北村透谷の話その1 歌へ、汝が泰平の歌を。
今日から2回にわたって北村透谷の話をしたいと思います。
北村透谷は、日本におけるロマン主義運動の先駆けのような人です。島崎藤村の小説「春」に登場する青木駿一のモデルとしても有名ですね。詩人として、批評家として多くの人に影響を与えたのですが、若くして自殺してしまったのでした。
今日話したいのは、彼が書いた「人生に相渉るとは何の謂ぞ」という評論についてです。
このタイトル、要するに「人生に役立つかどうかということの何が重要なんですか?」ってことです。
この評論は明治26年に女学雑誌社が発行していた雑誌「文學界」に掲載されました。ちなみにこの「文學界」は後に「若菜集」に収められる島崎藤村の詩や樋口一葉の小説、田山花袋の小説などが掲載されていたロマン派を牽引する雑誌だったのですね。あ、現在文芸春秋が発行している「文學界」とは全くの別物ですのでご注意を。
さて、この評論の目的は何か、それはずばり山路愛山批判なのです。
山路愛山って誰だよ、という人もいるかもしれません。山路愛山は、この当時人気のあった批評家の一人です。
日本で近代文学が誕生した頃、「小説」というものはまだ「文学」と呼べるものではありませんでした。今は文学といえばまず小説を思い浮かべる人が多いでしょうが、この頃文学の中に小説は含まれていなかったのですね。
小説なんてものはただのお話にすぎないのだから、いい大人がまじめに考えるようなものじゃない、というわけです。
まあでもそんな小説の中で文学と呼べるものがあるとするならば、それは政治小説であったり歴史小説であったり経済小説であったり、そういう「役に立つもの」だ、という考えの人が多かったのです。
そのような認識で人気を得ていた批評家の一人が山路愛山だったのですね。
で、彼は徳富蘇峰が主催し、当時の文学(小説を含む)の先陣を切っていた「國民之友」の記者として同誌上に「史論」という記事を掲載していました。
その中で愛山はこう述べたのです。
文章を書く者は事業として社会的、経済的な影響を与えるものでなくてはならない。なぜならば、作家にとって筆は英雄にとっての剣と同じものだからだ。
武器を持つ英雄が世のためになる戦をしないことは「空の空」、全く意味がないのと同じように、美辞麗句で彩っただけのくだらない小説を書いたり読んだりすることもまた「空の空」である。
ゆえに作家はその文章がいかに世間に影響を与えたかどうかがによって評価が決まるのだ。幕末に志士達に大きな影響を与えた頼山陽がその典型である。
とまあ、そう愛山は述べたわけです。
これはつまり、「大切なものは実用的であるかどうかだ」ということになります。「結果がすべてだ」と、そういうことになるでしょう。
ということは、作家にとっては「その小説を書いて売れましたか?」「誰かに影響を与えましたか?」というようなことが大切だ、という話につながるわけです。
一方、読者にとっては「その小説を読んで何か得るところがありましたか?」「人生の役に立ちましたか?」ということがすべてだと。
(こういう考え方、現代でもしている人が多いのではないでしょうか。特に読書などというものは、それによって道が拓けると信じている人がたくさんいますし、そういう本もまた、たくさん売れているようです。
僕は、嫌いなんですけどね、そういう考え方。僕は難しい本を読むのも好きですけど、それは面白そうだから読みたくなるのであって、役に立つからとかじゃないですし)
で、透谷もまた、そんな意見に対してはっきりと「No」をつきつけたのですね。
そうじゃないだろう。そんなこと、どうだっていいじゃないか、と。そしてそのような価値観は、実は小説の批評に限らずさまざまなものに対する批評眼としておかしい、と透谷は主張したのでした。
まあ実際、山路愛山のように実用性を主張する人たちも、大抵問い詰めていけば最後には「私がどう思うと私の自由だ」とか言い出すものなんですけどね。
