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ルカの福音書22章24〜34節「『誰が偉いのかレース』から、抜け出すために。」

「のび太のくせに生意気だぞ。」
国民的漫画・アニメであるドラえもんの主要キャラクター、
スネ夫がよく口にする言葉です。

彼はガキ大将のジャイアンとのび太との間で、
自らの立ち位置を常に模索しています。

自分は何を持っているか。何ができて、何が不得意か。

人々の間で自分はどのような位置にいるのかが、私たちは気になります。

なるべく優位でありたいと願います。
上位でなくとも、誰かが下にいると思えば安心します。

イエスについてきた弟子たちにとっても、現代を生きる私たちにとっても、
自分たちのうちで誰が偉いのかは重要な関心事です。

だから、失敗はしたくありません。
とりわけ自分の内面が人々の前に明らかにされてしまうような失敗や、
みっともないことにはなりたくないと願います。

「誰が偉いのかレース」で遅れをとってしまうからです。

「神の前で」という視点が消えた時から、
私たちはこの「誰が偉いのかレース」を走り続けています。

この世界に最初に罪が入ってきた時、
アダムはエバを指差すことで自分の判断を弁護しようとしました。
「あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。(創世記 3章16節)」

最も親しい交わりとして神が制定された結婚関係でさえ、
「誰が偉いのかレース」から逃れられない。

これが罪の結果もたらされた呪いです。


最後の晩餐の席で、
イエスは「上に立つ人は給仕する者のようになりなさい」と語り、
またこれから人類史上最も有名な挫折を経験するペテロを励まされました。

「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力付けてやりなさい。」

イエスを3度否んだペテロはその後回復し、
“彼らの間(ルカ22:34)”での
「誰が偉いのかレース」に戻ることはありませんでした。

イエスが彼のために祈ってくださり、
聖霊によって彼は、三位一体の“神の間”で愛されている存在であることが、
彼の深い部分でわかったからです。

イエスの復活と昇天の後、
父なる神はイエスの約束の通り、弟子たちに聖霊なる神を遣わされました。

聖霊が私たちを新しい神殿として、
私たちの心の奥深い部分に住むようになってくださいました。

聖霊によって、私たちは三位一体の神の間で自分の存在価値を確信できるのです。

ですから、
私たちはもはや恐れに駆り立てられてあのレースに戻る必要はありません。

私たちは誰のために祈ることを促されていますか?

どのような分野で、私たちは自分を捨てて仕えることに導かれているでしょうか?


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