見出し画像

サー・アンドラーシュ・シフのリサイタルを聴いて。


サー・アンドラーシュ・シフのピアノ・リサイタルを聴きに行ってきた。

札幌コンサートホールKitara大ホールの三階席のいちばん後ろ。そんな席でもシフの奏でる繊細なタッチは十分聴き取れた。

午後三時に始まって、アンコールの平均律クラヴィーア曲集第一集ハ長調の前奏曲とフーガを弾き終わると午後六時半を回っていた。休憩二十分を挟んで三時間半近く、シフはバッハ、モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンを計十二曲、ステージ上でマイクを取って自らレクチャーしながら披露した。

画期的だったのは、それらの曲がすべて事前に明らかにされていなかったことだ。

聴衆はこれからなにが始まるのか、固唾をのんで見守っていた。シフが現れ、ゆっくりと椅子に座り、おもむろに「ゴルトベルク変奏曲」のアリアを弾き始めた瞬間、僕はこの場に居合わせたことの幸せを誰かに感謝せずにはいられなかった。

 
プログラムを明かさない。それは硬直化したクラシック界へのひとつの挑戦だ。

朝、コンサートホールに行き、ピアノに触れ、ホールの響きを感じ、自分がその日の夕方になにを弾きたいかを見つめ、プログラムを決める。シフが行ったことは、キース・ジャレットと同じレベルである。彼のインプロビゼーションのように、限りなく自由に、シフは「フランス組曲第五番」を弾いた。そのまばゆいきらびやかさは、自由でいることの喜びを全身で表現しているようだった。
 
最後のベートーヴェンピアノソナタ第三十一番を、同じころに作曲された「ミサ・ソレムニス」と関連づけてシフは解説した。バッハのヨハネ受難曲のイエスが息を引き取る場面からの引用、鐘が十時を告げると「ミサ・ソレムニス」の終楽章のように世界平和を願い始めること。それらを知ったあとに聴く変イ長調ソナタのフーガは、まさに今の世に聴くべき祈りの音楽のように思えた。

 
熱狂はなくとも、含蓄深く、静かな余韻に浸れるリサイタルだった。できることなら毎日でもシフを聴いていたい。そんな気にさせるこの試みが、たった4000円で手に入るなんて、クラシックもまだまだ捨てたものじゃない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?