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(非公式)『運命戦線リデルライト』第一話「キミだけのチカラ」

     〇

 小さい頃、本屋さんで占いの本を買ってもらった。
 手相だとか血液型とか、今に思えば他愛のない話だけれど。
 その頃のわたしには、何だか素敵に思えたのだ。
 運勢を――あるいは「運命」を占いましょう、と本は語る。
 赤い糸で結ばれた、顔も知らない誰かとか。
 幸せを約束された未来とか。
 けれど、本は一つだけ嘘をついていたのだ。
 運命は、もっと残酷なものだって。
 教えてくれれば良かったのに。

 変えようのない未来。
 逃れようのない未来。

 運命は、ただ「人のチカラではどうしようもできない」もの。
 その未来に幸福があるかは、神様にとって関係がない。
 なら、わたしは――。

 一体どうすれば良いのだろう?

     一

 六歳になってしばらく経つと、いつの間にかわたしは小学生になっていた。正確には「なろうとしていた」という方が適切だけれど。桜の木が一杯に咲いて、暖かな風が頬を撫でる。それはきっと、例年と変わらない風景だろう。去年もおととしも、桜は咲いた。けれどわたしには、何だか不思議と、今年だけが特別なのだ。
「おっめでとう!」
 入学式の朝、その日は全国的に晴れだった。小学校の端っこの、立派な桜の木の下で、お母さんは当のわたしよりも楽しそうに、カメラを構えてはパシャパシャ写真を撮っている。被写体は、もちろんわたし。背負いっぱなしのランドセルは少し重い気がしたけれど、何だかそれが「お姉さん」って実感をくれた。
「はいはーい、視線こっちね! よーし、はい可愛い!」
 パチリ、と何十回目かのシャッターが切られる。
「もう……やめてよ。恥ずかしいよ。他の人に見られてるよ?」
 通り過ぎていく人たちが、チラチラとこちらに視線を向けた。気づいているのかいないのか、お母さんは構わず大声で「ハイ、チーズ!」なんて叫ぶのだ。かれこれ、二十分。これじゃ、入学式にも遅れてしまう。
 ……せっかく早起きしたっていうのに。
「おねえちゃんばっかいいなー」
 トコトコと、妹の実莉がやって来た。わたしのふくらはぎに抱きついて、「あたちもがっこういく!」と、こんなコトを主張する。
「良いねー! 可愛い!」
 グッドサインなんてしてる場合じゃないんだってば。
 もう。
「後で付き合ってあげるから。……わたし、もう行くね? ほら、実莉も。大きくなったら行けるから、ね」
「そんな……あとちょっとだけ! ちょっとだけだから!」
「おねえちゃんずるーい!」
 構わず背を向け、式場に向かって歩き出す。まったくもう、お母さんはいつもこうだ。なんていうか、子供っぽい。……もっとも、そんなところもわたしは大好きなのだけれど。
「気をつけてなぁ!」
 駄々をこねる実莉と……それからお母さんに、アメちゃんを一つずつ渡しながら、お父さんが手を振ってくれる。
「うん! 行ってくるね!」
 校庭の砂は真っ白だった。大人の影が、大きくゆらゆら揺れている。隣には小さな子供がついて――。
 どこか、海に似ている気がした。
 大小様々な波が、波紋が、飛沫が、真っ青な海に漂っている――そんな、イメージ。
 世界は輝いていた。
 何もかもが楽しみだった。
 その日――わたしは、幸せだった。

