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音痴でも歌は歌える

術後68日目

 それなりに周囲から見ても怪我を感じさせない歩き方が出来てきたように思う。長時間歩き続けるとビッコをひきはじめたり、階段が嫌になったりするが。同じ事象でも、視点が違えば捉え方は真逆になる。怪我をする前の自分から見ると、普通の歩行に違和感を持つことは苦痛でしかないだろう。しかし、怪我、手術、リハビリを通した今の自分から見ると、現状に不満や不安こそあれど喜びも感じられている。皮肉ではあるが。
 全ての物事にも、無数の視点が存在しているので、幸せや不幸の秤は物事でなく捉え方によって大きく揺れる。過去の辛かった出来事を糧に出来れば昇華された感覚を味わうように、時系列でも視点は変わる。
 自分を幸せだと謳うのも不幸だと卑下するのも個人の自由なのだから、干渉が許されるラインが時折ボヤけてしまうことがある。ドッヂボールでは審判が目敏くラインを超えていないか注意しているが、人間関係でのラインは石灰のように明確では無いので笛が鳴ることは無い。いくら言葉を交わしても思いを交わしても分かり合えないものがあるのだから、人付き合いとはなんて厄介なのだろう。他者との交流でしか得られぬ喜びや充足感があるからこそ、より厄介だ。何より俺は独りが寂しい。

三十一音に乗せて

 図書館で偶然手に取った穂村弘さんの『短歌ください』という本が実に好みだった。五七五七七の三十一音で紡がれた言葉達が、様々な情景を歌い気持ちを揺さぶる。限られた言葉数だからこそ、綺麗にまとまっている美しさもあれば、情景に余白を残して背景の想像を広げさせてくれる美しさもある。
 そもそも日本語が好きだ。人の複雑な心情をここまで繊細に表現できるのは日本語だけだと感じている。(他の言語を使えないため想像でしかないが)
 擬音語や擬態語も美しいし、微妙なニュアンスの違いが心への響かせ具合に変化をもたらす。おそらく料理人で言うと、隠し味や調理過程の違いによる絶妙な変化がもたらす味の良さと同じなのではないか。
 出会った時に感動した言葉は「侘しい」や「嘯く」だ。類義語との感情の違いを感じる美しさがある。海で見る夕陽と山で見る夕陽は同じ夕陽だけど感じ方は違うはずだ。夏の青空と冬の青空も同じ青空だけど違う印象を与えてくる。それらを「夕陽/青空が綺麗だった」と表現するのではなく、心情を織り交ぜて言葉にできたら素敵だと思う。
 伝えたい思いは沢山あるけれど、上手く言葉にできずもどかしかったり陳腐な表現にしかできなかったりして悔しい時がある。もっと沢山の言葉に触れたいしもっと沢山の感情に触れたい。他者や世界との境界を感じて自分を感じられるように、言葉と感情に触れて自分のことも知っていきたい。自分の心情を歌ってみたい。人は笑うだろうか、それも自由だ。

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