平和のかけら#1 クライシス・キーパー
「全然イメージが湧かないですよ」
「何だよ、デリル。藪から棒に……」
「出身は海兵隊なんでしたよね」
「ああ、そうだとも海兵魂は永遠だ」
州境の片面三車線の大通りはいつもよりも車通りが少なく車内にいる二人の雑談に花が咲いていた。
彼の言葉からは嘘をついているとは考えられなかったが、まったく想像できなかった。ブートキャンプで怒鳴られ、しごかれているイメージしか湧いてこない。鬼教官にゴムボールとでもあだ名がつけられていたのではないかと想像を膨らませる。今度写真でも見せてもらうか。そう考え、デリルは相槌を打った。
「おい」
助手席のシュミットが声色を変え、車内の空気を切り替えた。ピリつく車内に少し身震いした。雑談をしていたが今はパトロール中だとデリルは再認識する。ハンドルを握り直し、彼に問いかけた。
「何です?」
「あの車、怪しくないか?」
パトカーを追い抜くセダンを指で追った。州境の広い道路は車通りも多くハイウェイのジャンクションもある。よく大きな荷台を引っ張っているコンボイも走る。標識は四十五マイルと記載されていた。デリル達も一マイル越しただけなんてそんな厳しくは取り締まっていない。
「レンタカーか? ハイウェイが終わっているの気づいていない? ってその後ろからも⁈」
デリルは疑う様に言い放った。その後ろから大きなSUVが追うようにパトカーを追い越した。
「ただ事じゃないぞ。追え!」
交通事故が起きたら大惨事だ。すぐさまCNNやABCのヘリコプターが飛んでくる。なぜ防げなかったのかなどキャスターではなくSNSでバッシングを受ける。そうじゃなくても最近は警察への風当たりが酷いっていうのに。
「了解」
パトランプを回転させ一秒でも聞けば緊急だと分かるサイレンを鳴り響かせる。
長い一日になるぞ……シュミットは加速するパトカーの中、小さく呟きシートに座り直
した。
1
バックミラーを上に傾け下に傾け、デリルは、いつもの定位置の微調整にこだわっていた。ふと腕時計のデジタル数字が目に入る。
「五分前……」
デリルは誰も座っていない助手席に目を向ける。ハンドルに両手をかけ、人差し指でドラムの真似事をし冷静を保とうとしていた。
「シュミットさん。また……」
パトカーの扉が開く。開いた扉の方へ視線を移すと紙袋を持った巨漢が一拍置き、車内へ乗り込んだ。
「すまん、きょうは何かと混んでいてな」
勢いよく閉めたドアは外気を思い切り車内へ入れた。新鮮な涼しい風と共に甘ったるいドーナツと紙袋の匂いが鼻腔を刺す。顔を見なくても誰が乗ってくるか分かるぐらいのトレードスメルだった。彼の太い腕には前職で入れた鷲のタトゥーが刻まれ、場違いな可愛いドーナツ屋のロゴが印刷された紙袋を抱えていた。
「他の言い訳を考えてみたらどうですか?」
デリルの注意をもろともせず、その育て上げた巨漢を助手席にはめ込んだ。彼がシートベルトを締めると同時にデリルはエンジンを掛ける。ハンドル下の鍵に手を伸ばした。ダッジチャージャーの独特なエンジン音が嘶く(いななく)。アクセルを踏み、気持ちの良い加速で慣れた手付きで車道へ出た。
「ギリギリは駄目だって初等(エレメンタリー)学校(スクール)で習いませんでした?」
「間に合っているなら大丈夫だな」
何食わぬ顔で紙袋に手を入れる。彼は、おもむろにジェリードーナツを出し一口頬張った。口の周りに付いた粉砂糖をポロポロと落としながら咀嚼する。
「掃除大変なんですから少しは気を付けて食べてください」
シュミットを横目に見ながら注意する。彼は気にせずに手に付いた粉砂糖を舐めている。
「なに言っているんだ。俺の仕事はこのドーナッツを食べる事さ。それも豪快に。じゃなきゃドーナツ屋のボブに失礼だろう?」
「また始まったよ……」
俺の仕事は町の平和を守る。そう言ってくれればどれだけ恰好がいいか……いつからこうなっちまったんだ。デリルは不満を溜息に変換し、アクセルを踏み込んだ。
皮肉にもこの田舎町が平和すぎるのが良くないのかもしれない。ドラマの様なアクションも無い。それに起きたとしても俺たちの様な階級はモブの事が多いしな。
「デリル、もう少し和やかな顔をしたらどうだ。眉間にしわが寄ってるぞ」
「何を言っているんですか。犯罪を見逃さないためによく目を凝らしているんです。それに俺はSWATを目指しているんです。そんな中途半端な気持ちだとテストにも弾かれます。教官はいつだって落第のスタンプを押せるんだ。気なんか抜けませんよ」
デリルは呑気なシュミットへ力説した。
「SWATね……そう言えば入りたての時も言っていたな。だったらなおさら少し肩の力を抜け。それじゃあ変に冤罪を生むだけだ。そう言う所も見ているんだぞ」
彼の言う事は一理ある。デリルは一呼吸置きハンドルを握り直した。
「分かりましたよ。でもドーナツの粉は外で払ってくださいよ。階級なんて関係ありません、あなたに掃除してもらいますから」
「ほんとおっかないんだから」
はい、はい。と面倒臭そうにシュミットは返事をし眉間にしわを寄せる。
「そこだ、止めてくれ」
彼が指示を出し、広い公園の路肩に停車させる。平日の午前中、若者や子ども連れはおらず健康志向な高齢者が散歩やヨガをしていた。
「ドーナツを食べ終わったらまた始めますよ。自分はあそこのワゴンでコーヒーを買って来るんで」
デリルはドアをゆっくりと開けた。眩しい日差しで思わずサングラスを掛けながらドアを閉めた。一方シュミットは、しまい込んだ身体を揺らしながら車外へ這い出た。車両から降りた二人は、それぞれ別方向へ足を進める。
シュミットは老人が座っているベンチへ向かう。アジア系の顔立ちの老人へ軽く会釈で挨拶をしていた。老人の顔はしわが深く入っている。シュミットを見ると、より目元のしわが深くなった。
デリルはワゴンの店員である若い男性に人差し指を立てる。二ドル五十セントのコーヒーを買い、啜りながらパトカーへ戻り、コーヒーを屋根に置き車両へ寄りかかった。
あの二人が何を話しているか分からない。入りたての頃、よく聞いていたが本当に世間話だ。今の大統領がどうだとかベトナムは地獄だったとかの昔話、事件性のある事は特に無い。
シュミット曰くこの交流が大切だと言っていた。確かに地域住民との交流は大切だと思うがこれはたんに暇つぶしだ。彼ももう五十そこら、上は目を瞑っているがこれじゃ俺のSWATへの道も断たれてしまう。
「シュミットさん、どうですか? そろそろいいですよね。パトロールに戻りますよ」
彼を呼ぶためにデリルはベンチへ向かった。
「あぶない!」
少し遠くから女性の声が耳に届くが回避には繋がらなかった。ふくらはぎ部分に軽い衝撃が走る。デリルは何事かと探す為周りを見渡した。足元に幼女が転んでいる。
「ごめん、大丈夫?」
デリルは転んだ幼女の容体を確認する。下は芝生だった為、怪我はしていない様子だった。弱々しい幼女の声はデリルの心配をよそに手元で何かを探していた。
「私の杖は?」
彼女を立たせる為、脇へ手を伸ばし持ち上げ立たせる。
「これ?」
デリルは開いた右手にその杖を握らせた。
「すみません、ほらマリー謝りなさい」
母親らしき女性が息せき切って走ってきた。彼女は近場に住んでいるのか薄手のパーカーを着ている。
「お母さんですか? すみません。こっちも注意をしていなくて」
「そんなのいいんです。この子、目が弱いのに走るんですよ。危ないからって言うんですけど。ほらお巡りさんに謝りなさい」
「お巡りさん?」
マリーは疑うように見上げる。
「そうだよ」
デリルは安心させる様に頷いた。
「最近ね、近くにね、沢山引っ越してきたんだよ。それもね、英語じゃない人がガシャンガシャンって」
母親はため息交じりでマリーの頭を撫でる。
「この子ってば、目の代わりに耳がいいみたいなんです。道挟んだ向かいに出稼ぎなのか、分からないけど複数人が引っ越してきて……」
「そうですか。何かあったら、いつでも連絡して来てください。一応住所もここに書いてください」
「いいんですか?」