     ※

「これから皆さんは、赤里小学校の一年生です」
 頭の禿げた校長先生が、壇上に立って話し始める。式場は学校の体育館。家の近くの公園よりも、ずっと、ずっと広かった。そこにたくさんの椅子が並んで、椅子には子供が座っていて……。
 こんなにたくさんの人がいるのに、辺りはすごく静かだった。
 何だか、不思議。
 初めて会う人ばかりだから、だろうか。
「赤里町は、『芸術』をキーワードに作られた町です。皆さんのおうちも、カラフルに塗られていたり、素敵な絵柄が描かれていたりするでしょう。この学校の校舎にだって、やっぱりたくさんの色があり、芸術があります。廊下には世界中の素晴らしい絵画や彫刻を飾り、皆さんが日々、芸術に触れることのできる環境を整えているのです……」
 この町が、少し他の土地と違っていること。
 それはきっと、ここに住む人なら誰だって知っているコトだと思う。
 昔、赤里町は災害でぐちゃぐちゃになってしまった。そこで、元々住んでいた人たちは、前よりももっと素晴らしい町を、再び一から作り上げようと考えた。
 それが、いわゆる「芸術都市」。
 絵画、音楽、映像……。様々な分野の芸術作品を、町のあちこちに展示する。家の屋根を様々に塗り、ビルの設計を工夫して、芸術的な町を作る。
 この学校も、やっぱり同じ。校舎の壁には赤とか青とか黄色とか、丸とか三角とか四角とか、そういうものが描かれていた。
「目がチカチカする」と出ていってしまう人もいるけれど……明るくて、優しい感じがして、わたしは好きだ。もっとも、時々道端にある、外国の人が描いたっていう不気味な絵はやめて欲しい。夕方見ると、お化けみたいで、怖いのだ。少しだけ。……本当に、少しだけ、だけど。
「――では、皆さんに、今から魔法の言葉を教えましょう」
 不意に校長先生が、そんなコトを口にする。
「……魔法!?」
 子供っぽいかも知れないけれど……ちょっとだけ、わくわくした。だって、そうだろう。魔法っていうのは、つまりすごいコトなんだから。空を飛んだり、変身したり、何だってできるのが、魔法なんだ。
 けれど。
「あるわけないじゃない」
 なんて、そんな言葉が聞こえてくる。
「魔法なんて、あるわけないじゃない」
 隣の席に座っている、髪の長い女の子。細い目に、ツンとした鼻。何だか「お姉さん」という感じの顔立ちだった。
 そんな顔でいわれたら、まるでわたしが「子供っぽい」子みたい。
 やな感じだ。
「魔法の言葉その一は、気持ちの良い挨拶です。地域の人やお父さんお母さん、友達や先生にいうことで笑顔になれる魔法の言葉――『おはようございます』」
 校長先生はいいながら、ポケットから細い棒を取り出した。指揮棒だろう、ととっさに思う。町の広場の演奏会で、何度か見たことがあったっけ。オーケストラの指揮をする人が、ああいう感じのを持っていた。先生は棒を高く掲げ、ふわり、とそれを振ってみせる。
「……すごい!」
 と、思わず口にしていた。本当の魔法みたいに、煙とか花びらとか、そういうものが壇上のあちこちを飛び回る。「シューッ」という不思議な音を伴って。それが「魔法」というよりも、むしろ「手品」に近いものだということを、わたしはちゃんと知っている。でも、違うのだ。問題は本物かどうかじゃない。大切なのは、すごいかどうか。先生の「魔法」は、すごかった。テレビで見る手品より、ずっと迫力があって、驚いた。実際に目の前で起こっているから、というただそれだけの理由かも知れないけれど……でも、やっぱり「すごい」と、わたしにはそう思えたのだ。
「……子供っぽい」
 隣の席の女の子が、またぼそりと呟いた。むっとする。せっかくの「すごい」というわたしの気持ちが、その子のせいでしぼんでしまう。
「他にも、『ありがとうございます』や『ごめんなさい』も、皆さんを助けてくれる魔法の言葉です。魔法は、世の中に本当にあるんです」
 校長先生は話し終えると、剥げた頭をぺちょん、ペちょんと撫でながら、壇上から去っていった。
 辺りを見回す。たくさんの、わたしと同い年の子供がいる。幼稚園とは、どこか違う雰囲気だ。広い校舎、たくさんの人、そして何より、大きくて重いランドセル。
 いよいよ、始まる。
 そんな実感が、不意に湧いた。

     ※

 教室はざわついている。隣の子と、後ろの子と、座敷に座ってからすぐにお喋りを始める子がいる。あるいは身を縮こまらせて、緊張気味にうつむいている子も、やっぱりいる。それでもみんなに共通しているのは、その目がどこか楽しそうにしていることだ。今日は何があるんだろう、明日は何があるんだろう、友達は何人できるだろうか、どんな給食が出るんだろうか……。
「皆さんに学校の案内をします」
 担任の先生は、優しそうな女の人だ。お母さんとは少し違って、何となくふんわりとした雰囲気の。背中まで届く長い髪を、後ろで一つに束ねていた。黒縁の眼鏡が、どこかおっとりとした印象をもたらす。
「ココが理科室。理科の勉強をします。あそこの人体模型、夜になると動くんですよぉ」
「ココが音楽室。音楽の勉強をします。あそこの肖像画、夜になるとしゃべるんですよぉ」
 なんて、教えてくれなくても良いことを、わざわざ教えてくれるのが欠点だけれど。
 校長先生のいったとおり、学校のあちこちには絵画だとか彫刻だとか、そういうものが所狭しと飾られている。階段はピアノみたいに塗られているし、いくつかの窓はステンドグラスになっていた。
「これはダヴィドね。……こっちはモネかしら」
 先生の後ろを歩きながら、誰かがそんなことをいう。
「……あっ」
 誰だろうか――と振り向いて、わたしはちょっと後悔した。
「何よ」じろり、と声の主はこちらを睨む。「何よ、『あっ』って」
 式場で、わたしの「すごい」に水を差した子……なんてコトはもちろん面と向かってはいえなくって。
「何でもないの、何でもない。……そ、そうだ、名前。名前、なんていうの?」
 なんて、我ながら下手クソなごまかし方しかできなかった。
「名前……?」
 訝しそうにわたしの顔をじっと見つめる。……面と向かうと、やっぱりすごい美人だった。「可愛い」のとはちょっと違う。綺麗で、少しとんがっていて、どこか大人っぽい感じがするのだ。
「ま、良いわ。私は七菜香――夏目七菜香。よろしくね」
 差し出された手はすべすべしていた。
 柔らかくって、温かかった。
 少し意外で――けれど同時に、ほっとする。
「うん。よろしく。わたし、充莉――朝霧充莉」
 きっと、この子は優しいんだ――なんて。「やな感じ」とか「水を差した」とか、好き放題いいながら、素直にそう直感する。
 握手は絶対に嘘をつかない。
 お母さんが、いつかにいっていたことだ。