しかし、忘れてはならないのは、「実用性」なる概念は本質的にそれが自分のためであろうと社会のためであろうと、「公共的であることが正しい」という原理の元に成り立っている、ということです。
そして、よくよく考えれば明らかなことなんですが、「公共性」と「個人の自由」というのは突き詰めればどちらかを選ばなければならなくなる問題なのです。元々両立しないものなのです。
だから「公共性の正義」に依って立つ「実用性」を主張する人が「個人の自由」を主張すること自体、もう本質的に矛盾しているのですね。なので、どうせ最後は半ベソかきながら個人の自由を主張するのなら、最初から実用性なんて主張するんじゃねえよ、と僕は思うんですが。
ま、こんな考えを理想論とか屁理屈と感じる人も多いでしょうけど。
なんか話がズレたかもしれないので、もうちょっと具体的な話をしていきましょう。
本論において透谷は愛山の姿勢や主義を批判しているだけではありません。実際に批評家としての愛山の評価そのものも批判しています。
たとえば、愛山は江戸時代の戯作者として山東京山、柳亭種彦、曲亭馬琴を比較し、最も評価されるべきは山東京山である、としています。それはなぜか。その理由は、後の研究によって京山は当時の世相や風俗といったことをより克明に、写実的に表現していることが分かっているためです。つまり、京山の作品を読めば、この頃の様子がよく分かる。歴史的に価値があるから素晴らしい、と。
一方、曲亭馬琴はその内容に歴史的でたらめが多く、馬琴の主観的表現が多すぎるからよくない。種彦においては生まれが庶民でなかったために庶民の暮らしが分かっていないからダメだ、とこう言ったわけです。
でも、そうなのでしょうか。この批評、なんかおかしいと思いませんか?
(ところで、山東京山という戯作者のことをご存知の方ってどれくらいおられるでしょうか。山東京伝なら聞いたことがあるという人も多いでしょうが。その京伝の実弟です)
もちろん、愛山が個人の趣味として京山が好きだったとして、別にそれに異を唱えるものではないのです。それこそ、そんなの「個人の自由」ですから。
この愛山の論のおかしさは、彼が批評において必要な「客観性」を勘違いしているところにあると言えるでしょう。
嗜好や趣味、偏見、独断という自分の趣味をさらけだすことと「批評」とは別のものです。そして、愛山が浅はかなのは、「実用性」なる概念を持ち出すことによっていかにも自分が「客観的」な態度をとっているように振舞いながら、結果として己の嗜好や趣味、偏見、独断を披露しているに過ぎない点です。
つまり、「なんて客観的な俺」という自意識過剰な態度そのものの主観性にご本人が気付いていないところなのです。
と言っても、これは当時のことだけに限りません。現代でも愛山と同じような人は山ほどいるでしょう。小説の話だけでなくありとあらゆる分野において、「実用性」なる一語をもって「主観的に」文化を評価し、判断しようとする無粋な輩が。
透谷は言います。源頼朝という人は確かに一大事業を成し遂げた人であり成功者だよ。それと同じように、西行やシェークスピア、ワーズワースも成功者なんだ、と。ただ頼朝と西行らは、何を人生の目的としたかが違っているだけなのです。
西行という人は、その時代においては何の「実用性」もなかった人かもしれない。シェークスピアしかり、ワーズワースしかり。しかし、後世の僕らは彼らの残した書物に触れ、そこから何かを得ることができる。得ようとする意思のある者であるならば。
そこで透谷は愛山の「空の空を撃ちたり」という言葉を逆手に取って反論するのですね。
そうだよ、彼らは「空の空を撃ちたり」し者だ。だから素晴らしいじゃないか、と。彼らは頼朝のように敵という人間を撃ったりしなかったのだから。それでいて後世に名を残しているのだから、と。
そして透谷は愛山に言うのですね。お前頼朝の墓に行ってこい、と。そうしたら頼朝もまた、現世での成功のために戦したわけじゃないことが分かるだろうから。
