山を使う海の民、瀬戸田の原風景
書き手:石川由佳子(アーバニスト / 一般社団法人for Cities共同代理事 / Dear Tree Project代表 / Meaningful City Magazine企画・編集)
「自分たちの手で、都市を使いこなす」ことをモットーに、様々な人生背景を持った人たちと共に、市民参加型の都市介入活動を行う。「都市体験の編集」をテーマに、場のデザインプロジェクトを、渋谷、池袋、神戸、アムステルダム、カイロ、ホーチミンなど複数都市で手がける。都市に関わるプロジェクトや実践者を収集するプラットフォーム「forcities.org」を通した国内外のアーバニストたちとのネットワーク構築や、アーバニストのための学びの場「Urbanist School」や展覧会「for Cities Week」を東京・カイロ・ホーチミンなど国内外で実施。他にも、街路樹のデジタルマップを通じて、まちのみどりとの関係性を紡ぎ直すプラットフォーム「Dear Tree Project」を立ち上げ。意味から都市を考える活動体として「Meningful City Magazine」の企画・編集も行う。都市の中で、一番好きな瞬間は「帰り道」。「ご近所未来会議」では、全体の企画と編集を担当する。
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瀬戸田の土地の資源をたどる
瀬戸内という言葉は、1860年と68年にこの地を訪れたドイツの有名な地理学者、リヒトホーフェンが旅行記に用いた「the inland sea」の訳語に端を発すると言われている。彼は、この美しい多島海と耕地や花畑をみて「広域にわたるこれ以上の優美な景色は、世界の何処にもないであろう。将来この地方は、世界中で最も魅力のある場所の1つとして有名となり、多くの人々を引き寄せるであろう。」と賞賛した。一方で、「かくも長い間保たれてきた状態が、なお何時までも続くように祈る。その最大の敵は、文明と新たな欲望の出現である。」と、文明の発展と共に、この景色が失われることを危惧していた。そんな瀬戸内海の島の一つである「瀬戸田」も、豊かな海の恵と共に暮らしを形成してきた地域だった。一方で、近年の都市化や工業化に伴い漁業は衰退し、生活様式も変化し、人々の暮らしや文化は海から遠ざかっていった。「海が近いのに遠い」そんな感覚を、瀬戸田を初めて訪ねた時に感じたことを思い出した。沿岸部にそびえ立つコンビナートを見ると、かつてリヒトホーフェンがみた、豊かな風景は今もここに残せているのだろうかと考えてしまう。今もなお世界の人々を惹きつける美しい景色が広がる一方で、その裏にはもしかすると、危ういバランスを保っている人々の暮らしと土地との関係性が透けて見えてくるのかもしれない。
第二回目となる今回の「ご近所未来会議」では、都市と地方のこれからを考えるにあたって、「ブラタモリモデル」と称し、瀬戸田の土地の歴史と資源を理解し、それらをどう活かし付き合っていくのかを考えていく。リサーチャーとして知人の金田氏を迎え、6冊ににも渡る瀬戸田の膨大な町史をベースにそれらを紐解いていった。
海と共にあった瀬戸田の暮らし
瀬戸内海の海は広く、浅い。平均水深は38m、1番深いところでも450m程で、 全体の約95%が水深70m以内 という非常に浅い海が特徴だ。そんな海を活かした「製塩」の歴史は2500年前の弥生中期頃から始まっている。500年前ごろからは、この地域に適した製法として塩の満ち引きを活かして製造する「入浜式塩田」が広がった。その背景には、瀬戸田が水はけのいい砂地だったこと、乾いた風が入り晴天の日が多い気候だったこと、干潮と満潮の差が大きいことなど、この土地の気候や環境条件を活かしたからこそ生まれた製造の形があった。
漁業に関しては、瀬戸内の灘と海峡を繰り返す独特の地形から、筋肉質で良質な魚が多く育っていた。一方で、近年は漁獲量が減り漁業自体も衰退している。その理由としては、都市化やコンビナートの建設による工場排水や、農業からの化学肥料の排水により水質が悪くなっていることなどが挙げられている。地元の人によると、かつては家を持たずに船で生活している人も多かったという。町史にも船の中での暮らしが描かれている。海と暮らしていたならではのさまざまな知恵や文化が多様に蓄積されているのだ。