     ※

 学校案内は、音楽室から職員室へ、保健室から図書室へと移っていく。クラス全員、先生の後ろに列を成して歩く様子は、何だかちょっと面白かった。テレビで見た、偉いお医者さんが病院の中を歩くやつとか――たくさんの黄色いヒヨコ達が、母鳥の後ろを歩くやつとか。そんなものを、連想する。
「ココが、校庭! 広いでしょう! 真ん中にシートを引いてお昼寝すると、とっても気持ち良いんだよぉ」
 前にやったら校長先生にすごく叱られちゃったけど、と先生は楽しそうにウインクした。
 確かに、広い。そして、綺麗だ。砂が白くて、陽光に眩しく輝いている。カラフルな校舎は、白い海に浮かぶ船――そんな風に見えるのだろう、なんて、わたしはふと想像した。
「さ、次はいよいよ、校長室に行きますよぉ」
 先生の合図に従って、クラスのみんなは歩き出す。校長室。きっとふかふかの椅子があって、虎の毛皮なんかが飾ってあって、たくさんのお菓子が並んでいて……。

「充莉」

 誰かに呼ばれた――そんな気がした。
 はっきりと声が聞こえたわけではないけれど。
 でも、わたしの名前だと確信していた。

「充莉」

 再び、どこからか微かな声が聞こえてきた。耳の中でぼんやりと響く、不思議な声。決して無視してはいけないような……そんな気がする。

「充莉」

「誰……?」
 声のする方へ歩いて行く。先生の姿も、クラスメイトの姿も既にない。わたしはただ一人、ふらふらと廊下を進んでいった。放送室の前を通り、美術室の前を通り、色とりどりのタイルを踏みしめ、階段を上り、また下りる。
「ここ――は」
 鏡のような水面が、のっぺりと横たわっていた。消毒の匂いが鼻をつく。そこは、プール。校舎内に設置された、ちょっとした大きさのプールだった。わたしがよく行く市民プールとは全然違う。屋根があって、虫や枯れ葉が浮いてなくって、何より、水がほんの少し温かい。冬場だって、雨の日だって、これなら好きなだけ泳げるだろう。
 水はほとんど波打つことなく、表面に照明を反射している。
 まるで、鏡。

「充莉」

 声は、以前よりいくらか大きくなった気がした。
 そしてそれは……確かにプールの内側から……。

「入学おめでとう!」

 悲鳴を上げる暇さえなかった。静かな水面を思い切り散らかして、何か半透明なモノが飛び出してくる。それは猫のようにも見えたけれど……身体はクリオネを思わせた。どこかのマスコットキャラのような、とぼけたカタチ。半透明な身体の奥には、真っ白い球体が透けて見える。それがふわふわ宙を飛んで、こんなことをいうのである。
「もう一度いうよ――入学おめでとう! 一年生になったからには、さあ! 自分の人生は自分で切り開かなくっちゃね、充莉!」
 声が出なかった。お化けだろうか、と一瞬思った。けれどコレがお化けなら、想像していたのとは随分違う。目の前のよく分からないネコもどきは、「怖い」というよりむしろ「変なの」という方が正しい気がした。
 変なの。
 変なもの。
 よく分からないもの。
 よく分からないけれど、何だか少し、親しみやすい気がするもの。

「……あの……あなた……何……?」

 だから最初に出た言葉は、案外冷静なものだった。
「ボクのことはどうでも良いんだ。大切なのはキミのこと。自分を世界の中心だって思ってるんだろう。思ってるんだろう? 絶対そうだ。思ってる。キミくらいのちっこい奴は、大体そうなんだ、ボクには分かる」
 前言撤回。何だかこいつのことは、気に入らない。わたしはむっとして、いい返す。
「ちっこくないもん。小学生だもん」
「いいや、ちっこい。ちっこいね。ちっこくないと思ってる辺りが、もう、ものすごくちっこいんだ。自分を世界の基準だと思ってる証拠だよ。だから――」
 だから、とネコもどきは、急に真面目な顔をした。いや、ネコの表情なんてわたしにはよく分からないけど。とにかく、そんな気がしたのだ。
「だから、現実を教えてあげる。良い? 良く聞んだ。良く聞んだよ?」
 曰く。

 世界の中心で居続けたいなら、闘って今の居場所を守れ。

「闘う……?」
「そう闘うんだ。大切なものを大切にしてくれるほど、キミの世界は優しくない。だから――闘うんだ。真っ当に、正当に、公正に、公平に、大切なものが正しく大切にされるように。キミの思う『大切』が、正しく『大切』であるために」
 何だろう、それは。
 筋が通っているように聞こえるけれど……。
 でも、少し歪だった。
 わたしには分からない考えだった。
 だって、大切なら大切にすれば良いんだから。家族も、友達も、何もかも。大切に思うものは、ただ大切にすれば良い。そうすれば……みんなが大切なものを大切だと思うなら、それは本当に大切なものだし、大切にされるはずなのに。
 なのに……。
「なんで?」わたしは尋ねる。「なんで、闘わなくちゃいけないの?」
 わたしは、嫌だ。
 喧嘩はダメだと、大人はみんないっている。
 痛いのはダメだ。
 泣くのはダメだ。
 だから――。
「嫌だよ。だって、ダメだもん。喧嘩しちゃ」
 ふうん、とつまらなそうにネコもどきは頷いた。
「ま、みんなそういうよ。でも――」

 もしも、魔法が使えるようになるとしたら?

