よくわかる均衡理論の歴史(3):解の一意性と安定性
この部分が一番知られてない気がするんだよな、均衡理論……
さて、続き物記事です。過去記事はこちら。
この(1)で述べたように、ワルラスがなんで「均衡価格は最終的に実現する」と考えたかというと、部分均衡市場での安定性を論じ、次にそれを何度も繰り返すって手順で均衡価格に収斂する手順を考えていたわけだ。それは非常に原始的だったけど、とにかく「均衡価格を競売人が実現できるプロセス」の存在は、理論の説得力にとって不可欠だった。この理論は均衡の存在が証明できるようになった1950年代になるとだいぶ洗練されて、部分均衡で考えていたワルラス安定の考え方を微分方程式で定式化し直す、いわゆる「模索過程」が議論されるようになった。
模索過程の安定性はそれ自体重要だったけど、それ以上に副産物が大きかった。というのは、均衡価格が模索過程について大域安定なら、そこから自動的に均衡価格が定数倍を除いてひとつしかないことが示されるからだ。均衡価格の一意性は、つまりモデルの予測可能性を意味している。さらにそれに加えて、計算しにくい均衡価格を、模索過程の解の計算を通じてあっさり近似計算できるので、モデルの実用性という意味でもすごく重要だった。
で、Arrow, Block, and Hurwicz (1959)と呼ばれる論文が出ることになる。彼らは、「超過需要関数の粗代替性」という仮定を置くことによって、この模索過程の大域安定性が示せることを証明した。ところがこの、一見するといい結果を巡って、均衡の存在定理では共著していたアローとドブリューが大げんかするんだ。理由は未だにはっきりしていない。ただ、アロー=ブロック=ハーヴィッチ論文で置かれていた「超過需要関数の粗代替性」という概念についての論争だったことは間違いない。
ドブリューはどうも、超過需要関数に上から仮定を置くこと自体に忌避感があったようで、もっとプリミティヴに人々の効用などに仮定を置いて、対応する超過需要関数が条件を満たすことを示す必要があると感じていた、という説を聞いたことがある。けどこれ、裏が取れないんだよなあ。僕が知ってる限り、Debreu (1972)では均衡の一意性のための仮定を``exceedingly strong''と言ってて、この言い方からは上の話だけじゃない強い拒絶の意思を感じる。
で、1974年。J. Math. Econ創刊号に、有名なDebreu (1974)が載るわけだ。後の世に「ソンネンシャイン=マンテル=ドブリューの定理」と言われるこの定理は、ワルラス法則を満たす基本単体上のどんな連続関数でも、定義域の端を除いてまったく完全に超過需要関数がそれと一致する「経済」を作れる(ただし、財空間の次元より人間の数が多いという条件付きで)という定理だった。ウリゾーンの補題から、基本単体上のどんなコンパクト集合に対してもそれを零点集合にする連続関数が作れるので、これは均衡価格の集合について、その当時基本となっていた仮定だけからでは、どうやっても一意性も安定性も示せない、ということを意味する。
アロー側はこれに反論するべきだったが、残念ながらドブリューが「経済」に仮定した条件に付け加えて超過需要関数の粗代替性を保証できるような、経済のプリミティブに関するうまい仮定を思いつくことは結局できなかった。ここで模索過程の議論はいったん途切れることになる。「非模索過程」という、取引を続けながら価格も動いていく理論もあるんだけど、これも1970年代にちょっとだけ流行ってそれ以降廃れた感じがある。
均衡の一意性については、たぶん次の記事で書くことになるだろう正則経済の理論で部分的に復活していて、マスコレルがかなり詳細にレポートしてる。彼によると、超過需要関数に弱公理が成り立てば均衡価格の集合は凸集合になり、よって正則経済だと必ず均衡価格はひとつになる。一方で弱公理が成り立たない場合、生産技術としての閉錐をうまいこと作ることで、必ず均衡の一意性を壊すことができる。だから結局超過需要関数の弱公理が重要なのだって話なのだが、これは粗代替性を仮定していたアロー=ブロック=ハーヴィッチの時代とほとんどなにも変わっていない。少し詳しくはなったけど、結局超過需要関数の弱公理が保証されるプリミティブな経済の条件(つまり、効用関数の条件)が、まったくわかってないからだ。
というわけでここ、ものごっつい未解決問題なんだけど、ここでさらにひとつ追加すると、アロー=ブロック=ハーヴィッチはこの問題を考えるときに模索過程を表す方程式を微分方程式として書いたってことが若干問題で、というのは均衡の存在を示すときには、需要関数は普通、一価ではなく多価写像なのだ。多価写像に対する微分方程式は微分包含式(differential inclusion)と呼ばれていて、その理論は1970年代後半から発達し始めるが、ちょうど模索過程が経済学で研究されなくなったタイミングから隆盛しているので、たぶん均衡の存在と同じセットアップでの多価微分包含式としての模索過程の分析は誰もやってねえんじゃないかな……
で、均衡の一意性をあきらめて、模索過程の安定性もあきらめて、それでもまだ均衡理論に正当性は見いだせるのか? 次回、これについて書きます。正則経済の季節です。
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