慣や考え方はあるでしょうか?

そこからも一度、手を離しましょう。

聖霊は私たちの内側深くに働いて、
愛から始まる一歩を与えてくださいます。

「手を伸ばしなさい」と言われるイエスに従って手を伸ばす時、

神の温かさが、
あなたを通して他者へと表されるのです。


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