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【鬼滅の刃】煉獄杏寿郎が死ななければならなかった3つの理由

※劇場版「鬼滅の刃・無限列車編」とコミック22巻までのネタバレを含みます※

素晴らしかったですね、劇場版「鬼滅の刃・無限列車編」。映像・音楽・声優陣の演技とどれをとっても一級品で、ストーリーを知っているのにボロボロ泣かされました。見終わった後は「煉獄さん…」しか言葉が出なかった。エンドロールが流れ始めても誰も立たず、身動きせず。すべてが終わってもすぐに立ち上がる人も声を漏らす人もなく(すすり泣きの音は聞こえたけど)、観客全員がまだ物語の中にいるような空気でした。

炎柱・煉獄杏寿郎の強さと信念をあますところなく描いた劇場版

作中で煉獄杏寿郎が戦死したときに残念だったのは、好きになったばかりのキャラが退場してしまったことではなく、その描かれ方がやけにあっさりと短かったこと。直前の魘夢との対決は炭治郎が中心だったので、煉獄が戦うシーンをもっと見たかったし、炎柱の強さ・凄さをもっと感じたかった。

この小さなフラストレーションが、劇場版では見事に解消されました。いや、それ以上です。見終わった後に「これ『鬼滅の刃・煉獄杏寿郎編』て映画だったっけ」と錯覚を起こすくらい。特に後半は炎柱の死闘と煉獄杏寿郎の生き様を描いた物語になっていました。原作では短めの尺にまとめられている戦いを分解して再構築し、あらゆる角度から丁寧に濃密に描いてみせる手腕のすさまじさ。

原作に描かれていない、いわば「行間」の部分を可視化することって、ある意味ゼロから新しいものを生み出すより難しいことだと思います。アニメーターさんてすごい。

好きなマンガのアニメを見ることも初めてだったのですが、マンガと劇場版は全く別物ですね。リンゴを生で齧るかアップルパイにして食べるかの違いみたいなもんで、みんな違ってみんないい。

劇場版は色・動き・音楽の表現が素晴らしかった。水や炎のエフェクトが大画面いっぱいに広がる迫力。闇の中に光る眼が現れたときの不穏な空気。光る刀身の美しさ。夜の闇の深さ。自分もその場にいるような気さえしました。猗窩座は彩度低めの彩色になっていて、なんだかやたらかっこよかったです。術式展開の描写もめちゃくちゃかっこよくて、そう来たか!と鳥肌が立ちました。

場を仕切って展開させる音楽のクオリティも本当に素晴らしかった。猗窩座が歪んだギターの音を背負って登場したときは「キターーー!!!」と叫びそうになりました。そこから続く煉獄と猗窩座の戦いは視覚・聴覚に声優陣の魂の叫びが重なり、息継ぎに困るくらいのド迫力。ライブを見てる感覚に近かったです。

最後は叫びっぱなしだった声優陣、喉は大丈夫だったのでしょうか。炭治郎の「煉獄さんの方がずっと強いんだ!」、伊之助の「信じると言われたなら、それに応えること以外考えるな!」という叫びには特に泣かされました。原作を読んでセリフを知っているのに、それでも泣かせる演技がすごすぎる。二人の煉獄さんへの思いを通して、私たちもさらに煉獄さんを好きになってしまうという構図。

鬼滅の刃でなぜ煉獄杏寿郎は死ななければならなかったのか


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「煉獄死す」は、鬼滅の刃における屈指の衝撃シーンではないでしょうか。柱の全貌が明かされたばかり、中でもリーダー的存在に思われた一人の柱が登場してすぐに死ぬ展開に私も衝撃を受けました。

強く、優しく、正しいヒーローである煉獄杏寿郎。柱だし物語序盤だし、相手が上弦の参でも何とかして勝つでしょ、とのんびりページをめくっていたら、予想を裏切りあっけなく死んでしまいました。戦いの仔細も分からず気づいたら大負傷。展開が速すぎる。遊郭編くらいの長さで描かれていれば、もう少し納得感があったかもしれません。

しかし、作者が「物語として成立するか」に重きを置いてストーリーを組み立てていたことを知り、物語が終結に向かって加速するコミック22巻まで読み終えた今なら理解できます。煉獄杏寿郎の早すぎる退場は必然だったのだと。