「マホウ? マホウって……『魔法』?」
「そうさ、魔法。見えない世界が見えるようになるんだよ。何だってできる。空だって飛べる」
 ネコもどきは、手――のように見える突起の一つ――をこちらに差し出す。
「ねぇ、闘わないのかい? ……違うな、『闘え』。それが正しい選択で――そして、唯一の選択でもある。さあ、闘おうよ」
「な……何なのよ。わけわかんないし……」
 それに、喧嘩はしたくない。
「良いから、来るんだ。さあ、来るんだ。さあ! さあ! 魔法だよ? 魔法使いになれるんだよ? どうして嫌がる理由がある――」
 後ずさりする。一歩わたしが退く度に、ネコもどきもまた、こちらへ詰め寄る。
 一歩、二歩、三歩。

「さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!」

 声は重なる度に甲高く、そして大きくなっていく。耳の奥で何重にも反響し、何重にも繰り返される。

「さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!さあ!」


「何してるの!」

 不意に、先生の声がした。
「もう、こんなところに入っちゃダメでしょう」
「あ……先生」
 ちゃぽん、と小さな波紋を残して、ネコもどきはあっけなく、水の中に消えてしまった。あの半透明な身体なら、きっと隠れるのは簡単だろう。わたしはホッと溜息をつく。
「みんな教室で待ってるわよ。良い? 黙って、勝手に歩き回っちゃダメだからね?」
 次からは気をつけること、と先生はお茶目にウインクする。
「ま、気持ちはよく分かるけど。先生も昔はやんちゃしたから」
 プールから出る。
 廊下を歩く。
 教室へ向かう。
 さっきのアレが何だったのか。そもそも本当のコトだったのか。熱中症とか、白昼夢とか、何かそういうものだったのではなかったか……。
 分からない。
 わたしには、よく分からなかった。
 ネコもどきが何なのかも、何をいおうとしていたのかも。
「先生……喧嘩って良くないことですよね?」
 先生は「そうよ」と口にする。
 安心した。やっぱりそうだ。わたしは正しい。間違っていない。おかしいのは、あのネコもどきで。
 だから、忘れよう。
 あんな出来事は忘れよう。
 きっと、夢だったに違いないのだから。

 ……もっとも心の奥底で、わたしはアレが、夢ではないと確信してもいたのだけれど。

      二

「子供っぽい」

 隣の席に座る七菜香は、毎日のようにこう口にした。大抵は、クラスの男子に向けての言葉。三割くらいがわたしに向かって。そして最後の一割が、クラスの女子に対してだった。男子も女子も、だから当然、全員が全員彼女に好意的なワケではない。けれど案外――案外というのは、つまり、わたしの予想以上に――七菜香の人気は高かった。
 綺麗な顔立ちと、どこか大人っぽい振る舞いのおかげか。同年代として「嫌な奴」なんて思うより、むしろ憧れる気持ちの方が強かったのかも分からない。
「む、『子供っぽい』ってわたしのコト?」
「他にいないでしょ。ネコを追い掛けて勝手にプールに行っちゃうなんて……子供じゃない」
 普通なら、きっと怒ってもおかしくはない。けれど不思議に七菜香がいうと、憎めないというか、「ごもっとも」と納得したくなるというか、「お姉ちゃん」って感じがして頼りたくなるというか……。
 って、「お姉ちゃん」はわたしだろうに。こんなんじゃ、妹の実莉に顔向けできない。恐るべし、小学校。
「でも、今日は傘を忘れただけでしょ。別に『子供っぽい』っていうほどじゃないよ」
 窓の外にはどんよりとした灰色があって、空気に水の匂いが混じっている。登校中、こんなにはっきり雨の気配はなかったのに。裏切り者め。
「大人は、早起きをして、天気予報くらいチェックするのよ」
「でも、カエルの傘だよね」
 わたしはいう。いざ反撃。
「可愛いよねぇ、カエルの傘」
 七菜香は「うっ」と真っ赤になって、慌て傘を背中に隠した。
 緑の傘。
 カエル柄の。
「なあんだ、七菜香ちゃんも子供っぽいじゃん」
「う、うるさい! うるさい! うるさい!」
 うるさい、と何度も叫ぶ彼女の肩が、いつからか小刻みに震え始める。
「七菜香ちゃん……?」
「うるさい!」
 キッと鋭くこちらを睨む目。
 綺麗な目。
 細い目。
 充血した目。
 涙の浮かんだ、目。
 それを隠すように、机に突っ伏す。
「……あの……ごめん……」
 うるさい、という彼女の言葉に、もう先程までの激しさはなかった。
 何か悪いことをしただろうか?
 いつも「子供っぽい」なんていわれているから、ちょっと、いいすぎてしまったろうか?
 やがて、HRが始まっても、七菜香は伏したままだった。

     ※

 曇天は廻る。
 ぐるぐる、ぐるぐる。
 風に煽られ、雲が舞う。
 ぐるぐる、ぐるぐる。

「この詩は、中岡平公という人が、今から二十年前に書いたものです」
 先生の言葉をボウッと聞きつつ、わたしは今朝の光景を思い出す。

『あめ、ふりそーだよ』
『大丈夫だよ、要らないって。ほら、実莉ったら。一人で外に出ちゃダメでしょう。危ないんだから。転んじゃったらどうするの?』
『かさ、もってったほーがいーよ』
『だから、大丈夫だってば。それに、そんな子供っぽい傘、友達に笑われちゃうよ。……遅れちゃうから、お姉ちゃんもう行かないと』
 長靴と傘を持って、ヒヨコ印の三輪車をこぐ妹の格好。自分の猫柄の傘を持って、わたしによこそうとする妹の格好。

