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最近の日記

気がつけば8月も下旬で、蝉の声よりもコオロギや鈴虫の鳴き声をよく聞くようになった。ほとんど記録としての日記。

8/6 金
先週引っ越しをした。まだ部屋に馴染んでいないので外にいる意識が強いのか前の家にいた時より仕事中に聞く自分の声が元気だ。ただやることが増えているだけな気もする。圧倒的に時間が足りない。

心配になるくらいホワイトだった職場で「お金がない」というただそれだけの理由で、以前だったら考えられないような厳しい工期の案件が立ち上げられている。
どうも1番最初の緊急事態時に社員を自宅待機とし給料を全額支給した皺寄せがきているらしい。 
だからもし、国が十分な給付金を交付していたらこんなことにはなっておらず、まぁ弊社の経営能力と言われればそれまでなんだけど、政治と自分の生活は全然無関係ではないのだと突きつけられているような気分になる。

シーツを洗うつもりだったのにどうやら明日というか今週末は台風でずっと雨らしい。全てのことが上手くいってほしいと子どもみたいなことを思う。

少し前に自治体の集団接種でワクチンを受けた。運良くキャンセル分を予約できて、仕事も半休ならすぐとれるし自分の調整だけで済む時期で、そういうラッキーが重なって受けられた。一度ライブハウスに行くのに降りたことがある駅で降り日陰を探しながら駅からすぐの区民センターへ向かう。
誘導も診察もスムーズで、注射自体も拍子抜けするほどすぐに終わった。痛みも感じなかった。あんなに不安を抱えて必死に予約を取っていたのが嘘みたいで、少し泣きそうになった。

職場の小さいお子さんがいる上司や、在宅勤務をしていない知り合い、Twitterを見ていても予約出来ない人が大勢いる状況でワクチンの話は割とセンシティブな話題として自分の中ではあるんだけど、普通に「もう受けた?久しぶりにご飯行かない?」みたいなLINEもあり戸惑う。

私自身、先月までは人が多い場所にも用事がある場合はあまり気にせず行っていた。だけど今は怖い。デルタの感染力の件もあるが、それより自宅療養の話が上がり始めた頃から罹患したくないという気持ちが強まった。
正直に言うと、前まではかかったらかかったで仕方ないと思っている節があった。全てに投げやりな元来の性格もあり死ぬ時は死ぬし助かる時は助かるだろうと考えていた。だけどそれは病院で治療を受けられるのを前提としていて、ひとりで自宅で苦しむのはひとりで死ぬのは嫌なのだと初めて気付いた。なんて身勝手なのだろう。

8/20 金
フジロックについて書かれた文章をいくつか読み「命を引き合いに出して大事な物を捨てろと迫るのは部外者の暴力でしょう」という前日のおかえりモネでの朝岡さんの台詞を思い出していた。

命より大事なもの、大事にしたいものがある人は多いと思う。少なくともわたしはある。だけど命がないとその大事なものを守ることもできず、そういった意味で命より大事なものはないのだろう。
そしてたった今この瞬間のことだけではなく、少し先のことも考えて今何をするのが最善なのかを考えること、そういうのを知性と呼ぶのかもしれないななどと考えた。

知り合いがフジロックに行くのをやめたと聞いて正直ほっとした。配信を見るつもりでいたが、逡巡と覚悟の上でステージに立つアーティストに対し安全な場所から画面越しに見ることはどこか矛盾を孕んでいる気がして、かと言ってお金を払えば解決するとも思えず、どうすべきかどうしたいのかわからない。

8/21 土
昼過ぎに起き、昨日の複雑な気持ちを思い出すより前にカネコアヤノを見ていた。夜にはKing Gnuも。どちらも特別にファンという訳じゃないから観られたのだと思う。オリンピックの閉会式でDJ松永のプレイを見られなかった時のような気持ちにはならなかった。彼らの鳴らす音楽は好きだけどどういう人なのかはほとんど知らない。本来それで十分な気もする。
King Gnuのステージは、そりゃこんな気持ち良さを知ってしまったら抗えないよなと思うくらい圧巻だった。演者にとっても観客にとってもほとんど麻薬的であろうことは画面越しでもわかった。井口さんはMCで「わからないままステージに立っている」と言っていてあの場でそれを言う是非は別として、正直な人だなと思ったし支持されるのもわかる気がした。

8/22 日
アジカンのゴッチがダブスタだと批判されているツイートをいくつか読んだ。
オリンピックに反対してフジロックに反対しないのも、フジロックが開催されることに微妙な思いを持ちながら安全な場所から配信を楽しむのも、これ以上ないダブルスタンダードだなと自分を省みても思う。
矛盾を抱えてやっていくという話でもない。

少し強い言葉になってしまうけど、間接的にでも殺人になってしまうとわかっていることに加担出来ないし、したくないというのが自分の結論のようだった。
オリンピックを開催したことで助からなかった人がいるように、フジロックを開催したことで助からない人がこれから出てきてしまうことを思うと、やはり開催すべきではなかった。そしてそう思うなら配信も見るべきではなかった。
だけどフジロックを開催しないと、日々の生活がままならない人たちも多分いて、それは多くのミュージシャンが表明しているように行政が補償してくれまじで、と思う。

夕方散歩に出た。久しぶりに駅までの道以外を歩く。
夏だからなのかトイプードルとギリギリわかるくらいまで毛を刈り上げられた白いぽわぽわした生き物がこちらをチラチラ振り向きながら前を歩いていて、思わず頬が緩む。
大きな公園では家族連れや学生の男女グループが花火をしていて数メートル先が見えないくらい煙に覆われていた。ウレタンマスクの人もノーマスクの人も見かけた。ここ数日Twitterで見ていたTLとは違う世界のようだった。だけど彼らにとってももちろん私にとっても今年の夏は一度きりで、「自粛を要請」というもはや違和感さえ持たなくなった言葉では限界がある。

悲しいし怒っている。何にも出来ない自分への憤りや不甲斐なさもある。
出来るだけ多くの人が助かってほしい。出来るだけ多くの人の尊厳が保たれてほしい。そのふたつが両立していないからこんな引き裂かれるような気持ちになる。苦しい。

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