「もちろんです」
デリルは尻のポケットから手帳を出し新しいページを開き、マリーの母親に住所を書いてもらった。
「ジェニファー通り……巡回場所に加えておきます。それじゃあ、マリーちゃんお母さんのいう事を聞くんだよ」
「うん!」
彼女は無邪気な笑顔と共に返事をする。デリルは彼女の頭にポンと手を置いて別れを告げた。
ベンチの方を見るとシュミットの手には丸められた紙袋を弄んでいた。彼をパトカーに呼び戻す。文句を言うシュミットをパトカーに押し込んだ。二人はシートベルトを付け、デリルはアクセルを踏み込んだ。
「朝食も済ませた事だし、シュミットさんパトロールに本腰を入れてくださいよ」
「よかったな俺がイギリス人じゃなくて、彼らなら今頃ティーブレークを始める頃合いだ」
「何を言っているんですか? 中世のおとぎ話ではないんですよ。大西洋渡った先でも勤勉に働いていますよ。平和の為に……」
公園を離れ、集合住宅街やダウンタウンなど二人は管轄内をパトロールする。いつでも事件の無線が来てもいいように。だがこうも何もないと体のいいドライブだ。しかし走る事に意味がある。そう信じデリルはアクセルを踏む。ドラッグの押収も無ければ非行少年もいないほんとに良い町だ。あるとすれば路上駐車の交通違反切符を切るだけ。他の仕事の代表はタイムカードを切る。それが一日の仕事だった。アブノーマルな今日はどうもそれだけでは終わりそうになかった。
2
「速度は?」
「この車の速度計は70マイル(時速112km)を超えています」
シュミットが緊張感のある声で訊く。それにデリルは一瞬速度計に目を落とし彼に伝えた。
「そろそろタイムトラベルできそうだな」
「そんな悠長な事言ってないで!」
カーチェイスでもしているのか? 誰が乗っているんだ? 気になりSUVを覗く。ベイルバンズ? 二台の内後ろの車には側面に大きく会社名と電話番号のステッカーが貼ってある。
「……賞金稼ぎか」
助手席に座っているシュミットが呟いた。
「保釈金の取り立て屋ですよね。ってことはあいつらは保釈された奴ら……」
「そうみたいだな。だがうちの州ではあいつらの仕事は禁止だ。後ろの車によせろ」
今日は幸いにも車が少なかった。デリルは相槌の代わりに行動で返す。車体を車に接近させた。シュミットは窓を開け、乗員に強めに話しかける。
「おい、あとは警察に任せろ。ここではあんたらは違法だ。アウトローになるんだ。しょっ引く前にインディアナに帰りな」
エンジン音や走行音、彼もそれなりに声は出しているが聞こえるのかはよく分からない。
スモークのかかった窓ガラスがゆっくりと開く。女性? ちらっと横を見ると風でなびく一つ結びが視界に入る。サングラスやキャップを被って顔の特徴は分からなかった。赤い口紅だけが印象に残る。
「あとは任せた」
運転席の乗っている女性の声がうっすらと鼓膜に届く。SUVは後方へ下がって行き、目に見える様に速度を落としていった。すぐにバックミラー越しからシルエットが小さくなっていく。ひとまずは安心だ。あともう一台。速度に自信があるのかエンジンは唸りを上げ増速していった。
「逃がすなよ」
シュミットが念を押すようにデリルへ言った。このパトカーから逃げ出せるとは考えられない。なんせⅤ8エンジンを載せ最高速度は150マイル(時速240km)。あと70マイルは余裕で出せる。デリルは自信をもって頷き。アクセルをより踏み込んだ。しかし一般道路でここまでの速度を出すのは久しぶりだった。高揚感と共に緊張感が一緒に込みあがる。少しでもこっちがミスを犯せば一般人にだって被害が及ぶし、運転ミスをすれば自分達の命も危なくなる。
「奴らも止める気がないみたいだ。どうするよ」
シュミットは挑発するようにデリルへ口角を上げ、にやける
「任せてください。シュミットさんもしっかりつかまっていてください」
少し不機嫌そうに舌打ち交じりに頷く。奴らのセダンに追いつき車体の右側へ並ばせた。
「優しく頼むよ」
シュミットは天井に手を当て身体を押し付け固定した。彼にはもう何をするかは分かったみたいだ。それを確認したデリルはゆっくりとハンドルを傾ける。
時速80マイルを超える速度はドライバーの慎重さとは裏腹に車体は大胆に車幅をよせた。奴らの車はパトカーと中央分離帯へ挟み撃ち状態になり金属が擦れる音が響き渡る。タイヤがパンクしたのか速度が落ち始めた。デリルは一度車幅を取り、もう一度、勢いよくぶつける。車内に衝撃が走る中、確実にボディーがへこんだと罪悪感も込み上げながらも、もう一度車幅をとった。グリップ力を失くしたタイヤは道路との摩擦を失くし、セダンはふらふらとスピンを始め、勢いよく中央分離帯へぶつかった。
追い越した状態でパトカーを停め、デリルはバックミラーから奴らの動向をうかがう。
ぼこぼこになった車体から二人が這い出る様子を確認した。よろけながらも住宅街へ逃げ込もうとする。こちらもパトカーから飛び出し犯人逮捕へ向かった。犯人の一人は頭を押さえ、走る速度が遅くなっていった。
「シュミットさん、そいつを頼んだ」
もうすでに息が上がりそうな彼に一人を任せ、デリル自身はイキの良い奴を追った。白のタンクトップ姿にすこし筋肉質な両腕にはタトゥーが入れめぐらされている。不自然に奴がこちらへ向いた。金色のネックレスが太陽に反射する。それに目を取られ黒鉛の鉄塊をズボンのポケットから出したのに気づくのが遅れてしまった。奴は一切の躊躇をする事なく引き金を引いた。目標はもちろんデリル。殺気の籠った眼を見ると身体が固まる。メデューサの様な特殊な力が働いているのではないかと感じる程だ。同時に渇いた火薬音が住宅街に響く。デリルは瞬時に身を屈め射線から逃れた。
自分のベルトに携えている拳銃をホルスターから抜いた。住宅街には遮蔽物が多くは無い。住民には申し訳ないが路地に停められた車を盾にした。スライドを引き、薬室へ弾薬を送り込む。そんな中、奴はしっかりと狙わずに片手で発砲してくる。デリルは弾の貫通を防ぐためエンジン部分へ移動しゆっくりと奴を観察する。発砲したら頭をひっこめる。反射神経頼みだった。
奴の撃ち方はどうも訓練した様子はなく、タンタンと子気味良く撃ち込んでくる。しかし弾薬も無限ではない。拳銃のスライドが途中で止まる。拳銃は親切に目で見てわかるように弾切れを知らせた。今かと待ち構えていたデリルは奴に向かった。弾の切れた拳銃をこちらに投げて反射的に奴はデリルへ背を向け逃げだす。
どんどんと奴との距離を近づける。こっちの距離を把握するため振り返った、奴の表情がくっきりと分かるぐらいに。しかしデリルには一つ懸念があった。心拍が上がるのがそのせいなのかそれとも走っているからなのかは気にしないようにした。
「とまれ!」
この距離だったら拳銃もいらない。ホルスターにしまいデリルは奴に向かって後ろから飛びつく。逃すまいとしっかりと両手でホールドした。引き剥がすように奴は暴れる。
「クソ、動くな!」
鍛えていたのか力むたびに身体中の筋肉が膨張するのが分かる。シュミットは未だ応援に来ない。
やはりその懸念点が浮き彫りになった。デリルはどうしても近接格闘が苦手だった。
「動くな!」
勢いよく振り払った奴の肘は、デリルの顔面を直撃した。鼻の先から後頭部への一直線に嫌な鈍い音ともに目の前に閃光が走る。瞬時の痛みが走り鼻血と共に涙が頬を伝う。怯んだすきに奴はするりと抜けた。
「待て!」
脳震盪でふらつきながら奴に怒鳴る。眼を開けると、拳が目の前に迫り来ていた。デリルは鈍い音と共に顔面へ重い一発を食らう。デリルは服を引っ張られるように、重力の赴くまま背中から倒れた。
「……待て……」
肺に残った空気を振り絞り奴へ言い放った。しかし、はいそうですかで止まる犯人は居ない。殴られた苛立ちで頭に血が上る中、立ち上がる。奴の背中を追おうとするが焦点が合わない。デリルは膝から崩れ落ちる様に倒れた。太陽に暖められたアスファルトが頬に触れ、気を失う。
「おい、おい、大丈夫か」
シュミットに肩を蹴られ目を覚ます。