「充莉さーん、聞こえてますかー?」
「は……はい?」
 慌てて先生に目を向ける。教室のあちこちから、クスクスと笑い声が聞こえてくる。
 また、やっちゃった。
 ボウッとして注意されるのは、もう何度目かのことだった。もっとも、いつもとほんの少しだけ違うのは、隣の席から「子供っぽい」と声が聞こえてこないこと。机に突っ伏したまま、教科書だけは一応開いて……それでもやっぱり、黙っている。カエルの傘、好きだったんだろうか。大切な、モノだったんだろうか。
 ならわたしは……七菜香の大切なモノを、大切にできなかったんだ。
「続き、読んでくれますか?」
 授業は進む。時計は進み、時間も進む。曇天はやがて雨天に変わり、雨粒は徐々に大きくなった。「芸術都市」になるきっかけだった災害に学んで、この町のあちこちにはたくさんの排水設備が整っている。ちょっとした道脇に、あるいは石畳の地面の下に、雨水を流すための川がある。
 だから、問題はもっと小さい。
 詰まるところ差し迫った緊急事態は。
 わたしが風邪をひいてしまうかも知れないコトだ。

     三

 朝霧実莉は、幼かった。
 幼くて、純粋で、けなげだった。
 だから、自分の姉に傘を届けよう、とこう考えた。
 雨が降り始めたとき、母親は台所で家事に夢中だったから――だから、気がつけなかったのだ。
 娘が、家を出たことに。

 道はぬかるんでいる。
 三輪車は思うように進まない。
 雨脚は刻一刻と早まっていく。
 身を穿とうとする雨粒も、今は痛い。
 レインコートを羽織り、長靴を履いて、傘を持つ。
 およそ運動には不向きな格好。
 だから、ソレはきっと「運命」だった。
 どこかの地点で彼女は転ぶ。
 道端の水路とか池だとか、そういうところに、落ちてしまう。
 ただ、ほんの少しだけ、ボクの意図が介入しただけのことであって。

 通学途中の公園で、彼女は池に光を見る。
 そう深くない、景観のために作られた池。
 無数の水溜まりが細かな波紋を抱える中に、そこだけが鏡面のように静まっていた。
 彼女はそして。
 半透明の何かを――見た。

     四

「実莉がいないの」
 先生に連れられ、教室に入るなり、母はそう口にした。傘もレインコートも無しに、びしょ濡れのまま、口にした。この雨の中をずっと走ってきたのだろうか。息は荒い。汗なのか雨粒なのかも、よく分からない。
 放課後、教室に残っているのは二人だけ。わたしと、七菜香と。
「いないって……公園、とか?」
 いいながら、自分でもはっきり「違う」と思う。雨脚は、午前中とは比べものにならなくらい速くなった。こんな状況で外へ出るなんて、よほどのことがない限り、きっとありえないだろうから。
「三輪車と傘がないの。学校に来てるんじゃないかって。……来てない、のね」
 傘。
 猫柄の、傘。
 今朝のことを思い出す。傘を持っていくようにと、ヒヨコ印の三輪車をこぐ妹の姿。
 もしかすると――この雨は、「よほどのこと」なのかも知れなかった。
「ねえ、実莉って、あなたの妹?」
 不意に、七菜香が口を開く。
「なら、コレ持っていって」
 それは、傘だった。緑色の傘。カエルの、傘。
「私は、お母さんが迎えに来るから」
「ありがとう」
 わたしがいうと、
「別に」
 七菜香はそっぽを向いた。
「ごめんね」
 わたしがいうと、
「別に」
 やっぱりそっぽを向いたまま、こう応えるだけだった。

     ※

 雨は真横から身体を濡らした。走っているのだから当たり前かも知れないけれど。傘なんて全然、意味がない。それでも片手にさし続けたのは、七菜香の優しさが嬉しかったからだと思う。カエルの傘は、ピカピカで、新品みたいで、大事に使っているのだと、誰が見てもはっきり分かる。
「実莉! どこなの!」
 声を上げながら町を歩く。いつもは賑わう商店街も、車の多い通りにも、今はほとんどひと気がなかった。代わりにあるのは、石畳を薄く覆う雨水や、靴下を濡らす乱暴な飛沫。
 お母さんも、先生も――しばらくしてから、七菜香や七菜香のお母さんも、あちこちを探してくれているけれど。それでも、やっぱり見つからない。影がない。形もない。
「実莉! 実莉! 実莉!」
 喉が痛かった。カラカラだった。世界はこんなにも水で溢れているというのに、どうしてかわたしは乾いていた。焦りと不安が、べったりと心臓に貼り付いている。ナメクジみたいに、離れない。
 そうして。
 とうとう。
 三輪車が、見つかった。

「池は浅いし、中に落ちた様子はないわね」

 公園で、先生はぽつりと、口にする。
 倒れた実莉の三輪車。
 地面に転がった猫柄の傘。
 雨に打たれる、冷たい池。
 池の表面には無数の波紋が現れては消え、現れてはまた消える。

 どうしよう?

