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ジェラルド・フィンジという作曲家を知っていますか?


あれは二◯一四年秋のことだった。

クラシック専門のインターネットラジオ局「オッターバ」にはまっていた。曲目紹介は一切せず、短い曲をアトランダムにかけていく。まるでアイフォンに録音した音源をシャッフルで聴いていくような感覚に夢中になった。

あるとき、パーソナリティのゲレン大嶋さんが、独特の深みのある声で「では最後にフィンジの『エクローグ』を」と紹介した。ジャラルド・フィンジ。初めて聞く名前だった。続けて流れてきたのはピアノと弦楽合奏による穏やかな曲。高原の谷間に咲いた一輪の白い百合のような清純極まりない曲だった。

「エクローグ」とは「牧歌」のこと。まさにドンピシャなのだが、この曲が生まれたのが一九二九年だと知ってまた驚かされた。シェーンベルクが十二音技法での初めてのピアノ曲「ワルツ」を書いたのは一九二三年。無調や十二音技法が現代音楽の大きな潮流になっていたこのころ、フィンジはそんなことには目もくれず、ひたすら自分の信じる音楽を創り続けていたのだ。
 
フィンジは一九◯一年、イギリス・ロンドンで生まれた。少年時代に父親、三人の兄弟、音楽の師を相次いで失くしている。成人後はロンドンの喧騒を嫌って郊外に居を構え、作曲と並行してリンゴ農家として土にまみれた。絶滅の危機にあったイングランドの多くの品種を保存したという。実に変わった経歴だ。

そんな世捨て人のようなフィンジにも、徐々に戦争の影が忍び寄る。第二次世界大戦中は戦時移送省に勤め、ドイツやチェコスロバキアからの亡命者を自宅に泊めたそうだ。フィンジらしい、心温まるエピソードではないか。

友人のヴォーン・ウィリアムズらの援助もあり、存命中のフィンジはそれなりに国内で名が知れた存在であったようだ。しかし戦争が終わり、まさにこれからというときに病に倒れる。ホジキンリンパ腫という不治の病。一九五六年、オックスフォードの病院で自身のチェロ協奏曲の初演をラジオで聴いた翌日、息を引き取る。享年五十五歳だった。

フィンジの魅力は、エルガー以来のイギリス音楽の伝統に根ざす、牧歌的田園的なサウンドにあると思う。加えて、トーマス・ハーディやシェイクスピアの詩による多くの歌曲、神を賛美した大規模な合唱曲も捨てがたい。「クラリネット協奏曲」や前出の「チェロ協奏曲」は、近年、演奏機会も増えてきた。

ナクソス・レーベルから代表曲を網羅した「ザ・ベスト・オブ・フィンジ」というアルバムが出ているので興味のある方はぜひ聴いてみてほしい。もし気に入ったら八枚組のアンソロジーもおすすめ。一枚ごとに買うより、かなり割安だ。

ところで僕が「エクローグ」に心を動かされたのは、曲の純朴さはもとより、この曲が「オッターバ」の放送休止と再開に向けての一種の象徴的な曲として取り上げられていたからだ。

「オッターバ」は当初TBSの資本で二〇〇七年に開設されたが、二〇一四年六月三〇日をもってTBSは手を引き、放送も休止になると発表されていた。それが土壇場になってナクソス・ジャパンが運営を引き継ぐことになり、同じ年の一〇月一日から「第二の開局」として放送が再開された。

僕がゲレン大嶋さんの番組を知ったのはこの「第二の開局」の直後のことだった。

どうやら「エクローグ」は番組内でリスナーとの「別れと再会」のテーマソングになっていたようだ。ゲレンさんは積極的にフィンジを紹介し、ここぞというときは「エクローグ」を流してリスナーの涙と団結を誘った。

フィンジはまさか自分の曲が、こんなふうに極東の国の一ラジオ局の存亡に大きく関わることになるなんて、それこそ夢にも思わなかっただろう。でも、なぜか似合うのだ。シンクロするのだ。フィンジの波乱の人生とその情熱を秘めた穏やかな音楽は、「オッターバ」というラジオ局がリスナーと共に自立していくストーリーに。

実はゲレン大嶋さんとは面識がある。

以前、僕が出版社の書籍編集部にいたとき、名嘉睦稔(なか・ぼくねん)という沖縄在住の版画家の絵本を編集した。そのボクネンさんの経営するギャラリーに、ゲレンさんはいた。

すでに三線を弾き、「ティンガーラ」というバンドでCDデビューも果たしていた。人懐こい笑顔と薄いサングラスが印象的だった。

ボクネンさんの絵本を世の中に紹介するために、彼はあらゆるコネを使って奔走してくれた。あるラジオ番組で五木寛之さんに取り上げてもらったり、ブックフェアでデザイン賞を受賞したりもした。でも残念ながら、その絵本はそれほど売れなかった。

絵本が市場に流れなくなるころ、僕とゲレンさんが顔を合わせる機会はほとんどなくなった。

あれからずいぶんと月日は流れた。

フィンジというかけがえのない音楽家を教えてくれたゲレンさんと、僕はまだ再会を果たしていない。でもその日はそう遠くないと感じている。

「エクローグ」の魔力は、まだまだ不滅なのだ。

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