「奴は⁈」
数秒ほど目を瞑ったぐらいだったはずだと思っていた。
「とっくの前に逃げちまったよ」
「すみません」
「それよりも大丈夫か?」
鼻を指してシュミットは心配する。
「は、はい大丈夫みたいです」
鼻血は既に止まっていたがまだ脳は揺れている。ふわふわと酒に酔った感覚に近かった。
「まぁ、一人は逮捕できたんだ。本部に帰るぞ」
「分かりました」
パトカーに戻り、扉を開ける。後部座席には手錠が掛けられていた犯人が手錠をガチャガチャと外そうとしていた。当たり前だが外れる訳がない。
あきらめな、デリルは小さく呟いた。頭には手当の様子が見受けられ、丁寧にガーゼのパッチが張り付いていた。
「ダリル? 運転は大丈夫か? 今日はもう派手な運転は要らんぞ」
頭もだいぶ良くなった。焦点も合うし運転も大丈夫なはずだった。デリルはシュミットに対して軽く頷く。
「いや、席を代われ。デリル、お前は助手席だ」
お互い入れ替わりになりデリルはさっきの傷跡が残る凹んだドアを開け、助手席へ座った。
その後はレッカー車を頼み事故車の対応をさせる。運転の教本に載るような運転で何事もなく本部へ戻った。
「お前は医務室だ。頭をガツンとかまされているんだからな」
「大丈夫ですよ」
「念のためだ。こいつは任せておけ」
「分かりました。任せます」
犯人を彼に任せ、デリルは本部の医務室へ足を運んだ。
「はい、わかりました。何かあったらまた来ます」
医務室には行ったものの血は止まっているし頭痛も収まっている。軽い問診をした後、職員に念を押されながらデリルは退室した。
オフィスへ向かうとシュミットはお気に入りのドーナツ屋の紙袋を片手にコーヒーブレイクを楽しんでいた。
「シュミットさん、奴の情報は?」
「今はどうも傷の手当が先らしい。こればっかりは仕方ない」
彼は諦めの一言を言いながらコーヒーを一口すすり話を続ける。
「きょうはもう上がろう。給料分の仕事はしただろうし」
「いや、ペーパーワークが残っているので、先に上がってください」
「そうか……じゃあ俺はお先にしようかな。なんたって今日は妻のバースデーなんだ」
「そんな大切な日だったら休んでくださいよ」
「子どもが三人もいるんだ。独立記念日にクリスマス、休んでいたらプレゼントが買えなくなっちまう。ハニーには仕事をしろって釘を刺されているしな」
苦笑いながらも、愛する家族を思い出しシュミットはニヤリと口角を上げる。
「お疲れ様です。奥様によろしく伝えてください」
「あぁ、ありがとう。明日はオフだろう。しっかり身体を休めろよ」
シュミットは顔を指さしながらオフィスを後にした。デリルは反対に椅子に座りデスクへ向かう
「くっ、あの野郎……」
アドレナリンが完全に切れたのか、殴られた所にじんわりと痛みが浮かび上がる。痛みをこらえながらデスク作業をこなすが、なかなか手が進まない。
こりゃあ、数日は残るかな……
アイスコーヒーの入ったマグカップを患部に当て溜息をつく。
新しいファイルを立ち上げ捜査資料に目を通す。
溶けた氷の崩れる音が時間を知らせた。
3
「シュミットさん、本部に呼ばれるなんてどうしたんですかね。まさかこの前の取り調べでも?……」
「何か重要な奴らしくてな、取り調べの担当が別になったんだ」
彼は少し面倒くさそうな顔でデリルに返す。
「ちょっと、それって手柄の横取りじゃないですか」
「そう言うと思ったよ。なんせ『国防の何たら』って言われたら俺たちは下がるほかない」
「一人逃してる俺が言うのもなんですが、そいつは誰なんです」
「わたしよ」
自信のある口ぶりで奥の取り調べ室から出てきた。
「あなたは? ここの人ではないみたいですけど」
見慣れない顔、すぐにデリルが正体を聞いた。所属のバッジは制服ではなくスーツのジャケットで隠れていた。
「あなたが逮捕した人?」
コツコツと杖を突き、こちらへ近づいてくる。部屋の中なのに不自然にも室内で黒いサングラスをかけている。彼女はデリルに近づいてきた。
「いや、俺は一人逃がしました。そこのシュミット巡査部長が」
「そう、じゃあ、あなたがデリル君。あなたは腰に付いている銃を使わなかったみたいね。報告を聞いたわ」
「はい」
「判断を間違えないで」
彼女に詰められ、ぐうの音も出なかった。
「すみません」
「私がシュミットです。ところであなたは? 見る限り私の上司には見えませんが」
二人の会話を途切るようにシュミットは口を開ける。彼女は白と赤の杖をコツコツと周りを当てる。音を頼りに彼に近づいた。
「ごめんなさい、紹介が遅れたわ。私はレナ。CIAのエージェントよ」
中央情報局の頭文字『CIA』ここでは聞き慣れない三文字だった。確かに彼女の口から発せられる。少しざわついていたオフィスは何事かと静まり返る。だが数秒もすれば周りは各自の仕事へ戻って行った。
この反応は当たり前と言えば当たり前だった。国内の捜査は州や市警察それに連邦捜査局であるFBIの仕事だった。それにCIAは国内の捜査権は無いはずだ。
「それより、グッドワークよ」
彼女はシュミットの身体を優しく触れる。
「ありがとうございます」
FBIとはいくつか協力する事はあった。しかしCIAとは仕事はおろか会った事すらなかった。国内と国外、国家安全という志は一緒ではあるが少々お門違いというものだ。
「CIA? 国外捜査なのにどうして? それも辺鄙な部署まで。ビンラディンでもいましたか?」
「あなた、犯人逮捕の腕は良くないけど推理の筋は良いみたいね」
冗談で言ったつもりだったのにとデリルは少しおどけてしまう。負けじと言葉を続けた。
「か、仮にテロリストだとしてもそんな奴が保釈されるんですか?」
「あいつはただの協力者、だからそこまでマークできなかったのよ」
「じゃあ、張本人たちを捕まえる為にまた行ってきますよ」
「やめて、あなた達はこれから私の指揮下に入ってもらいます」
この人は何を言っているのだ、困惑の中シュミットの顔を見るが多分自分と同じような顔をしている。これまでこんな事は無かった。それに国に悪さをする奴らを捕まえに行くと言ったら行くなと命令。頭にクエスチョンマークが浮かび上がるのは無理もない。
「これは私たちが追っていたグループなの」
「そんな危険な奴らなのか? ただの交通違反している奴らじゃないですか」
デリルは軽んじた態度でレナに訊く。
「第二の『9.11』を起こしたいわけ⁈」
彼女の語尾が強くなるのが分かる。あんな悲劇誰も起こしたいと思う人は善良な市民ならだれ一人もいやしない。
「ようやく奴らの尻尾を掴めたの。変に詮索して逃げられたら……もう次は大量の犠牲者が出る」
「奴ら?」
デリルは疑問を口に出す。
「奴らはQ ここ数年私たちが追っているテロリスト。各所でテロを働き沢山の罪もない犠牲者を出している」
「デリル、彼女に従おう」
シュミットは肩をポンと触れデリルをいなす。
「ミスターシュミット、早い理解に感謝するよ」
彼女はシュミットへ謝辞を述べた。
「ミスターはやめてくれ。それに俺たちの上司には許可は取っているんだろう?」
「察しの通り……で、そのもう一人の……デリル君……協力してくれる?」
「も、もちろんです」
テロリストなんて……怖気づきながらも頷く。
「それは良かった」
レナはデリル達が見知らない男性に案内され別室へ移動する。
「じゃあこっちに来てくれる」
部屋はさほど広くなく、レナの特設のオフィスの様で四人も入れば一杯になってしまうほど小さな部屋であった。シュミットという少し規格外なサイズの人間もいるがそれでも少し広めの方がいいのかと感じる程であった。
「失礼ですが、あなたは?」
レナの隣にいる男に部屋の大きさよりも気になりデリルは思わず尋ねる。
「紹介が遅れた。私はFBI捜査官パイトン・ムーアだ。よろしく」
ムーアは手を差し出し握手を求め、デリルも進んで手を重ねた。三十代ぐらいのムーアは柔らかい表情とは裏腹に腕まくりしたシャツから延びる腕は筋肉質で、ただの捜査官なのかと少し疑うほどだった。
