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チロルとポルノ

晴天の霹靂から一転、東京は豪雨
ミッドタウンは東京タワーが近いから
雷の音が近いのかな、と友人に連絡したら
池尻も雷すごいよと躱されてしまった
都内はどこも悪天候らしい
東京タワーが巨大な避雷針であるというのは嘘だったのかもしれない

雨の中を傘さす人たちをみおろして
無性にクリープハイプを聴きたくなった
こういう雨の日は東京以外のことを思い出す
雨の記憶はたしかに、上京する前の方が多い
学生の頃はよくびしょ濡れになっていたからな気がする
東京には雨宿りできるとこが多いけど
わたしの故郷は交通網が発達した都会じゃなかったので
駅とか地下鉄とか、公共の場で雨宿りできる空間が少なかった
バスを待ったり親の迎えを待ったりする間に
よくびしょ濡れになってこの世の終わりみたいな気持ちになっていた

惨めだった気がする
昔は

どうしてだかそういう記憶の方が、鮮明に覚えているし
こういう時にふと雨のじとっとした匂いとか濡れた靴下の先とか
些細なことがトリガーとなって昔の気持ちが引き出される

昔のことを思い出して
たまに迷子になる
わたしは今どこにいるんだろう

さいきんまで羊文学が好きだった
ちょうど2年前の大晦日は
ソーダ水ばかり聴いていた
年末年始の澄んだ空気がとても好きだった
昔江國香織のエッセイで
年末の東京は人が少ないので
空気が綺麗な気がする、というような
一遍を読んだのを思い出して
ソーダ水ばかり聴いていた
からだじゅうがいっぱいになって心をことばにしなくちゃ

さいきんは羊文学を聴いて、自分は何をしてるんだろう
と落ち込んでしまう

自分が恵まれていない、というのはそれはそれで烏滸がましいけど
さらに生育環境に恵まれた人を見て
諦めに近いような気持ちになってしまう
東京のまんなかの方は、すでにエリート再生産のループ3周目くらいに突入している
ハイソサエティは優性遺伝だけを残すようになる
わたしは大学までは自力で努力したつもりだったけど
エリートの再生産はスタートが違いすぎる
おんなじ努力の量でも、生まれた時点で100mくらスタートが違うことに
なりふり構わず走ったら努力は報われる、と思っていたところで気がついたので
これまでの全てがばかばかしくなってしまった

努力しておんなじ場所に立てても、標準装備で与えられた文化資本が違う
闘い続けるのがいづれしんどくなるだろうということが虚しくて、諦めてしまったのだ

小学生の時に華胥の幽夢という本を読んだ
あるべき国の姿を見せるという国宝の枝を使った王が
枝の見せる国のとおりに国政を進めるほど、国は悪い方向に進んでしまう
結局王は自殺するか、弟に殺されるかという結末だったのだけど
その枝はあるべき国の姿ではなく、枝を使って夢を見た者にとって理想の国を見せるという代物だったというオチだった

傑物とされた王は、自分のように優秀な者しか存在しない国を望んだ
弱者も貧者も存在しない理想の国
彼にとっては美しいかもしれないけど
弱者からしたらどうだろう
この話を思い出すたびにパノプティコンが脳裏によぎる
弱者の居場所のない世界

“あの子は貴族”で東京の養分という言葉が出てくるけど
税金を搾取されるという単純な意味ではない気がしてきている

親世代の努力の量で到達できたことが
今はとんでもない天才か容姿に恵まれているか、奇跡でも起きない限り
到達できないくらいのハードルになっている気がする

わたしはお金を稼げる人は
頭がいいか
容姿がいいか
性格が悪いか
だと思っていて
自分は上の二つには該当しないし、さいごのひとつになり切れるほど根性もないので
エリート再生産の輪の中には入れないんだろうなと思っている

日本の真ん中は東京で、東京のまんなかはもう限られた層しか生きることが許されていない

雨の日は息苦しくなる

通り雨わたしを濡らしては
という歌詞で、
すこしは惨めで生きて行くのが不安な気持ちが洗い流されるような気がする

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