VTuberは「本当の私」の夢を見るか?

今週気づいたこと
(今週気づいたこと、というのは伊集院光深夜の馬鹿力のジングル前フリートークの出だしに言う定型文です)
(もう少しnoteの更新頻度を上げることにしました)
(Xに書くには長すぎる、小説に落とし込むにはまだ詰めきれていないものを、通勤電車などの隙間時間で書きます)
(目標は週一です)

 私はリモートワーク中にサブディスプレイでYouTubeを流していて、すでに自分がクリアしているので集中してみる必要がないゲーム配信(今だとAC6)や、比較的雑談が多い配信をほぼ耳だけで聞いている。
 声だけの配信者もいるし、実写の配信者もいるけど、今はVTuberの配信がやはり多い。
 私が誰を聞いているかの具体名はともかく(ザッピングみたいに今リアルタイムで配信している人を適当に見たりもする)、VTuberのアバター(以降、ガワと呼ぶ)は本人の希望によって作られるものがほとんどだ。ガワが先にあり、企業が魂募集(魂など本当は存在しない!)として採用するパターンもあるが、それでも配信者には「そのガワに応募するという意思」があるので、やはり自ら選ぶことになる。
 本人の能力や発注資金により制約を受けることはあっても、そのガワは自分で選んだものだから、自分がこうありたい、という願望が混ざる。
 それは基底現実(こちら側)では完全にはなしえないものであり、もしかしたら「本当の私」に近い存在かもしれない。そうだとすると、「私」がどちらに属しているべきなのか、自由なのはどちらなのか、と考えると基底現実が「骨と肉と皮といくつかの雑多なもの」であり、VTuberの姿が純化された「私」なのだろうか。
 私は「より私らしい私」がVTuberのガワとその活動であると本人が思っているとしたら、そう「選択した意思」を尊重したいと思う。
 人前に出る以上なんらかのセーブがかかるし、自分で設定したキャラクタを演じることもあるので「完全な私」ではなくペルソナ的なものであるというのは確かに前提としてはあるのだろうが。
 いずれVRが進歩して、姿や声も遅延なく自由に表現できるようになったら、現実の「私」が不要になって、自分で選択した姿形を持つVRが「本当の私」になるのかもしれない。それはたぶんいくつかの問題が出てくるだろうが、現実の「私」に不満がある場合は福音となるだろう。
 VTuberで生計を立てることは難しいし、それを何十年も継続するのは更に難しいとは思うが、家にいながら自分をさらけ出しつつ生きていけるというのはとてもよいことだと思っている。(生活をするための選択肢は多ければ多いほどいいので)
 また、VTuberが他企業とコラボすることに拒否感を持つ人がいるのもわからないでもないが、これは結局中の魂(魂など存在しない!)の素行の問題であるように思うので、時間が経てば洗練されていくだろう。あるいは全人類がVTuberになって意識もされなくなるかもしれないが。
 かつてVTuberはキャラクタを演じきることがよしとされたが、今は「普通の人」が「普通にガワ」を使い活動しているので、2024年の雑感はこんな感じ。

ところで「〜は〜の夢を見るか?」は「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」のパロディであり、しばしば多用されるけどどれだけの人が元の本を読んでいるのだろうか。ブレードランナーを観た人のほうが多いのではないか?

30分で書けるのはここまで。


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