「パリスは基本的にあなた達と行動する事になるわ、仲良くね」
「パリス? フランス帰りなのか?」
シュミットが思わず訊きなおす。
「あぁ、その通り。少し留学に行っていてね、同僚はパリスと呼んでいる。安直だろう」
彼は肩を浮かしながら笑みを浮かべる。
「じゃあ、パトロール行きましょう。パリスさん」
「さん、はやめてくれデリル。パリスと呼んでくれよ。これから一緒に捜査するんだから」
デリル達はパリスをパトカーのある駐車場まで連れ出した。
いつも通りダリルは運転席に座り、助手席にはパリスに座ってもらった。エンジンを掛けいつも通りにパトカーを走らせる。
「じゃあ基本的にはパリスの指示を聞けばいいってことですよね」
「CIAは国内捜査をすることができない。彼女は名目上協力者さ」
「でも彼女の方が上なんだろう」
「あぁ、そうさ」
パリスは肩を透かしながらシートを深く座り直した。
「そこらへんは、面倒だが二五十年はやってこれたんだ。国の平和を望んでいるのには変わりないんだ。どの部署がとか気にせず奴らを逮捕していこう共同戦線ってとこだな」
「気にしているのはパリスの方では?」
「ははは。弱ったな……」
横目で彼の顔を見ると眉を顰め苦笑いをしている。
「まぁ俺たちには関係ないよ、この州の平和は本土の平和につながるからな」
後部座席からシュミットが文字通り割って入った。
「で、パリス。アテはあるのか?」
「すまないがこの州に拠点があるという事以外は……レナが今も取り調べをしているが全然口を割らないみたいだ」
「そっちもそれぐらいか……」
「うん? 何か知っているみたいな雰囲気だな」
パリスは後ろを向く。
「デリル、いつもの所へ行こう」
「はぁ……怒られますよ。まぁ、向かいますけど」
「ありがとうよ」
デリルはシュミットの望む場所へハンドルを切る。パトカーをいつものルートへ乗せた。もちろんいつも通りのパトロールも忘れずアクセルを踏み込んだ。
「ここが手掛かり?」
シュミット行きつけの公園にパリスは期待を寄せている。彼の顔色を見ると少し申し訳ない気持ちが込み上げてきた。
「シュミットさんはいつも通りで?」
「爺さんと話してくる」
「分かりました」
公園はいつもより遅めに着いたせいか少しひと気は少なくなっていた。だが人気の公園だ、オフデイの人なのか軽快にランニングをしているのが目に入る。彼といつも話している老人はポツンと木のベンチに座って公園の真ん中の湖を眺めていた。
いつものコーヒーの屋台はまだ店を閉めていない。顔なじみの店員にカップを二つ頼んだ。
「彼はただの友達?」
「察しの通り」
その言葉に彼は目を点にしている。脈絡は無いがコーヒーを彼に差し出す。
「紅茶派だったかい?」
「いいや、根っからのコーヒー派さ。ありがとう。まさか、いつもこうなのかい?」
眉をひそめコーヒーを啜る。
「コールは来るんですけど、ロサンゼルスの様に忙しくはないんですよ」
「で、彼はここで情報収集を?」
パリスは嫌味を放つ。
「地域交流が大切らしいですよ」
「一理あるか……」
彼は噛みしめる様に呟きあごを触る。
「でも、変に嗅ぎまわって、気づかれたらダメなんでしょう? 自分から行くよりもこうやってどっしりしてた方があいつらも尻尾を出すんじゃないんですかね?」
「このコーヒーの様に甘いな」
「そうですよね……あっブラック派でした? 何なら俺のと変えます?」
「ブラックをよく飲むけど、シュガーを沢山入れるのが結構好きなんだよ。それに脳に糖分は良いみたいだからね」
パリスはニヤリと笑みを浮かべカップを口に近づける。
「良かったです。自分が言うのもなんですがこれで大丈夫なんでしょうか?」
普段の捜査も含めた不安を眉をひそめ尋ねる。こんなの絶対了承されない、何か気休めかシュミットへの喝を一言欲しかった。
「うーん……、あんまり芳しくはないな」
彼もどこか言葉を選び、苦笑いで言葉を紡ぐ。
「そうですよね……」
分かりきった答えではあった。
「FBIは何か特別な捜査方法はあるんですか?」
パリスは今までのFBIの捜査官よりもフレンドリーでついつい質問をしてしまう。
「そんな特別なことは無いさ。ただアメリカ全土の捜査権を貰っているだけ。でも洞察力は鍛えられたな。すべての感覚が大切になってくるんだよ。視覚はもちろん聴覚嗅覚触覚。全部馬鹿にならない。デリルは今不安だと思うけど、この感覚は今現在でも養う事ができるよ。体を鍛えるのもいいけどテクニックも鍛えよう。後はどこの国へ行っても最後は聞き込みだ。どれだけ調べても地域住民の情報に勝る物は無いからな」
「分かりました。ありがとうございます。早速聞き込みしてみます」
「その行動力は良いね。ただし気づかれないように」
ダリルはぬるくなったコーヒーを飲み干し、紙コップをごみ籠へ入れる。
しかしまぁ、勢いよく出たのは良いが何を聞こうか……デリルは見当もつかなかった。
「あの、すみません……」
数人と会話を交えてみるが、空振り。そりゃそうだ何せ、ほとんど情報が無かった。この地域にテロリストが潜伏しているだなんて口が裂けても言えやしない。町中がパニックになる。結局最後は聞き込みだとは言っていたが、これでは沼地にスタックした車ぐらい前進しない。むしろアクセルを踏めば踏むほど酷くなる。一人で底なし沼に入り込んでいく気分だった。
「そうなるよな……」
パトカーに寄り掛かり甘いコーヒーを飲んでいたパリスは意気消沈したデリルを見て一言呟く。
「あいつのカウンセリングでもしてくれたのか?」
老人との会話が終わったのかパトカーに戻ってきたシュミットはパリスに問いかける。
「カウンセリング? そんなたいしたものでもないよ」
「ありがとうな。俺は後輩を育てる事はさっぱりなんだよ。この道に入ってほとんど他に押し付けてきた。そのツケが回ってきたな」
シュミットは参った様子を浮かべる。
「デリルも心配なだけだ。あれぐらいの歳だったら極悪人を捕まえて町を平和にすると息まいたが、いざそれが来てみりゃ足がすくむ。当たり前の事さ。俺たちが少し鈍感になっちまっただけだ。それにあなたは海兵だろう? 危機的状況に慣れている」
「全部知っているのか……」
「経歴は読ませてもらったよ。海兵では凄腕だったんじゃないか。ただあの作戦は……冥福を祈るよ」
「あぁ、俺もあの時はデリルの様に自信しかなかった。だけど俺の部下を死なせてしまったら自信なんて一瞬で消えるよ」
シュミットの表情が暗くなる。
「やはり、全然だめです。情報なんて一切集まりません」
「そうだろうな」
少し笑いながらもパリスはダリルに答える。彼もここでの聞き込みに成果など期待していなかったようだ。
「レナがあいつから情報を聞き出すしかないな。とりあえず本部へ戻ろう」
パリスは希望を込め呟く。三人はパトカーへ乗り込みまた本部へとパトカーを進めた。
4
「戻りました」
パリスはノックをした後、三人は、レナのオフィスへ入った。彼女は専用のパソコンを使いカタカタとタイプしている。捜査結果をまとめているのかは分からない。しかし仕事をしているのは確かだろう。
「どうだった? 結果の方は……」
レナはパリスが声をかけた方向へ顔を向け彼に尋ねる。
「情報が少なすぎます。これでは奴らが感づくのが先かと……」
芳しくない状況を彼女に報告する。彼女はパリスの報告を聞くと溜息は出さなかったものの顔を横に振る。
「鑑識によるとカーナビに目的地設定がされていたと報告を受けている」
打って変わって口角を上げ資料を手に持った。パリスはそれを受け取りペラペラと目を通す。
「あんなにぐちゃぐちゃな車だったのに……」
例の一件の当事者であるデリルは思い出しながら呟いた。それこそ脳震盪を食らわせられたが車体は思い切りへこみドアはもう完全に閉まらなくなっている状態でスクラップ確定の事故車、中がどうなっていたかぐらいは覚えている。
「画面は割れていたがデータが壊れるまでの破損は無かったみたい。何とか手掛かりは発見できたみたいよ。そこからどうにか探してみてくれないか」