1)上弦の鬼の強さを示すアンカーの役割

下弦の伍は水柱・冨岡が「凪」という技を繰り出しあっさり勝負がつきましたが、上弦の鬼は「113年間倒せていない」という設定。柱一人&まだまだ力不足な3兄弟で上弦の鬼を仕留めてしまえば、「今までの鬼殺隊が弱すぎたの?何してたの?」と上弦の鬼の強さに疑問符がつきかねません。

「上弦がこの程度なら鬼舞辻無惨にも勝てるんじゃね?」となれば「数百年鬼と戦い続けているが鬼を退治できていない」という物語の土台を揺るがします。鬼は登場人物が命を懸けて倒す強い敵であらねばならない。

鬼の強さを示し、主人公・炭治郎が歩む道のりが険しいものだと描写するために、鬼殺隊を支える「選ばれた剣士」の煉獄は討たれなければならなかった。事実、この戦いをきっかけに炭治郎は大きく成長していくことになります。

そして主要人物だろうが柱だろうが死ぬときは死ぬ。鬼滅の刃は先の読めないサバイバル戦なのだと高らかに宣言し、一層読者を惹きつけたのだと思います。

2)作品のテーマ「受け継ぐ」の象徴

鬼滅の刃のメインテーマは「肉体は滅びても思いは受け継がれ永遠に生き続ける」だと感じています。

炭治郎は「俺が死んでも誰かが鬼を倒してくれる」から一戦一戦を命がけで戦う。煉獄は「後進の盾となるのは柱の務め」と当時力不足だった炭治郎たちを戦線から退けた。柱となった冨岡は錆兎の意志を受け継ぐために再奮起した。永遠の生命を求める鬼舞辻無惨との対比で、産屋敷が「自分はもうすぐ死ぬが特に問題はない。思いは数百年と受け継がれていくから」と描かれているのも象徴的ですね。

炭治郎は「鬼になった妹を人間に戻したい」という個人的な願いを叶えるために鬼と戦っていましたが、煉獄が死んだことによりその願いが「誰かの思いを受けとってつないでいく、という形に変化をしていきます。煉獄の思いと煉獄の日輪刀の鍔(つば)を受け継いで戦いを続ける炭治郎。そしてこの煉獄・猗窩座戦が、炭治郎と冨岡が上弦の参・猗窩座を討ち取るというストーリーにつながっていきます。

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3)適役が他にいなかった

炭治郎にバトンを渡した煉獄。煉獄は炭治郎をはじめ、伊之助や音柱、霞柱などの回想シーンに度々登場します。回想されるシーンが全部ポジティブな文脈なのが煉獄らしい。霞柱が炎の形の鍔を見て煉獄を想うシーンが一番グッときました。炭治郎にとっての煉獄は、心が潰えそうな時に「心を燃やせ」と鼓舞する人であり、反復動作のトリガーにもなっているくらい重要な役割。

この役割は「正」のキャラでなければ演じられない。風柱や蛇柱は「正」ではないでしょう。個性が強く主人公というよりは名脇役のポジション。どちらかといえば「雨の中で捨てられた子犬を革ジャンにくるんで家に連れ帰る」的な魅力です。それに風柱は弟との、蛇柱は恋柱とのストーリーが待っている。

他にこの役を担えるとすれば冨岡でしょうか。炭治郎が初めて出会った鬼殺隊員であり、炭治郎を鬼殺隊の隊士にするべく育手に送った冨岡も、バトンを渡すのには適役といえます。しかし冨岡は最終決戦まで炭治郎の成長を見届け、共闘するという役目がある。半分は消去法で煉獄にその役回りが与えられたと考えられます。

煉獄杏寿郎は永遠に鬼殺隊の柱であり続ける

読み返すごとに泣ける「黎明に散る」。やるべきこと、果たすべきことを全うして死んだ煉獄。単独の戦いで死亡した柱は煉獄のみ。無限城の戦いは総力戦あるいはチーム戦なので、一人の柱ににスポットライトを当てることが難しい。劇場版として「煉獄杏寿郎の物語」をじっくり描くことができたことを考えれば、早すぎる退場もラッキーと言えないこともないかもしれません(笑)。

公開初日に映画を見に行ったのは初めて。普段ネタバレとかも気にならないタイプですが、世間の感想を一切目にしないまっさらの状態で鑑賞し、自分の感受性だけで作品を受け止めあれこれ思いを巡らせられたことは楽しい体験でした。二人の激戦をまた見たいので、もう一度映画館に足を運ぶつもりです。

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