 頭の中が空っぽになる。
 目の前に横転したヒヨコ印の三輪車が、どうしてか実莉と重なって見えた。横たわる実莉。雨に濡れる実莉。
「どうして……何が……何があったの?」
 分からなかった。
 わたしには何も、分からなかった。
 自分の大切なものが……抱きしめていたはずの大切なものが、どうしてあっけなくどこかへ消えてしまうのだろう? 自分の目の届かないところに、なんだっていなくなってしまうのだろう?
 そんなのは、嘘だ。
 そんなのは、悲しすぎる。

「だって実莉は……大切な、わたしの妹」

 思い出した。それは入学したての頃に、アレが語ったことなんだ。
 世界の中心で居続けたいなら、闘って今の居場所を守れ、と。
 キミの思う「大切」が、正しく「大切」であるために、と。
 なんて――馬鹿。
 わたしは結局、何も分かっていなかったんだ。大切なものを誰かが大切にしてくれるような、そんな優しさはどこにもない。世界はわたしが思っているより、ずっと広くて、強くて、冷たくて――そして、酷い。
 もしも。
 もしも今、あのネコもどきに会えるのなら。
 きっと、「闘う」って応えるのにな――なんて。
 そう思った、瞬間。

「闘うんだね」

 声が聞こえた。いつかと同じ、耳の奥で響くような、不思議な声。
「うん。闘う」迷いはなかった。「魔法が使えるんだよね? ――なら、空を飛びたい。空からなら、見つけられるはずだから」
 もしかしたら……。
 もしかしたら、もう、ダメなのかも知れないけれど。
 それでも、探さなくっちゃいけないんだ。
 ネコもどきの声が聞こえる。
「お前の世界は今、喪うかどうかの瀬戸際だ。だから――」

 闘え。そして生きろ。

「キミを絶望させられるのは――世界で一人、キミだけだ」

 周囲の水溜りが、池が、突如のっぺりとした鏡面に変わる。飛沫も、波紋も、消えてしまう。
 そして。
 視界は光になった。

     五

 町は一面、灰色だった。カラフルな「芸術都市」の形をそのまま、ただ色だけが消えている。公園も、池も、周りにたたずむお母さんも先生も、七菜香もまた――灰色だ。
「時間が……」
 止まっている。
 誰も、ピクリとも動かない。
 コレが、魔法。
 ネコもどきのいった、魔法というものなのだろうか?
 静止した町。
 ただ雨だけが、変わることなく降り続けていた。
「何よ、この場所……って、アレ? 何なのよ、この格好!」
 どういうわけか、今まで着ていた服がない。代わりに自分の身体を覆うのは、赤やピンクに染められた、分厚い布地の服だった。ドレス……というには、少し控えめな感じがする。かといって普段着というには、ちょっと派手というか……子供っぽい。
「二つ目の質問にまずは応えよう。ズバリ、キミの身体を保護するためさ」
 中空から、ネコもどきが舞い降りる。半透明のその身体が、灰色の街並みを透かしていた。こんな風景に囲まれていると、自分だけ一人「色つき」なのが、居心地悪く感じられる。
「その服は特別製なんだ。学校の屋上くらいなら、落っこちたって、今なら平気で立ち上がれるよ」
 本当だろうか。確かに生地は厚いけれど、そんなに凄いモノには見えない。
「ともかく。キミはこれから、妹を取り戻しに行くんだろう?」
 そうだ。
 そうなんだ。
 わたしは妹を、探さなくっちゃいけないんだ。
「だったら、まずは勝たなくっちゃ」
「勝つ?」
「そう。闘って、勝たなくっちゃ」
 瞬間。
 町が鳴動した。
 遠く、ビルの合間から、学校の辺りから、商店街のど真ん中から、何かがぞろり、と姿を現す。まるで、木だ。ぐねぐねとその先端を揺らしながら、空高く、更に高くへと伸びていく。
「そう。木だよ」
「特別製の?」
「特別製の」
 木はある高度まで達すると、今度は横方向へ成長を始める。よく知る街並みが、ほんの僅かな変貌を見せた。いつもの風景に重なって、直立する無数の柱と、そこに乗っかる一本の「道」が完成する。ただそれだけのコトだけれど――でも、あまりに大きな変化だった。
「あの道……色がついている!」
「そうさ。キミはこれから、走るんだ」ネコもどきは、いうが速いか、足下に転がっていた実莉の三輪車に手を触れる。「あの道を、バイクに乗って!」
 ヒヨコ印の三輪車が、最初はうっすらと、そして急激に元の色を取り戻す。色だけじゃない。大きさが変わる。形が変わる。ヒヨコの意匠は白鳥へ変わり、翼を思わせるなめらかな流線が全体を覆った。
 ソレは、バイク。
 ただ「速く」と願われた機械。
「ルールは簡単。キミはレースに勝てば良い。そのマシンで、もう一人の女の子より、一秒でも早くゴールすれば――魔法が、キミの妹を見つけてくれる」
 マシンは空中を浮揚する。わたしはそれにまたがってみる。ハンドルの位置、ブレーキの位置、そのカタチの何もかもが、まるで自分のためだけに設計されているかのような――そんな、一体感。
「マシンは、キミの魂のカタチなんだ。それじゃ、そろそろ、一つ目の質問に応えようか」
 ネコもどきは、得意げな表情で口を開く。もちろん、ネコの表情なんて、わたしにはよく分からないけど。
 曰く。