「ここまで絞れたらどうにかできるな。やってみます。セルタウンか……いこう」
パリスの声を聞くとレナは頷き、シュミットとデリルを連れて部屋を後にした。
デリルも渡された資料を一通りに目を通した。
「こいつは!」
「見たことある人でもいた?」
レナがデリルの声に反応する。
「はい、こいつです……コイトヴェッチ。俺が逃がした奴です」
「コイトヴィッチね。そいつは資材調達をしているわ。デリル君、二度目のチャンスは無いわ絶対に捕まえなさい」
「はい。確実に捕まえます」
デリルは勢いよく返事を彼女に返す。行動圏内にはガンショップや工具店やおろかライフルも売っているウォルマートさえあった。奴らの準備次第ではいくらだって悲劇を起こす事ができる。なんたって今では圧力鍋だって爆弾になるのだから。
拠点がある州から地区に特定ができた、しかしその地区でも家という家は何千とある。ただここまで来たら絶対発見する。Qの仲間もこの目で見たんだ。希望的観測ではあるが射程圏内に収めたと言っても過言ではない。
店への聞き込みや防犯カメラを見ればどうにか足を掴むことは出来る。この捜査をしている四人は思った。危険物取締局のATFなどにも協力を仰ぎたかったが秘密捜査だと確実に却下される。いざとなればSWATだっているんだ。どんと構えていよう。デリルは一人で頷いた。
しかしそう簡単に奴らは姿を現さなかった。唯一の手掛かりのコイトヴィッチは別の容疑で手配はしている。いつものパトロールは、ほかの巡査に頼みデリル達は別の仕事をしていた。一日、二日と過ぎていく、地道な作業だった。貰った映像を早送りなしで食い入るように画面を見る。
目頭が痛い。頭が痛い。全身が痛い。散々だった。
「デリル、車出せ」
「シュミットさん? パトロールは他に任せましたよ」
「知っているさ。ただもうダメだ。外を見てみろ」
外を覗くと窓にかかったブラインドから朝日が差し込んでいた。外を見たのは月が窓から覗く前。太陽が水平線にさよならを告げるオレンジの空が最後。アメリカ全土のママが夕食の準備をしているぐらい、時計は時の流れが怖く見ていない。だが軽く半日以上は過ぎていたのは確かだった。
「分かりました……ただ一時間仮眠させてください」
ブルーライトの攻撃によって眠気は襲ってこなかったが、ただ自分の脳がしっかりと判断を下せるか分からない状況だ。
「分かった」
自分たちが配車されているパトカーは他に使われている為予備の車のキーを借りデリルは運転席に座った。シートを最大限に倒しアイマスクを付ける。さっきまで変に冴えた頭が嘘のように意識が遠のく。
「時間か⁈」
勢いよく飛び起きアイマスクを外す。助手席を見るとシュミットが目を瞑り俯いていた。
「ようやく起きたか」
「どれぐらい寝ていましたか?」
デリルは探るように彼に訊く。体感はほんの十分ぐらいであったがそんな訳がない。
「そうだな二時間半は寝ていたか?」
腕時計を見てデリルに返す。
「すみません」
「まぁいいさ、頼んだのは俺だしな。それにパリスには報告しているから少し気分転換にあの公園へ行こう」
デリルはキーを回しエンジンを掛ける。あくびは出るが、さっきとは見違えるように冴えている。アクセルに足を乗せ踏み込んだ。
慣れた道筋で公園へ着いた。見渡すと緑が目一杯に広がっている。普段何気なく見ている景色だったが目の疲れが吸い取ってくれるみたいだった。
シュミットは、いつものように老人の元へ行き横へ座る。本当に気が抜けていたみたいだ。免許は持っていたがコインを忘れていた。いつものようにワゴンでコーヒーを買う事ができなかった。なんとも味気ない感覚に襲われる。ニコチンジャンキーはこれと似たような感覚なんだろうと痛感させられた。
デリルはパトカーから降り、強張った身体の筋という筋を伸ばす。身体からはパキパキと音が鳴り、骨や筋が正位置に戻る感覚が走る。しかしどうも、伸ばしても伸ばしきれない凝りが体内に残る。最高級ホテルにあるベッドで寝ても三日は取れないだろうなと肩を回しながら感じる。
健康志向の市民が前を通る。ランニングウェアを着た二人組がハァイと陽気に片手を挙げて挨拶をしてくる。デリルはオフの日は運動を欠かさずしていたがあのオフが遠い日の様に頭に浮かぶ。羨ましく感じる中、二人に返事代わりに軽く手を挙げる。
あくびが止まらない。
気が緩みに緩んでいると分かるが圧倒的に睡眠が足りないと身体が訴えかけている。だが労働組合はそんなのを許さない。とことん働けと言われている。なんせアメリカ国民の命がかかっているのだから。
「きょうは非番なんだったけ……」
スマートフォンの日付を見て、狂った曜日感覚を正す。違和感が拭え切れなかったが無理やり理解させる。
ただ、突っ立ているのも時間の無駄だ。どれぐらい成果がでるか分からないが聞き込みを始めた。
「あっ、この前のお巡りさん」
スポーティーでラフな格好をしている女性が駆け寄ってきた。
「えっと……あの子の……マリーちゃんのお母さん」
赤い口紅がどこか別人のように感じる。
「覚えていてくれましたか。大丈夫、酷い顔ですよ」
会ってそうそうなんて事を言うのかと思うが心配されるような顔をしているのだろう。しかし彼女の事を思いだしただけでも自分をほめてやりたいぐらいだ。
「すこし戸惑いましたけど」
苦笑い気味にデリルは本音を伝える。
「きょうはおひとりで、マリーちゃんは?」
「きょうは母に見てもらってます。職業柄体力を使うもので日々のトレーニングが欠かせないんですよ」
「それは、それは。今日はオフですか?」
「そうだとよかったんですけど。働かないとお金は湧いてこないですから」
「そうですか頑張ってください。そう言えば、隣人はどうなりましたか?」
「私はそんなに気にならないんですが、マリーは気になるみたいで、引っ越しの片付けをしているとは言い聞かせているんすですけど」
彼女は眉をひそめ困った様子を浮かべる。
「本当に心配ならいつでも電話をください」
「ただ、本当にあの子の気にしすぎかもしれないですし」
「警察に電話が気が引けるならこの前教えた番号に電話してください。いつでも自分が駆けつけるので。ジェニファー通りでしたよね」
「そうです、セルタウンのはずれの方です。でもオフの日とかあるでしょう」
「オフだってあってないようなものですよ」
自分で言った言葉に渇いた笑いが込み上げてきた。なにを言っているんだか、気軽に相談をしてほしいと言いたかっただけなのに……これでは逆効果だ。はたまた税金で給料が出ているのだからもっと働けとネットで愚痴を呟かれる。どちらにしてもプラスの事がない。どれもこれも全部あのテロリストが悪い。早く捕まえないと……気持ちが焦った。それにどこか当てつけのない苛立ちが沸き上がる。
「本当に困ったら。電話するわ。マリーもまた会いたいって言っていたしね」
変な間が空き彼女が口を開きデリルへフォローしてくれた。
「そうですか、自分たちいつも来ているのでもし見かけたら声掛けてください」
「私も仕事があるのでこれで、仕事中邪魔してごめんなさいね」
彼女は頷き、立ち去った。日々本当にトレーニングをしているのだろう、すぐに遠くへ行ってしまった。
太陽の光に目が慣れたころシュミットは老人との会話を切り上げ、本部に戻る事にした。
「デリルも少しは聞き込みに慣れてきたんじゃないか?」
「見てました?」
あれを聞き込みだとは思わないただの顔見知りとの会話だ。
「それこそあのお爺さんからの情報はどうです?」
「そこまでだな、見慣れない若者は最近沢山来ているらしい。それもセルタウンは増えているって」
「お爺さんネットワークもセルタウンですか……」
「デリルの方はどうなんだ?」
「シュミットさんとやっている事と代わり無いですよ。でも少し気になる事があってジェニファー通りへ寄って行ってもいいですか?」
「あぁ、そこって確か前にリスが出たところだよな」
ここから目的地まで三十分程デリル達の管轄の少し外にある通りであった。そこもほとんど事件など緊急のコールが出る事はほとんどない。シュミットが言っていた事件は自分が入りたての頃だった。民家で飼っていた正しくは餌のネズミが逃げたっていう事件だ。