瀬戸田には短い川が多く、晴天の多い天気から水不足に悩まされることが多かったという。山に関しては、北側にゆるやかな傾斜が広がり、南側は急な傾斜地となっているのが特徴だ。小さい農家が多いことから農薬を使わないなどのルールを統一するのが難しく、水はけのいい土地がらもあり、上の農家が使った農薬などが下の農家の土地にも流れて影響してしまうという課題もあるようだ。そういった意味でも、山と海の関係性が非常に近く影響しあう環境でもあるのが特徴だ。現在では、みかんなどの柑橘類で有名なエリアではあるものの、産業としては50年前ごろから計画的に生産されるようになったという、意外と最近のことであるのも驚きだった。山は他にも、燃料の確保の場として使われていた。地元の方によると、今でも観音山のことを町の人は「ひのたき」という愛称でよんでおり、戦後しばらくは船に向かって「狼煙」をあげ連絡をする場所だったという。現在では、人々が生活の中で山に入らなくなってしまったため、観音山という名前以外、人々が呼ぶ役割としての山の名前は失われていってしまったという。
人が「使う」ことで豊かになる自然
改めて瀬戸田の歴史をたどっていくと、人々は暮らしの中で海を活かし、山を使いこなし生活していたこと、その密接な関係性が浮かび上がってくる。一方で、産業や生活の変化により、山や海を使わなくなるに応じて、そのつながりが分断され、人々の暮らしとの距離が遠のいてしまったのが今の姿だ。「思ったよりも海が遠い」この今の土地との関係性を私たちはこれからどのようにつむぎ直せるだろうか。この問いに対して、この会議を通じて考えていきたいのは、どうかつての暮らしを取り戻すかというノスタルジックな視点でもなく、どう自然環境を守っていくかという話でもないのだろう。これから、もう一度、人々が手を加えることで土地とのつながりをどうつくれるのか、使うことで豊かになる自然との付き合い方をどう考えていけるかが、瀬戸田のこれからを考える上での一つの軸になっていくのではないだろうか。当日のディスカッションのなかでも「長い時間をかけて大きい動きになっているものの一部になっている経験が、この瀬戸田で提供できないか。例えば豊かな森づくりに参加している実感など」と岡さん、「それにプラスして、ここならではの体験や文脈を盛り込むことが重要」と御立さんが視点を重ねていく。
土地の資源との適切な「リレーション」をどう作る?
もう一つのトピックとして「リレーション」というキーワードが澁江さんから上がった。かつて存在していた海と山と川のリレーション=関係性をもう一度どう描きなおすか。そのつながりをつなげ直すにはどうしたらいいのかという問いだ。結局、頭でっかちにこれらをつなぎ直そうとしてもダメで、自分達が必要だからやる、という適切な関係性を擬似的にでも取り戻さないと続かないのではないかという意見も。「みんなが必死に使いたおすのは、まずはエネルギーと食、その次に住。それらを我々なりにどう使うかの再定義が必要だろう。使いたおすけど、使いつくさない。ここもポイント。関係性を意識しながら海と接していくことが求められている」と話は展開していった。かつて縄文の人たちが自分達を自然の一部として認識していたからこそ、自然を使い尽くしたら自分達も消えていくという思想を持っていたように、現代においてこの身体感覚を身につけていくにはどんなことができるのだろうか?
瀬戸田の里海をつくる
このメッセージは、今回の会議の中での瀬戸田を考える上での大きな道標となっていくだろう。その意味で、この土地の資源を理解し、適切に使いこなすためのボリュームを捉え、かつここに関わる人たちがワクワクしながらその動きに巻き込まれていく仕掛けが必要だ。「資源の適切な使いこなし、そのボリュームを算出するためには、宿のキャパシティ・交通のキャパシティ・関係人口をコントロールすることで、使いこなしていい、または使いこなせるボリューム感を把握できるかもしれない。」という意見も。また、それに加えて、瀬戸田への関わる人たちの「関わる時間軸」も変えていくことが必要だろう。一度島に遊びにきて終わりではなく、数年、いや数十年単位で関わっていくような関係性をどう作れるのか。考えるべきことは山積みだが、瀬戸田のこれからをデザインしていくための方程式が見えてき始めた会となった。