「さあ――レースが始まるよ」

     ※

 バイクは浮揚し、何かに引っ張られるように、空中にできた先の「道」へと降り立った。アスファルトで舗装された、ありきたりな道路に見える。あちこちに、矢印だとか丸だとか、幾何学的な模様が蛍光塗料で描かれていた。それらがチカチカと瞬いて、少し、うるさい。
「わたし、運転なんてわかんないよ」
「大丈夫。ただ念じれば、勝手に動いてくれるのさ」
 マシンはキミの魂だから、と。
「来たみたいだ。キミの競争する相手だよ」
 雨の分厚いカーテンを透かして、遠くから光の粒が近づいてくる。
 重苦しいエンジン音。
 悲鳴にも似たブレーキ音。
 ソレは、深黒の機体だった。全体が鋭くて、尖っていて……強そうなのに、どこか辛そうな、そんなバイク。悲鳴を上げて、今にもバラバラに砕け散ってしまいそうな、そんなフォルム。
「お前が、相手?」
 黒い服を着た女の子が、目を細めてこちらを睨む。「怖い目」だ。何もかもを殺してしまおうとするような。けれど同時に、ソレはきっと、何もかもを怖がっているということだ。だから、「悲しい目」でもあるのだろう。どちらも結局、「全てが敵」であることの、表裏でしかないんだから。
 ネコもどきは、楽しげに宙をふわふわ飛んだ。
「キミ達はこれから、何度だって闘うことになるだろうね。大事なモノを取り戻したいのなら、その度、相手に勝つしかないんだ」
 わたしは隣に立つ彼女を見つめた。
 黒い服。怖い目、悲しい目。鋭いバイク。そして……。
「……怪我……してる……」
 足に一筋、太く血が伝っている。それが靴のちょうど真下で、小さな円を描いていた。ぽつり、ぽつり。少しずつソレは大きくなる。まるで心臓の音を聞いているよう。
 彼女はキッとこちらを睨んで、それからエンジンを一つ、吹かせた。
 時間の止まった、灰色の町。
 宙を舞う一本の道。
 全ては雨に濡れながら。
 ――今。

「Ready Go!」

 わたしは思い切り、マシンを駆った。

      六

 世界が高速で走り去る。前方から、背後へと。何もかもが、駆け抜けていく。
「速い!」
 凄く、速い。自転車なんかとは比べものにならないくらい、速かった。ビルも、一軒家も、商店も、高く掲げられた「道」からは遙か眼下に見下ろせる。それがとんでもないスピードで、後ろへ、後ろへと消えていった。
 雨は、強い。
 視界は、悪い。
 頬を叩く雨粒は、びっくりするくらい冷たかった。
「これが――魔法」
 信じられない。けれど、信じるしかない。だって実際、目の前にこうしてあるのだから。
 ならきっと、実莉を助けることだってできる。
 魔法は、何でもできるんだから。
 なら、わたしは。
 ただ、速く進めば良い。

「速く」

 と願って、アクセルを踏んだ。

「速く」

 と願って、アクセルを踏んだ。
 何度も繰り返し、マシンはただ先へと突き進み、風景はその流れを激しくし――。
 瞬間。
 タイヤが、つるり、とあっけなく滑った。
 道にあった微かな窪み。そこにできた水溜まりが、マシンの進行を狂わせる。
「嘘――!」
 世界はぐるり、と回転した。横転したバイクと共に、わたしは宙を飛ばされる。掲げられた「道」を外れ、遙か下へと落下する。この下は……そうだ。ちょうど、さっきと同じ公園だった。
 ぐしゃり、と衝撃が胸を穿つ。肺の空気が全部抜けて、内臓をねじられるような感覚がある。見回せば、お母さん、先生、七菜香……そして、池。
「……痛い」
 屋上から落ちても平気なんて、一体誰がいったのだろう。嘘つきだ。嘘っぱちだ。とんでもなく痛くって、とんでもなく苦しいじゃんか。
 遙か頭上、「道」の上を、真っ黒い機体が駆け抜けていく。よどみなく、ただ一定のスピードで。
 冷静に、冷淡に、冷徹に。
 凄いな、と素直に思った。少し考えれば分かること。スピードを出せば、滑りやすいに決まっている。けれどその「少し考える」というコトが、わたしにはできなかったんだから。
 雨が全身を濡らしていく。微細なノックが、全身をくまなく覆っている。
 ……あの子の大切なものは、何だろう。
 ふと、思った。あの子もやっぱり、何かが大切で、守りたくて、取り戻したくて、ここまでやって来たのだろうか。
「実莉……」
 わたしはお姉ちゃんなんだ。
 お姉ちゃんは、妹を守らないといけないんだ。
 見ればそばに、傘がある。三輪車がバイクに変えられてしまったとき、置いていかれた、猫柄の傘。実莉の、傘。妹の、傘。傘、傘、傘、傘……。
「物持ち、本当に良いんだもんなぁ」
 実莉の得意技は、「モノを大切にする」ことだった。幼稚園の自己紹介でも、公園で近所のおじさんにあったときも、いつだってそういっていた。
 本当のこと。
 実莉はモノを大切にする。いつ買ったのか忘れてしまうくらい昔のものさえ、大切に、大切に、びっくりするくらい使い続ける。
 この傘だって、やっぱり同じだ。わたしが昔買ってもらって、「子供っぽい」と気に入らなくって、それで実莉にあげたもの。そんないい加減なプレゼントなのに、あの子は「お姉ちゃんがくれたんだ」なんて、心底嬉しそうに持ち歩いて。
「雨なんて降らないのに、抱きかかえて公園に行ったことも」
 あったっけ。
 そういうやつなんだ。
 そういう、妹なんだ。
 だから。