「そうです、あの時は大変でしたよね」
「で、今回もハムスター捕りではないんだろう」
「はい、最近知り合った方に近隣が気になるって言われて」
「自主的に動くなんて褒めてやらないとな」
信号機が赤になり、停車させる。シュミットはデリルの頭に手を伸ばそうとするがすぐに手を払いのける。冗談だと思うがそれでもやめてくれ。それに運転の邪魔をしないでくれ。シュミットを睨み、青になった信号機を覗きアクセルを踏み込んだ。
ジェニファー通りに入りスピードを抑え徐行する。昼間のせいか、ひと気はほとんどなくのどかな雰囲気が立ち込めている。あの子が心配するような程気になる事は無かった。
「見る限り問題はなさそう……だな」
シュミットは車の窓を開け周りを見渡し呟く。
「大丈夫そうですね」
シュミットと目を見合わせる。彼にデリルが応え、通りを後にした。怪しい奴を目で見るだけでは分からないなんせここにはヒスパニック、アジアにアフリカ、ヨーロッパ。数の多少はあるが多国籍でなっている。そこから怪しい奴を見つけるのは至難の業だ
「帰ろう」
シュミットは呟き、デリルは頷いた。
警察署へ戻りパトカーを駐車する。ロッカーから私服を取り出し着替えた。
「しっかり休めよ。明日もまた捜査だ」
「分かりました。どれだけ回復できるか分かりませんけど……」
デリルは語尾を濁しながらロッカーを閉める。駐車場で別れそれぞれの家へ進んだ。デリルはバイクに跨り何とか家へ帰る事ができた。
重い扉を引き、重い足取りで洗面所へ向かう。鏡を見ると目の前には酷い顔をした男がいた。トレーニングをして体力には自信があったが目の下には紫のクマに無精ひげ、仮眠をしたがいつまでも止まらないあくび、シャワーも浴びずにベッドへダイブする。
ウォルマートで買った安物のばねが軋む。警察になってから買ったものだ。もう二年半は使っており、ヘタレてきてはいるが今のデリルには最高の癒しであった。パトカーのリクライニングシートとは別物だ。シュミットからはゆっくりと休めと言われ、遠慮なく休ませてもらう。ベッドに飲み込まれるのではないかと勘違いしてしまうほど思考がゆっくり沈みこむ。
スマートフォンが鳴り響いていた。バイブレーションがズボンのポケットを小刻みに揺らし、甲高い音が耳を、脳を眠りから遠ざけた。この睡眠の中、夢など見なかった。それほど身体は疲労していたのだろう、音の元を止めないと身体を動かそうとしたが寝ぼけて瞬時に身体が動かない。寝る前にアラームなんてかけていない、寝ぼけ頭で最大限思考をめぐらせた。
誰かからの電話以外何もない。一気に目が覚めスマホのロック画面を見る、非通知からのコールがしきりになっていた。画面をスライドし電話に出る。
「ごめんなさい、仕事中⁉」
「大丈夫ですよ。どうかしましたか? 落ち着いてください」
声の主はあの子の母親からであった。少し焦った声色はこっちまで焦ってくる。寝起きの喉は乾燥でシンクに足を進ませた。自分にも言い聞かせるように一言伝え、コップに水を注ぎ、一口含んだ。
「マリーが怯えているの。それもいつもよりひどくて、私の母も手に負えなくて、もし手が空いているなら見に行って、私は隣の州にいてすぐには帰れないの」
「分かりました」
ここで断る理由もない。電話を切り、酷い匂いを放つシャツを着替える。警察バッジをベルトに挟み、ホルスターが付いているベルトも付けている暇はない。拳銃のみを腰とジーンズの間に挟む。外を見るともう夕方だ。ジャケットも羽織り外へ出た。
「シュミットさんオフにすみません」
「どうした」
「ジェニファー通りへ行ってきます」
「何か分かったのか?」
「全然関係ないんですけど、きょうの子が怯えているって直接連絡があって、声をかけて来ます」
「そうか、分かった。ちょっと待てよ、ジェニファー通りってセルタウンだよな」
「はい、そうですよ」
「最近移民も増えているって爺さんも言っていたけど。もしかしたら例の奴らも……」
「考えすぎですよ」
「……何かあれば連絡しろよ。明日は朝からパトロールだ。早く寝ろよ」
「それはあなたの子どもに言ってください。明日はパトカー集合ですね、分かりました」
電話を切り、画面を見てナビゲーションアプリを起動した。
「充電するのを忘れたな……」
残り数パーセントの充電バーが警告している。場所だけ確認してポケットへいれた。
バイクに跨り目的地へ急いだ。
アクセルを回し、速度を出す。夕方の風が頬を引き締める。別に緊急出動でもない、ただ女の子を安心させるためだけだ。道路標識や看板を頼りにスムーズに目的地へ着いた。
「ここだな」
住所も確か……ここだったはず。二回ノックをする。
「すみません!」
デリルの声が聞こえたのか奥から足音が聞こえた。扉が開けられそこには前に会ったマリーが立っていた。
「こんにちは、マリーちゃん」
デリルは背丈を合わせるように片膝をつき彼女に話かけた。
「この前のお巡りさん?」
「そうだよ、もう警察が来たから安心さ」
デリルは彼女の手を優しく握った。マリーはそれに返すようにぎゅっと、にぎり返した。
「ありがとう」
彼女は少し不安そうに一言呟いた。
「大丈夫。少しお向かいの人とお話してくるからさ」
「ほんと」
「本当さ、少し声を小さくしてって言ってくるよ」
彼女の小さな手を握り直した。
「もう、大丈夫なの?」
「大丈夫さ」
デリルは立ち上がり、彼女を家へ戻した。
よし、安心させる為に言ったが一人で対応するなんて初めてだった。バイクを引いて道路を挟み向かいへ移動した。ドアの間に立つと工具の音が聞こえてくる。切る音、叩く音、響いていた。引っ越しの片付けという訳でもなさそうだ。日も暮れてきた早めに終わらせよう。咳ばらいをした。
「すみません!」
ゴンとなるぐらいノックしたが反応が無かった。
「すみません!」
また同じぐらいの声量とノックをドアに打ち付ける。
「すみっ……」
もう一度と思った矢先、扉が開く。男は自分と背丈が一緒で目が合う。
「お前……」
あの眼つき忘れもしない。首元を見るとあの金色のネックレスが揺れている。コイトヴィッチだ。
ネックレスに目が行き再び、奴へ眼を合わせる。奴が覚えているかは分からないがこっちは忘れるわけがない。重要参考人、そして俺が逃した『あいつ』だ。
ここで逃したら次のチャンスは無いだろう。腰に挟んだ拳銃を抜いた。
あいつに銃口を向ける
「手を挙げろ!」
引き金に指は掛けていないが、いまなら確実に撃てる。
奴は、怪しい奴じゃない。などとまだとぼけている。七分袖から見え隠れするタトゥー見間違える訳がない。
「英語は分かるな」
あいつはコクっと頷く。
「ゆっくり動け、妙な事はするなよ」
シュミットやパリスに連絡を取ろうとポケットからスマホを取り出す。
「あ、あれ……」
電源ボタンを押すが中々つかない。ここでやっていても隙を作るだけだ。
「ゆっくり中に入れ!」
室内の安全を確保するため、あいつに室内を案内させる。
電気はついているがどこか不安を掻き立てる。ゾンビ系のホラー映画では到底できない不気味さが立ち込める。テーブルに置いてあったダクトテープを手に取る。挙げていた手を腰へもって越させ、奴の手首に巻き付ける。怪訝そうな様子を見せるが無視してテープの巻き数を増やす。玄関からの通路を抜けるとリビングへ出た。装飾品はほとんどない。マリーが言っていたように最近引っ越してきたみたいだ。大きな作業台の上にはさっきまで使っていただろう工具が並んでいた。それに弾薬のパッケージや火薬にカラフルなコード、見るからに怪しい。警察的に言うならば物的証拠は押さえた。になるんだろう。
「一人じゃないんだろう。同居人は⁉」
奴に銃を突きつけ尋問する。人道的にどうたらって言われるかもしれないが何千の命がかかっているんだ。どうこう言っている暇は無い。
「二度も言わせるな!」
怒声を浴びさせ情報を出そうとする。自分でも頭に血が昇っているのが気づけなかった。
ドカっ!