「実用性」や「有用性」は今現在に「役に立つ」が故に成功へと導くかもしれない。でも、実はそうであればあるほど今現在にしか役に立たないのです。一方、「空の空の空を撃ちて、星にまで達せんとせし」者の言葉は、もしかしたら現世では役に立たず成功にもつながらないようなことかもしれないけれど、実は時間を越える「普遍性」がある。
「小説なんて読んで何か役に立つですかぁ?」という輩には、こう言ってやればよい。「じゃあ、読むなよ」と。別に、読まなくても死なないよ。
そうしてその人は生きている間にたくさん金を儲け、たくさんの女(あるいは男)を抱き、たくさんの美味い飯を食い、生きている間の自分の欲を存分に満たして死ねばよい。どうせ死んだとて死後の世界があるわけじゃなし。死後に名前を遺したとてそのことを自分自身が知りえて満足できるわけでもなし。
ただ、なんでしょうね。人は霞を食って生きていくわけにはいかないという事実、それが事実だということなんて、みんな知っているわけです。たとえロマンチストであっても。だからいつだって、現実世界で勝つのは愛山のようなリアリストたちです。
所詮僕らは単なる物質の塊にしかすぎない。どれだけ長生きしても100年とちょっとの時間しか所有していない。それが事実。でも、それを認めることは、僕ら自身を一人の「人間」から単なる「数字」や「記号」へと変換してしまうことでもある。
そのことを「空しい」「悲しい」と感じるところから「小説」なり「芸術」というのは始まるのでしょう。頼朝もまた、そうであったのではないでしょうか。「政治」もまた、そこから始まるものであって欲しいものです。
僕はね、正直なところ、別にいいと思ってるんですよ、誰かが現実主義者や唯物論者であったとしても。そういう思想を持つ人がいたとしても。ただ、その人が赤の他人だけでなく自分自身や自分の家族も「数字」や「記号」にすぎないと認識できるのでしたら。
でもそんな人、見たことないですけどね。そういう人はみんな、自分の周りはすべて「物質」に過ぎないのに、なぜかご自分だけは「物質」ではないと思っていらっしゃる。「なんて客観的な俺」という己の姿を鏡に映して見れる人なんて、見たことないわけです。「なんて客観的な俺」と思いたいなら、まずは己自身がただの「数字」や「記号」や「物質」にすぎないと客観的に認識せよ。
そして本当に己自身がただの「数字」や「記号」や「物質」にすぎないと客観的に認識できたならば、その虚しさを知っているならば、きっとこう思うでしょう。そんなこと、他人には決して言うべきことじゃない、と。自分は「数字」や「記号」や「物質」にすぎないとしても、誰かに向かってお前もそうだ、とは言うべきじゃない、と。
透谷も言うのです。「実用性」という狭い部屋の中の法則に安寧する者はすればよいと。「歌へ、汝が泰平の歌を」と。
自分だけが人間で自分以外はすべて物質だと思えば、世界はなんて平和でしょうか。
そうやって歌いながら、その人は現世という狭い部屋の中に閉じこもって楽しく暮らせばよい。飲め、食え、抱け、騒げ。自分の快楽の部屋の中に閉じこもってさえいれば、その外にある本当の「現実」なんて見なくてもすむだろうから。どうせその部屋の外に出るときは、もう死んだときなのだから。
しかし、本論の最後で透谷はこう述べるのです。
しかし、文士であろうとする者はそんな狭い部屋を出て、空を見上げよ。その空の向こうにあるものを見よ、と。
それは、いかにもロマンチストらしい非現実な妄想でしょうか。
でも僕には、そう言って笑う人々もまた、現実を見ているとは思えないのです。
なぜなら、人は夢を見るのが当たり前なのだから。お前は夢を見るな、なんて言う権利のある人など、この世にはどこにもいないのですから。
(おまけ)
ちなみに、山路愛山はこの評論がきっかけで「俗物」というあだ名が付けられたそうです。
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