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薄くも濃くもない塩酸

 僕は昔三鷹の駅前の学習塾に通っていて、勉強したりしていなかったりして過ごしていた。同じ中学からそこに通っているのは僕ともう一人のクラスの子だけで、取ってる授業が違ったから学校ではよく話したけどあんまり会わなかった。塾は学校とはかなり離れていて落ち着けるような場所では無かった。わいわい(yyではない)するようなところじゃなくて友達もあんまりできず、いつもお腹壊してては早く授業が終わらないかと時計とにらめっこばかりしていた。変わった先生が多くて講師室で般若心経を筆で書いたり(添削の文字は確かに達筆だった)、カードキャプターさくらの話で授業潰す先生もいた。そしてみんな総じておじさんだった。

 今から話す理科の先生も歳はかなりとっていてひざが悪くて立体起動装置みたいなやつをつけて歩いていた。その先生は「周期表をえっちな語呂で作ってきたからそれで覚えろ」とかなかなかおもしろい人だった。えっちな語呂くらい自分で作れるのにと思いながら毎週そのひとの授業を受けていた。ある冬の授業の日に「今日は今学期最後なので実験をします。みなさんは受験生でけがをしたら大変なので私がやります」と言い放った。いつも難しい東大寺学園だか法隆寺学園だかみたいな問題をうんうん解いてる授業で実験だなんて…クラスは色めき立った。

「じゃやるか」と言い出して先生は講師室に何かを取りに行った。しばらくして先生はビーカに入った液体を取り出しこう言った。

 「ここに薄くも濃くもない塩酸があります」

 高校受験の実験に使われる塩酸には必ず「薄い塩酸」を用いるのである。だから解答欄にも「薄い」とちゃんと書かなくてはいけないのだ。その「薄くも濃くもない塩酸」は僕にとっては何かのしらの聖水に思えた。普通に考えて塩酸は危ない。子供だからこぼすかもしれない。そうゆうときには濃いよりは当然、薄い方がいい。けどこの人は「オトナの塩酸」を俺に見せてくれる。それがすごくうれしかった。もうお子様ランチではもう満足できない年齢だったから。

 換気のために開けた窓から冷たい風がびゅうびゅう吹いていた。希望者にはその「薄くも濃くもない塩酸」のにおいをかがせてくれた。僕もかいだ。においというよりは鼻の奥に痛覚が走って一瞬クラっとした。「オトナ」の仲間入りである。そして先生は一通りみんなが見物したのを確認してその塩酸に黒板のチョークを二、三本取って折ってそのなかに投げ入れた。するともくもく泡が膨れ上がって白い煙が立ち込めた。白い煙が晴れると色とりどりの泡がビーカーからこぼれそうに膨らんでいた。先生はその原理を説明していたがそんなものは耳に入らず無機質な教室に得体のしれないものがあるのがただただ面白かった。

 先生は事務の人に見つかると怒られると言って僕たちを寒空の下に放り出された。「薄くも濃くもない塩酸」とつぶやきながら太宰が身を投げた川をマフラーに顔を埋めながら渡る。高校受験が間近に迫る冬のことだった。


 

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