どこからか打撃音がするが、発生音を探したがすぐには見つからなかった。コンマ数秒後、デリルは頭のふらつきを覚える。全身に鳥肌が立ち、血の気が引く。
「後ろ……」
もう一人の仲間だろうか固い何かで後頭部を殴ったのだろう。意識が遠のいた。
5
「すまんな、デリル遅れた……ってあいつも寝坊か? 早く寝ろって言ったのに」
シュミットは、いつも通り助手席に身体を押し込んだ。紙袋からドーナツを取り出し頬張った。
店長はいつもの凄腕だった。ほぼ毎日食べているが変わらない味、自分自身の日常だった。しかしどこか満足に味わえない。戦場にいるあのヒリヒリと肌に刺さる嫌な空気。
胸騒ぎがする。
気のせいだと言われたらそれで終了だ。でも一回本物を味わうと、この違和感が気のせいだと決めつける事は絶対に出来ない。何かがあったんだろう。一度気になるとどうにもならない気持ち悪さに襲われる。夢の途中に目が覚めたがそれが一体どんな夢だったか忘れたあの感覚。舌の先まで出かかっているが『あれ』の言葉が出ない感覚。完成寸前のジグソーパズルだが終わってみると後一ピース足りない。ドラマのラストシーン寸前でコマーシャルが入る感覚。非常に収まりが悪い。
「おい、今どこにいる」
呼び出し音から繋がった瞬間、スマートフォン越しに声を上げる。
「おかけになった電話は現在電源が切られています」
ロボットの音声読み上げが無表情に鼓膜に伝う。
「……ちっ、なんで出ないんだ」
一体どこに行ったんだ。分かっていることはデリルは絶対に遅れてくるやつではないってことだ。半年に一回あるかないかぐらいの大事件の時にも目の下のクマが酷くなろうが髭が不格好に伸びようが絶対に来た。そんな奴だ。
最後に話したのは昨日の夕方、ジェニファー通りに行くって言ったがあれから帰っていないのか?
運転席に席を乗り換え、運転しやすく席を後ろへ移動させる。この警察署から例の通りまで一時間ぐらい。タイヤを擦り鳴らし道路へ出た。一般車にクラクションを鳴らされるが関係ない。
「忘れてた……」
サイレンのボタンを押し、三車線に走っている車を蜘蛛の子散らすように一般車をどかす。シュミットは道路のど真ん中でアクセルを踏み込みスピードを出した。
前に一回だけデリルの家へ行った事があった。家の外装も変わっていない、ここだと確信する。酔いつぶれたかなんかで俺が送った事があったが自分の記憶力も捨てたものではないなと自分に関心した。
「おい! デリル」
ノックと呼びかけ、ベルだって鳴らした。もし寝ているならほとんど人間は起きるぐらいには行動を起こしている。しかし返事は無い。室内から鳴らしたベルがジジジと反響するのが聞こえてくる。
何回か試すが答えは一緒だった。何を思ったかドアノブを捻った。ガチャリと子気味良い金属のロックが外れる作動音が鳴る。シュミットは反射的に扉を引いた。
部屋の中はどうもひと気は感じられなかった。清廉さの映える青の制服はベッドの上に脱ぎ捨てられていた。独身の男なら普通な行動に驚く事は無かったが、ダイニングのデスクに無造作に置かれたベルトに目を付ける。
俺たちの商売道具である装備品を括り付けるバスケット柄のベルトには拳銃が抜かれている。ここに居ないとなると……昨日の電話を思い出せ……セルタウンに行くってだけど住所も正確にわからなかった。脱ぎ捨てられたズボンのポケットに突っ込んだりと、あいつには悪いが少々物色させてもらった。レシートに二十五セントコイン、後は手帳が右の尻ポケットに入っていた。
几帳面にメモがびっしりと書きめぐらされ最新のページに別人であろう文字で住所が書かれていた。
「ここか!」
シュミットはパトカーに乗り込み住所の元へ急いだ。この心のもどかしさを早くすっきりさせたかった。できればそこの家にいればいいのにと僅かな期待を込めてアクセルを踏み込んだ。
「多分ここら辺だよな……」
この前、来た時と同じ街並みが見えてくる、玄関に書かれている番地を覗き込みながらメモに書かれた家を特定しようとした。
「ここだな……」
シュミットはハンドルが腹につっかえながらできるだけ素早くパトカーを降りた。デリルは近隣の問題がどうだの言っていたからな。不信な事がないか見回した。
「あれは」
道路挟んだ向かいにデリルの愛車の400㏄ のバイクがスタンドを立てられていた。エンジン部分はもう冷えている。扉の付近にベルは見当たらない。
シュミットは迷わず扉をノックした。
「誰かいるか!」
6
ずいぶん寝た気がする。頭は少しすっきりしている。頬の痛みが抜けたら次は後頭部が血の流れと同期するようにどくどくと痛んだ。デリルは未だ自分がどこにいるか素直に分からなかった。周りを見渡すと鎖の音が部屋中に反響する。
「ヘマしたな……」
記憶が飛んだら鎖につながれ部屋の真ん中に吊るされていた。さながら映画のワンシーンの様だ。それも望んでいない方の側に。
外はもう明るいみたいだ。窓にかけられているカーテンから光が漏れ部屋を微かに照らしている。
「おい! いるんだろ!」
デリルはとりあえず声を荒げ鎖を揺らし金属音を上げる。
数秒も待たずに扉が開いた。黒ずくめの複数人の男と思しき人間がデリルを囲んだ。
「目出し帽をかぶって、案外シャイなんだな」
デリルは煽りを入れるが奴らには聞く耳を持っていなかった。
「それは、俺の……」
一番前の男がポケットからおもむろにデリルのベルトに挟んでいた警察バッチと拳銃を目の前にちらつかせる。
「おいおい、そりゃないぜ。なんだ、こうまでしないと安心できないってか」
拳銃よりもバッチを取られるなんて警察の風上に置けない……ただデリルには口を開くぐらいしか抵抗ができない言葉を続けた。ピクリともしなかった黒ずくめの一人がこちらへ近づいてきた。
「ほら、どうしたよ。口喧嘩もできないか、ジャージの下はガクガク震えているんじゃないの? ほらこいよ! 二度とヨガすらできない体にしてやるよ」
デリルの目の前に止まり、髪の毛を掴む。目出し帽から出る瞳に目を合わせる。
「なにすんだよ」
さすがに言い過ぎたか……デリルは軽く唇を噛む。
瞬間デリルのみぞおちに鋭い拳が一発めり込んだ。
とっさに呼吸が奪われる感覚に襲われる。骨がない人体の急所である場所を殴られ、激痛が一気に集中した。瞬間、脳がSOS信号を発信する。
「はぁ、はぁ」
浅い呼吸を繰り返し何とか身体全体に酸素を送り届ける。これで終わるほど奴らも甘くは無かった。掴んだままの髪を上に引っ張り、俯いたデリルの顔を正面に向けさせた。ためらいもなく奴らは頬骨当たりを殴りつける。切れた口内からは血がぽたぽたと垂れてくる。デリルはそれを飲み込む余裕は無かった。数発殴られただけだが疲労感が込み上げる。しゃべる余裕もない。鎖でつるされ立っているので余裕だった。
「誰かいるか!」
数回のノックの後、聴き馴染みの声が聞こえる。
もう幻聴が聞こえる様になったのか……
「おい! いるならだれか出てくれ!」
幻聴じゃない。あの緩やかな中年の声だがいつもより緊迫感が感じ取れる。
奴らも無視をする事ができなくなったのか部屋にいる数人が玄関へ向かう。
だめだ、来ちゃだめだ……それすらも声に出す事ができなかった。
「デリルこんなとこにいたのか、って、そんな物騒なもん頭に向けんなよ」
部屋に聞いた事のある声と体格の男が頭に拳銃を突きつけられデリルがいた部屋に押し込まれていた。それも自分が盗まれた拳銃、ここに連れ込まれてしまった事など多数の謝罪でデリルは口を開いた。
「すみません、シュミットさん」
「なぁに、すごいじゃないかデリルまさか本拠地を見つけちまうなんて」
この期に及んでとてもおおらかにデリルの謝罪に返してきた。
「そんな事言ってる場合じゃないですよ、連絡手段も無いですし……」
