いつかは訪れる

実家のかーちゃんから「じいさんがもう長くない」と連絡を受けたのでちょっと考えていることを書こうと思う。

ぼくは最後には立ち会わないっていう選択をする。

最後に会ったのは去年の田植えの時期だったかなぁ。
たしかその頃はすでに何度か入退院を繰り返していて、ちょうど田植えの手伝いで実家に帰省した時も入院してたんだよね。見舞いがてら嫁とひ孫の顔を見せに行った時にはやせ細ってたなぁ。

はじめに「誰にでもいつかは必ず訪れるであろうその日」を意識しだしたのは19才くらいだったかな。

当時は親戚のパン屋で住み込みで働いていて、もういつ頃か詳細には覚えてないんだけど、すごく世話になったじいさんの最後の顔は見れなくて、それがどうしようもなく悔しくて、悲しくてすごく涙を流したっていう記憶だけいまだに鮮明に残ってるんだよね。

そのあと22才の時に実父がぶっ倒れて、自分もやんちゃしてくたばりかけて「いつか」ってのはほんとにすぐ隣にあるんだなぁって認識した。

それから「だれ」に「いつ」「なに」が起きてもいいようにあとあと後悔の少ないであろう選択と対応をするようになったんだっけか。

もうね。

「あの時やっときゃ良かった」とかっていうやらない後悔ってのは文字通り「後悔」でめっちゃズリズリ引きずると思うんよね。

父親の介護と並行してやってた、痴呆で片道1.5hの山奥の病院に入った母方のばあさん世話をしてる時も「いつか」がきたときには他の親戚一同は悲しそうにしてたけど、ぼくだけ19才だったあの頃の自分では考えられないであろう「おつかれさま」って言葉が出て笑顔で送ってた。

できることしかできないってすげー割り切れるようになった。

常にこれが最善手であると自覚できるようになったのがでかい。

かなり脱線したけど、じいさんの話を聞いた時もやはり「おつかれさま」だったんだよね。いつかは絶対くるから孫としてできる限りできることをやろうだったから全く後悔はない。

加えて日本でも拡大し始めた世界的なアレもあるし、最後に顔を見ることは「行かないっていう選択」がぼくの中では最善手だと思う。

たぶんじいさんなら「無理してくんな」って言いそうだし。

最後に顔を見たいという気持ちは少なからずあるけど、こんなご時世だからこそ、冷静な判断をしたい。


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