ケンブリッジvsケンブリッジ『資本のK』論争についての覚え書き

 過去記事にコメントいただきました。

『ケンブリッジ資本論争について解説記事を』という、うーん……難しいオーダーをされてしまった。
 いや、コメント返しもしたけど、僕この論争については当事者の一方側の立場の人から又聞きした話しか知らないのよ。その人は慶応を出てサミュエルソンを指導教授として学位取って帰ってきた人なんで、いわゆるケンブリッジ対ケンブリッジの中ではハーバード+MIT側の立場のコメントと見なさざるを得ない。イギリスのケンブリッジ側の代弁をしてくれる人のコメントを聞いたことがないんだよね。
 なので、まずこの記事については、「客観的に僕が見知っていること」「結果的にどうなったのかということ」「どうしてそうなったかについての僕の見解」を、きっちり分けて書くことにしたいと思います。

1)客観的に僕が見知っていること

 この論争については、ソローモデルがきっかけだったという話を聞いている。ソローモデルは資本蓄積Kについての簡単な微分方程式のモデルである……と書いてから、ちょっと原論文読んでないことに気がついた。いますぐ確認してきます。(数分後)はい、微分方程式でした。差分じゃなかった。ここに出てくる変数はKとLとYで、Lは労働人口でこれはマルサス的に爆発することが想定されている。Yは「唯一の財の生産量」という形で説明されている。Kは資本蓄積で、資本蓄積と労働人口から機械的に生産量が決まる。そして生産量のうち一定倍だけ資本蓄積への増加分(投資)に回され(ここで投資=貯蓄というIS関係が使われている)、残りは消費されるというわけだが、ソローモデルでは貯蓄率一定なので消費がもたらす効用などの議論は一切ない。
 これが載っている雑誌はQJE、つまりハーバードの紀要だ。で、この論文の資本蓄積Kに対してケンブリッジのジョーン・ロビンソンが噛みついて……といういきさつを聞いていたんだけれど、いま検索して軽く調べたらロビンソンがKについて批判したのは1953年か54年だという。聞いてた話と違う! とはいえ、集計量を使って議論するモデル自体はRamsey (1928)がすでにあるわけで、もしかするとロビンソンは当初、ラムゼイモデルを念頭に置いて批判していたのかもしれない。あるいは、ソローが論文にする前に学会報告などをしていたのを聞いて反発した可能性もあるけれど、それ以上詳しいことはわからなかった。
 慶応の古い先生から話を聞いたところでは、ロビンソンの資本のK嫌いはかなり徹底していたらしく、川又邦雄先生が彼女の前で研究報告してコンパクト集合にKの字を使ったら怒られたとかいう笑える話も聞いている。どこが気に入らなかったのかについては、実はいまいちわかっていない。ロビンソンは資本を単一財に集約することで議論できなくなるような問題を複数挙げていたらしいが、本当にそれが彼女の問題意識の核心だったのかについてはちょっとよくわからない。

https://www.waseda.jp/fpse/winpec/assets/uploads/2014/07/WP2010.pdf

 ネットで調べたら上のPDFファイルに行き当たったが、正直、どこまで正しいかはちょっとよくわからない。とはいえ、とりあえず上の文章の通り、サミュエルソンが一時期ある程度この問題を重視し、ロビンソンの問題意識に回答しようとしていたのは事実らしい。しかし、それは1970年頃を最後に終わってしまう。
 上のPDFファイルはサミュエルソンが回答を放棄したことからロビンソンの勝利みたいな言及をしているが、ちょうどその頃ケンブリッジに行って論争に巻き込まれたと言っていた福岡正夫先生は逆の見解だった。つまり、サミュエルソンの勝ちだという話だった。なぜそうなのかについてもっと聞きたかったが、残念ながらその機会は得られなかった。ここでは事実だけを抜き取りたいので僕が推測する理由は書かないでおきたい。ほぼ確定的な事実と言えることは、ロビンソンサイドもMIT側もお互いの勝利を確信していたということだろうか。これ以上のことは僕にはわからない。

2)その結果、何が起こったか

 はい。これは簡単ですね。いまの経済学は大きくマクロとミクロに分かれ、マクロは集計量を扱い、ミクロは集計しない量を扱う。そしてマクロ経済学の上級テキストは、ローマーだろうと、ブランチャード=フィッシャーだろうと、アセモグルだろうと、バロー=サラ-イ-マーティンだろうと、どの本でもソローモデルあるいはラムゼイモデルを扱い、一方でロビンソンやスラッファの資本理論は「一切扱われていない」。つまり、この論争は結果としては「なかったことになった」のだ。
 どちらが勝ったかということを僕が判定するならば、サミュエルソン側が勝ったのだろうと思う。サミュエルソンがこの問題に言及しなくなったのは、単純に言及するだけの価値を持たなくなったから、つまりわざわざムキになってロビンソンを批判しなくても、ソローモデルやその後継者は十分に力を持った理論として既に有名になっていて、一方でロビンソンのフォロワーは少なかったから、だったらスルーでいいやとなったんじゃないかというのが、僕の推測である。実際、今でもロビンソンの研究者やスラッフィアンと言われる人たちはいるが、少なくとも主流派ではないし、人気があるトピックスとも言えない。悪い見方をすれば、ロビンソンの議論は多数派によって押しつぶされた。もう少し穏当な見方をすれば、ロビンソンの議論は多くの経済学者が魅力を感じるほどのものではなかったため、黙殺されたのだと思われる。
 ちょっとこの点補足しておく。サミュエルソン、こんな議論以外にすさまじい量の業績があって、たとえば顕示選好理論も彼がやり始めたし、OLGモデルを使った貨幣の価値の理論は「現代的貨幣理論」の創始であるとともに「OLGモデル」の創始でもある。他、ターンパイク定理も彼が作ったものだし、公共財という概念を議論しだしたのも彼。もちろん他にもサミュエルソンの名前がある分野はめちゃくちゃ多い。どっかのweb記事で、1973年のスタグフレーションで新古典派綜合の方向性が破綻したからサミュエルソンは敗北者になったみたいなことが書かれていたが、とんでもない! あれの影響を受けてない分野を探すためには、ゲーム理論から漁らないと無理だろう(サミュエルソンはゲーム理論大嫌い。これは有名)。
 そんなわけで、サミュエルソンがこの問題について深入りしなくなった理由は、「他に仕事がありすぎてロビンソンどころではなくなった」という風に、僕には見えるんだよね。その意味で、ロビンソンやスラッファの後継者がしてる勝利宣言は額面通り受け取れないなあというのが正直な感想。