「そうだな、下手すりゃ俺の頭に穴が一つ増える事になりそうだしな」
危機的状況なのにいつもの緩い口調がおかしいほどに変わりなく話を続ける。
「海兵隊が銃だけぶっ放す能無しだと思ってないか? こういった狭い空間が得意なんだよ」
どの口ではなく、どの身体が言っているんだと。デリルは返す言葉も無かった。本当に得意だとしても普段の生活から見てもどの記憶にも該当しない。
「だから、その物騒な物どけろ」
シュミットは頭に向けられていた拳銃を黒ずくめの男に促す。それとは反対に拳銃のスライドを引き確実に弾丸が発射できるように準備を整えた。男は目出し帽で隠れてはいるものの余裕の表情であるに違いない。ただ確実に引き金に掛かった指を見て変に挑発もできない。
シュミットさん……デリルは小さく呟き無駄な抵抗をしては駄目だと首を横に振った。
するとシュミットはニヤリと笑い、身体の軸を揺らし頭に有った射線を瞬時にずらし相手の拳銃を握っていた腕をつかみ思いっきり前方へ投げた。警察でも軍隊でも格闘術は確実に習う、防具や寸止めなどで安全を確保されている一方、腐っても元軍人の力一杯に投げられた場合なんて考えたくもない、男は壁に投げられたスクイーズの様に張り付いた後床に頭から落ちて行った。
まわりの黒ずくめも一瞬何が怒ったのか分からず固まっていた。奴らは周りと顔を見合わせ頷く。タイミングを計るようにシュミットへ殴りかかった。
あの巨漢からはどうも想像ができないほどの動きが見て取れた。その動きは見様見真似の格闘技ではなく、いかにこの狭い空間で最大でより効果的な一手を確実にこなしている。騒ぎを聞きつけ奥の部屋からか三人ぐらいがこの狭い部屋に入り込んできた。
黒ずくめの一人がモンキーレンチ片手にシュミットの死角から振りかぶろうとしている。
「させるか」
デリルも吊るされていていたが足はそれなりに自由がきいた。自分の届く限り足を延ばす。予想だにしていなかった男は、踏み出す足が前に出ず身体のバランスを崩した。思いっきり床にぶつけた男は苦しそうにうなだれながら息絶えた。確認はできないが多分人ではないはずだ……
「デリル、生きてるか」
「生きてます」
シュミットは、Qの組員の相手を三人しながら反応を確認する。思わずデリルは答えた。ほんとにシュミットは凄かった。息は上がっているものの一人一人丁寧に相手をしている。
「こいつら、どんなに根性を持っているんだよ」
苦言を漏らし、床に倒れ、起き上がりそうになる男をシュミットはその巨漢で踏みつけ百数キロの体重を乗せる。男はほんとに苦しそうだ、見てるこっちが気の毒になってくる。
「しつこい男は、嫌われるぞ」
立っている黒ずくめは残り一人、多分リーダー何だろうか。奴も辛そうだった肩で呼吸している。武器は出してこようとはしてこなかった。特にライフルなど大きい火器はもっぱらだった。火薬や弾薬を買った方がテロを起こすのにコストパフォーマンスが良いのだろう、結果的にそれがシュミットに対して有利な方に運んだのは火を見るより明らかだろう……
最後の足掻きかハンティング用の小さいナイフを展開し襲い掛かろうとしていた。
パァッン
火薬ではない軽い発砲音が部屋に広がった後、パチパチ、と高いスタッカートを刻んだ。透明な紐につながった二つの電極が拳銃型の発射装置から電撃を流す武器である。テーザー銃だった。
うめき声を上げながら男は膝から崩れ落ちた。
ここは一対一で拳で戦うフェアプレーとは打って変わって飛び道具を使い奴を制圧した。彼らしいと言えば彼らしい……
「デリル、大丈夫か」
すぐにシュミットはこっちに駆け寄り、落ちていた器具を使って鎖を断ち切る。改めて周りを見ると黒づくめの男たちが伸びていた。改めてシュミットが倒したんだと認識するが不思議と実感がわいてこなかった。
「だから、海兵魂は永遠だって言っただろう」
おじさんのウインク程、不気味に感じる物はないと背筋に冷たい空気が流れた。
「格闘技よりも射撃の方が得意なんだよな、言ってなかったか?」
「初めて聞きましたよ」
まだこのシュミットという男を知らないみたいだ……
昼間のジェニファー通りに警察車両が殺到する。規制線が張られ周り一帯が封鎖された。州警察はもちろんFBIと書かれたジャケットを羽織った人など周りは法執行機関の人だけとなった。
「痛っ」
切れた傷口をガーゼで血をふき取られる。消毒用のアルコールが傷口に滲み、デリルは思わず声が漏れた。警察と共にきた救急車に案内されたデリルは軽い手当てを受けていた。
救急士から渡された水を渡され、すぐに口をゆすぐ。ようやく口に残った鉄っぽい違和感を流す事ができた。
「デリル、お手柄だったね、その傷は大丈夫かい」
「パリス。まぁなんとか、ほとんどはシュミットさんがどうにかしてくれたんですけど」
「そうなのか……彼からはデリルが役に立ったって聞いたぞ」
食い違う証言にパリスは目を見開き話を続ける。
「まぁいいや、それで別件になるんだがデリルこっちに来ないか?」
「こっち?」
「FBIだよ、一緒に仕事をしないか。君がなりたいSWATもある。どうにか推薦もしよう。どうだ来ないか」
「なんで、俺なんかに」
デリルは思わず聞いてしまった。
「そりゃ、向上心がある男を見逃すわけにはいかないってもんだよ」
愚問だと言わんばかりにパリスは鼻を鳴らしデリルに向かって人差し指をさした。
これまでにないチャンスだ。それも自分自身がスカウトを受けるなんて夢にまで見た光景だった。
7
「きょうはデリルもいないし、ゆっくりできるな」
シュミットは駐車場で呑気に独り言をつぶやきながら歩いていた。行きつけの店の紙袋の封を開け好物のドーナツを手に取り頬張った。いつもの甘味が舌を撫でる、満足そうに手に付いた粉砂糖を舐め運転席のドアを開けた。
「シュミットさん、遅刻です」
な……なんで……、驚きのあまりシュミットは開いた口がふさがらない。古いパソコンの様に機能停止した瞬間によく似ている。放置するのも面白そうだが、そろそろ頭から煙が出てきそうだ。
「そんな呆けた顔しないでくださいよ。早く助手席に乗ってください」
デリルの言葉に素直に従い何の気なしに助手席へ身体を押し込む。シートベルトをしたことを確認しパトカーを車道へ出した。
「いや、なんで⁈」
ようやくオーバーヒートが治ったのかシュミットはデリルへ疑問符を投げつける。答えようとした瞬間、信号機が赤色に変わりゆっくりと速度を緩めパトカーを止める。
「まぁ、スカウト受けて正直嬉しかったですよ。だけど俺はこの州を、生まれ育った街を守りたいと思ってここに入ったんです。それに見てください」
デリルは肩に付いた階級章をシュミットに見せつけた。普通はあと一年、働かないと貰えない階級章を非公開ではあるが特例で署長から受け取ることができた。
「異例の昇格だな」
「これで州警のSWATにも一歩近づきましたよ」
「新人教育をパリスに押し付けれられると思ったのに……でも良かったのか断って」
「パリスはいつでも待ってるって」
「罪な男だな」
「何を言ってるんですか、さぁいつもの公園へ行きますよ」
「きょうはいつにも増して乗り気だな」
「なにを言っているんですか、地域住民との関わりが一番大事だってパリスはもちろんシュミットさんが言った事ですよ」
「そんなことも言ったけな」
「ここが平和になれば周りも平和になる。平和は伝染するんですよ」
「ふっ」
「笑わないでください、こんなくさいセリフ今日だけですよ」
「ドーナツ食べるか? プロテイン入りだぞ」
「食べないですよ。冗談はそのおなかだけにしてください」
デリルはシュミットの提案を断り、青色に変わった信号機を確認しアクセルを踏み込んだ。
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