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詩歌ビオトープ014: 吉野秀雄
詩歌ビオトープ14人目は吉野秀雄です。
そもそも詩歌ビオトープとは?
詩歌ビオトープは、詩の世界を一つの生態系ととらえ、詩人や歌人、俳人を傾向別に分類して、誰と誰が近い、この人が好きならこの人も好きかもしれないね、みたいなのを見て楽しもう、という企画です。ちなみに、傾向の分類は僕の主観です。あしからず。
この人は1902年に群馬県で生まれました。生家は有名な商家だったそうです。
高校生の頃に正岡子規や長塚節の影響を受け、慶應義塾大学に入学、しかし、肺結核を患って中退することになりました。
その頃から短歌を始め、會津八一の『南京新唱』に傾倒、後には家に押しかけて門人になったそうです。會津八一は弟子を取らなかったそうですが、この人はそんな會津八一の弟子として知られています。八一と同じく、短歌だけでなく書もしていたそうです。
24歳の時に結婚して第一歌集『天井凝視』を私家版で刊行、34歳のときには第二歌集『苔径集』を刊行しました。42歳の時に奥さんが病で亡くなり、そのことを詠った第三歌集『寒蝉集』が後に代表歌集として知られるようになります。
その後、八木重吉の元奥さんだったとみさんという女性と結婚し、重吉の普及顕彰に取り組みました。
また、44歳からは鎌倉アカデミアという私立学校で万葉集の授業を行い、生徒には山口瞳がいました。山口瞳はその後、『小説・吉野秀雄先生』という小説を発表しています。
師匠である會津八一と同じように歌壇とは距離を置き、病がちで生涯通じて貧乏だったそうです。65歳で亡くなりました。
さて、今回も元ネタ本は小学館の「昭和文学全集35」です。
本書には、『寒蝉集』から57首、遺歌集となった『含紅集』から53首が収められています。
この人の歌風は會津八一と同じく万葉調で格調に溢れている、という評価のようです。ただ、本書に収められていた『寒蝉集』は前妻の死、『含紅集』は自身の闘病を詠ったものが多かったので、あまり會津八一に似た感じはありませんでした。
ただ、たとえばこの歌
一むらの絮(わた)毛のすすき冬岡のひかりを吸ひてほしいままなる
や、
冬くさの黄なるを友と敷きなしてことば少し妹をしぞ恋へ
などは、確かに格調を感じる気がします。本書に収められていなかった歌も読んだのですが、そっちには會津八一の影響を感じる歌も多かったので、選者の好みの問題かもしれませんね。
一方、この人は正岡子規の衣鉢をつぐ、という評価もあるようで、確かに妻の死や自身の病を詠った歌は胸に刺さるものがありました。
すごく印象に残ったのは、この歌。
母の前を我はかまはず縡(こと)切れし汝(なれ)の口びるに永く接吻(くちづ)く
あと、この歌は正岡子規っぽいと思う。
わが庭に今咲く芙蓉紅蜀葵(こうしょくき)眼(まなこ)にとめて世を去らむとす
ということで、位置はここにしました。
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この人はきっと、會津八一的なものと正岡子規的なものの両方を兼ね備えていた人なのでしょうね。
個人的には、ここまで読んできた中ではこの人が一番すごいと思いました。
15人目に続く。
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