ほとんど

配信ライブ「明日のたりないふたり」を見た。凄まじかった。面白くてかっこよくて、しびれた。言葉にならないけど忘れないうちに何とか書いておきたい。

たりないふたりはオードリー若林さんと南海キャンディーズ山里さんのユニットだ。狂気的と言っていいほどの勢いで山ちゃんにボケを振り続ける若林さんとそれに翻弄される山里さんは、それぞれがコンビで見せる顔とは少し違う。特に若林さんは漫才中まるでいたずらをしてる小学生みたいにはしゃいでて、初めて見た時に驚いた覚えがある。

元々漫才はその人がその人自身を誇張してやるものだけど、たりないふたりは結成の由来が由来だからよりパーソナルな部分に踏み込んでいく。いつもその時点での二人のたりてないことが漫才のネタになっている。
キャリアを積みMCをやるようになって結婚もして、もうたりてるんじゃないのか?というのが前回の「さよならたりないふたり」だった。今回のタイトルは「明日のたりないふたり」。

くだけた会話で始まった漫才は次第にテンポをあげいくつかのお題を経由し、互いをえぐり合うような応酬に変わっていく。漫才の中だけでしか言えないであろう言葉が次々と放たれ、ほとんど「」が取れかかった取り繕っていない表情が映される。「自分」で自分の弱さを引きずり出す姿は泣かずにはいられなかった。漫才を見ていたはずなのにいつの間にか格闘技の試合を見ている気分になっていた。

もういいから!と目を背けたくなるのは身に覚えがあるからで、若林さんが刺すたびに胸が詰まった。でも絶対に目を逸らしたくなかった。というか逸らせなかった。終演後、椅子に座り項垂れて呼吸を整える2人は死闘を繰り広げた後のボクサーのようだった。

結婚して丸くなるのかなとか、好きな芸人であることには変わりないだろうけど特別な存在ではなくなるのかなとか短絡的に考えていた過去の自分に言いたい。変わらないから。というかそういうことでは変わらないような部分に共感してるし助けられてしまっているから。

何というかずっと、一番近いところにいてくれる先輩みたいに思っている。初めて若林さんのエッセイを読んだ時からその愚直さに驚き、たぶん憧れ続けている。

タイトルの明日のってどういう意味だろうと思っていたけど、終盤での見事な回収にゾクっとした。というかもうそこら辺はずっと泣いていた。若林さんが漫才中に放ったある言葉に頭をかち割られた。
かち割られたは違うな。予想もしてなかった何か大きなものを突然渡された戸惑いと嬉しさで、喉が熱くなってとめどなく涙が溢れた。目に、いや脳に焼き付けたくなるようなシーンだった。生きているとこんなことが起こるんだと思った。

あと中盤にあったある設定というか構図?がすごく小説的だった。目新しさのための方法ではなくて、言葉のための方法というか。伝えるために、つまり終わらせるために必要な距離だったんだろうなと。

2人はお客さんに向かってというより目の前の相手と、そして今までの自分とのケリをつけるために漫才をやっているように見えた。無観客だったこともあるのだろう。2人にしかわからない高揚感や心地よさがきっと何度も生まれていた。
でも不思議とそんなふたりを見ていると自分で自分のことを肯定出来る。プロの漫才師である彼らと自分には何の共通点もないはずなのに、陳腐な言い方になってしまうけど、己のたりなさを認めさらけ出す姿に勇気づけられるのだ。

かっこ悪くても立ち向かうことが、見つからなくても模索することが、割り切れなくてもやっていくことがどれだけ難しく忍耐力を要するか私たちはもう知っている。しかもそちらを選ばないと納得してくれない自分の面倒くささとも随分と長い付き合いだ。時々呆れたり嫌になって投げ出したくもなるけど、今日のライブを思い出せばこの先幾度となくやってくるそんな夜を乗り越えられそうな気がした。

「頑張らなきゃ」じゃなくて「頑張りたい」と思えたのは久しぶりで、そのことがとても嬉しく何より誇らしかった。

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