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これって私の感想ですよね。

今、中公バックス世界の名著のベルクソンを読んでいます。

まだ読み始めたばかりなのですけど、読み始めたらすぐめちゃくちゃ面白かったのでその話をします。

この本に収められているのは「形而上学入門」「哲学的直観」「意識と生命」「心と身体」「脳と思考」「道徳と宗教の二つの源泉」の5タイトルです。

最初の「形而上学入門」の冒頭で、ベルクソンは言うのです。僕らは何か形而上学的な対象について考えるとき、二つの方法をとる、と。

一つは、分析する方法です。科学的手法と呼べるのかもしれません。客観的な立場から対象について考えるわけです。

でも、この方法にはデメリットがあります。というのは、この方法の場合、その答えは必然的に相対的になるのです。つまり、この方法で絶対的な答えには辿り着けません。

なぜでしょうか。その理由の一つは、結果が観察者の状態に依存することにあります。たとえば、動いているボールの速さを知りたい場合、止まった状態で計測するのと、自分も動いている状態で計測するのとでは結果が異なりますよね。

「客観的に考えると〜」なんてことを言いたがる人は大抵自分が止まった状態でものを見ていると思い込んでいるものですが、実はそんな保証はどこにもないのです。そんなことを言っている人自体が動いているかもしれない。偏見とかバイアスがあるかもしれない。てか、あるでしょう、きっと。ないわけがない。

さらに、客観的に対象を分析しようと思うならば、その人は何らかの記号を用いなければなりません。数字とか。なぜなら、記号によって記述しなければ、誰が見てもわかるようになりませんから。

つまりそれは、対象をわざわざ記号に翻訳している、ということです。

でも、翻訳というのは、必然的に不完全なものです。たとえば、与謝野晶子の短歌や松尾芭蕉の俳句の英訳だけを読んで誰かイギリス人やアメリカ人がそれを理解した、と思ったとしても、僕ら日本人は「いや、ちょっと待て」と思うでしょう。そうなんです。そんなことは、そもそも不可能なんです。

これらの理由から、観察し、分析する手法は当然自然科学には有効ですが、形而上学にはそうではないことがわかります。真とか善とか美とか愛とかいうものを科学的な方法で考えることは原理的にできないわけです。だから当然、科学者だってまともな人はそんなことしようとは思わない。

では、どうすればよいのでしょうか。ベルクソンは、分析ではないもう一つの方法がある、と言います。それが、直観です。直観的に考える場合、僕らは形而上学的な対象について絶対というものに到達できます。

たとえば、僕が「今日は寒いなあ」と言ったとします。すると誰かが「そうかなあ。むしろ暑いよ」と答える。また別の誰かが「今の気温は25℃だよ。寒いわけないだろう」と言う。

このとき、僕が感じた寒さは間違っていたのでしょうか。そんなことはないですよね。他の人が暑いと感じたとしても、気温が25℃の夏日だったとしても、僕がそれで寒いと感じたことそのものは、誰にも否定できないのです。だって感じたんだよ、仕方ないじゃん、となる。

ある意味デカルト的、とも言えるのかもしれません。「我思う、故に我あり」なんです。自分の存在、というものは絶対なんですよね。今僕はこの文章を読んでいるあなたに問いかけるように書いているけれど、そんなあなたが現実に存在するかどうかは、実はわかりません。この文章は、もしかしたら誰にも読まれないかもしれない。でも、この文章を書いている僕だけは確実に存在しているのです。

だから、直観は必然的に絶対であり、それは完全であり、無限である、というわけです。

というここまでは「形而上学入門」における最初の4ページの話なんですが、いや、もう既にめっちゃ面白い。

で、ここまで読んで、僕はあの有名な「それってあなたの感想ですよね?」を思い出したのでした。

なんか、小学生の間で流行ってるらしいですね。僕は性格の悪いオッサンなので、その話を聞いたとき「いやいや、小学生レベルの知識しかない貴様ら小学生が感想ではないことを言えるわけなかろうが」と思ったのですが、それは内緒の話です。

何の話をしているかにもよるのですが、こと形而上学的話題に関する限り、もしも誰かから「それってあなたの感想ですよね?」と言われたら、「ええ。そうですが何か?」と答えるのが正しいのでしょう。

形而上学的なテーマ、たとえば正義とか、愛とか、そういうことに関しては、実は直観的な感想こそが絶対なんですね。だから共感によって広まっていく。

一方で客観的な分析というのは相対的なものだから何も言ってないのと同じ、ということになるわけです。


でも。でもですよ、実は僕が今日話したいのは、だから直観が大事なんだ、直観こそが絶対なんだ、ということではないのです。

というのは、僕はさっきも言ったように、性格の悪いオッサンなんです。だから、敢えて口には出しませんが、心の中で自分より若い人に対しては「フン、若造め」と思っていることがよくあるのです。ごめんね、若者たち。(でも君らだって「フン、オッサンめ」って心の中で思ってるんでしょう?)

この「フン、若造め」の根拠はいったいどこにあるのでしょうか。それは「俺は年上だから若者よりも経験豊富でものがわかってる」という自負心です。

とはいうものの、そんな保証は実はどこにもないのです。それに、仮に僕が若者よりも経験や知識が豊富だったとしても、そのことと僕が「正しい」ことは、実は何の関係もないのです。それに、ベルクソンによれば、経験や知識という客観的な根拠に依存していくらものを言ったところで、その言葉は相対的にしかならないのです。

だから、実は結局僕も「それってあなたの感想ですよね」と言っている小学生と同じ態度でいるのです。誰が誰を馬鹿にしとんねん、って話です。

で、「俺はそんなの嫌だ。やっぱ絶対がいい!」って思ったとしましょう。

ところが、そっちはそっちで地獄なのです。なぜなら、僕の直観や感想が絶対であるならば、当然「はぁ? お前マジか」と思うような小学生の直観や感想も、これまた絶対なのですから。そうでなければならない。絶対というのは、そういうことなのです。

それを僕は、僕の中のオッサンは果たして受け入れられるのか。

うーん……。

ということで、この問題についてどうしたらいいのかは僕にはわかりません。

とりあえず僕はこのめっちゃ面白いベルクソンの本の続きを読みながら、あと、なるだけ性格が良くなるよう努力しようと思います。

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