「だから、行かないでよ――実莉!」

 傘が、光った。先のバイクと同じだった。最初はうっすらと、やがて急激にその色彩を取り戻していく。大きさを、カタチを変えた。ネコの意匠はそのままに、バイクの先端に鋭く伸びる角となる。そしてマシンは、エンジンを一つ吹かせると――わたしを乗せて、走り出す。
 マシンはわたしの魂だ。
 その意味が、やっと分かった。わたしは勝とうとするんじゃない。ただ、大切なモノを思うだけで良かったんだ。そうすれば、バイクは、きっと応えてくれる。
 速度を上げる。先端の角が、降り注ぐ雨を穿っていく。宙に浮かんだ雨粒を、地に横たわる水溜まりを、鋭く裂いて、弾き飛ばす。
 そこにはつかの間、乾いた道が現れた。
 わたしはただ、そこを突き進めば良いだけだった。
「早く――早く――早く――早く――」
「速く」進む必要はない。
 ただ「早く」、実莉を取り戻しさえ、すれば良い。
 世界は加速する。雨音も、エンジンの音色も、消えてしまう。過ぎていく風景はのっぺりとした灰一色に変化して、わたしは一人、前方にきらめく深黒の機体を睨めつけた。
 思うに。
 世界は、きっと優しくない。
 大切なものを、ちっとも大切にしてくれない。
 そんな「運命」を変えたいのなら。
 愛する何かを、正しく「大切なもの」にしたいのなら。

「妹を――実莉を、返せぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

 きっと、闘うしかないのだろう。

     ※

「負けたわ」
 バイクを降りて、素っ気なく彼女は口にする。真っ黒いバイクは主を失うと、背景へ溶け込むように姿を消した。
「足、大丈夫なの?」
「あなたには関係ない」
 ふわり、と頭上からネコもどきがやって来る。
「あれ……? あなた、色が違う」
 半透明だったその身体は、黒一色に染まっている。
「チガウワ」と、黒いネコもどきは甲高い声でこう応えた。「あたしハあなたノタントウジャナイ」
「そうそう。キミが探しているのはボクの方」
 頭にぴょん、と何かが飛び乗る。見れば、見知った半透明の姿だった。
「さよなら」
 黒服の女の子はわたしの方を一瞥し、ヨロヨロどこかへ歩いていく。その後ろを、付き従うように黒いネコもどきが飛んでいた。
「あなた、ワザトマケナカッタ?」
「別に」
「オカアサン、モウモドッテコナイカモヨ」
「別に……」
 何だろう、それは。
 どういうことだろう、それは。
 あまりに救いがなくって、あまりに悲しい言葉な気がした。
「待って!」
 考えるより先に、一歩足を踏み出していた。道を覆う雨水が、パシャリ、とだらしなく跳ねて足を濡らす。
「名前……名前、教えて」
 女の子はこちらを振り向き、「どうして?」と首を傾げる。
 その目が、冷たい。何もかもを殺そうとするような目ではなく、何もかもを恐れるような目でもない。ただ、冷たい。
「名前、教えてよ! あなたの、名前!」
 女の子の姿が、先のバイクと同じように、すぅっと背景に溶け込んでいく。輪郭がぼやけ、薄れ、消えていく。
 その、刹那。

「……清良」

 と、確かにこう聞こえた。

     七

 世界は全部、元通りだった。空高く伸びた「特別製の木」なんてなくて、もちろん「道」もやっぱりなくて。服だっていつの間にか元通りだし、時間だって動いてるし。そしてついでに、雨さえも、すました様子でやんでいた。
 遠く、夕焼けが、カラフルな街並みをオレンジ一色に染め上げる。
「夢、みたい」
 何もかもが終わったのだ、とわたしはホッと息をついた。
「夢じゃないよ。その証拠に――」
 ネコもどきは、わたしの手の平を指さした。
 分かっている。
 気がついている。
 そこには、一枚の鍵が残っている。
 半透明の、冷たい鍵。ガラスでも、水晶でもない。ソレはきっとバイクを動かす鍵であり――同時に、わたしの魂のカタチなんだと、何となくそう思った。

「充莉! おうい、充莉!」

 遠く、七菜香が手を振っている。泣きそうなくらいの笑みを浮かべて。
 実莉がやっと、見つかったらしい。
「さてと。充莉、ひとまずキミの世界は安泰だ。おめでとう、といっておくよ。キミは何も奪われず、つまり大切なものを守ったんだ。『大切なもの』を正しく『大切なもの』にしてみせたんだ」
 けれど、とまだ言葉は続く。
「けれど、これで終わりじゃ、もちろんない。そうだね……一年に一度くらいは、今日みたいに誰かと闘わなくっちゃいけないだろう」
 闘う。
 また、闘う。
 誰かと闘って、勝って、負けて。
「あの子、どうしてるかな?」
 ネコもどきは、嫌らしそうな笑みを浮かべた。そりゃ、ネコの表情なんてわたしには全然分からないけど。
「同情は禁物だよ。キミだって、次は負けるかも知れないんだ。守りたいなら、闘うしかない。生きたいなら、勝つしかない。それができないのなら、キミがキミ自身を絶望させる以外に道はないさ」

 風が、温かかった。
 やがて七菜香に連れられて、ヒョコヒョコと実莉が歩いてくる。
 その日。
 世界は、いつにも増して優しく見えた。

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