3)なぜこうなったのかについての僕の見解

 率直に言って、ロビンソンがこの問題を重視する際にどういう哲学で議論していたのか、僕にはよくわからない。実はここが問題で、当事の経済学者もわかってなかったんじゃないか。もっとはっきり言うと、「なにが言いたいんだこいつ」という目で周りから見られていたんじゃないかというのが僕の見解である。
 これ、実はこの前べつの研究者と議論になって、正確であるかはわからないんだけれど、近年の経済学のモデル研究は「道具主義」という哲学的立場に極めて親和性が高い傾向がある。

 一応wikipediaの記事ぺたり。この道具主義というのを僕の言葉で説明すると、「数理モデルは現実を人間が計算するために使う道具以上のものではない」というものだ。たとえば一般相対性理論でほとんどのマクロ的な物理現象は説明できるけれど、それは「物体の動きは一般相対性理論に従う」のではなく、「一般相対性理論を用いて物体の動きを説明/予測できる」というところまでしか認めない。もっと露骨に言うと、「神は一般相対性理論に従うように世界を設計した」という文章から「神は」を取り除いた、「一般相対性理論に従うように世界は設計されている」という文章(『神』がない分、一応は科学的言明っぽく見える)を『認めない』のが、道具主義という哲学的スタイルの特徴である。
 で、経済学はこの傾向がすさまじく強く、モデルというのは現象を分析するための「道具」以上のものとは考えていない傾向がある。したがって、「違う現象を/違う目的で」分析する場合には、「違うモデルを使ってよい」のだ。「不況における短期的な処方箋を求めるならIS-LMモデルでよいが、長期的な政策を議論するならルーカス批判に答えられる程度に頑健なモデルが必要」なんて言葉は典型的だ。もちろん年金を議論するならOLGを、価格決定を議論するなら一般均衡理論を、最適な公共政策ルールを議論するならメカニズム・デザイン理論を、費用分担のモデルなら協力ゲーム理論を……と、なんでもいいわけだ。
 これをロビンソンの資本のKに対する批判に当てはめると、こうなる。「資本蓄積を単一の量として扱うと現実の資本と食い違いが~」「じゃあそれが重要になるときだけ違うモデル使えば?」ということになるわけだ。
 もうちょっと深掘りしておく。GDPという概念は紆余曲折を経て1950年ごろに出てきた概念なのだが、GDPを始めとした集計量を使ってお手軽に経済政策についてのインプリケーションを引きだそう、ということをできるようになったのはそれから先で、それによって生まれたのがマクロ経済学という分野である。この集計量を使うという操作を許した結果、マクロ経済モデルはそれまでよく使われていた一般均衡モデルよりはるかにお手軽に、多くの、重要な政策的インプリケーションを手に入れることができるようになった。もちろん、ラムゼイモデルやRBC、DSGEのような典型的なマクロ経済モデルを扱うと、たとえば所得格差についての重要な問題なんかは議論できない。だがそれならそれはべつのモデルを使えばいいんじゃないの、というのが、道具主義から来る帰結になるわけである。マクロ経済モデルは汎用性を捨てて利便性を選んだのだ。
 で、ソローモデルなどをこういう目で見ると、「ロビンソンはなにを言いたかったの?」という話に戻ってくる。つまり、ロビンソンの言うとおり現実の資本は多様な種類があってそれはKでは表せない。だがそれは重要なのか? ソローモデルやラムゼイモデルを使って多くの政策インプリケーションが得られることと比べて、そんなに重要なのか? そもそもマクロ経済モデルは実用のために汎用性を捨てたモデルなのに、汎用性がないことを批判するのはなにが目的なのか? 僕の予測だが、ロビンソンやスラッファはこれに答えられなかったのだ。そして、その結果、多くの経済学者(サミュエルソン含む)は「もういいやこの論争は」となって、議論をやめたのだと思う。
 結局、もしスラッフィアンとかポストケインジアンといった人間が主流に返り咲きたいなら、ここをどうにかしないとどうにもならないんじゃないかね。つまり、いまのマクロ動学モデルを使っていると致命的な不具合が出るような例をきちんと提示できてないから、じゃあいいですってなって無視されてるんじゃないだろうか。結果的に内輪で勝利宣言を繰り返しているようじゃどうにもならんよ。
 とまあ、以上が僕の所感でした。

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