物語中毒

 「脳内麻薬中毒なんじゃないの?」と、同居人(同性・友人)から言われた。言わんとしていることは分かったけど、否定も肯定も出来なかったので、曖昧に「そうかもね」としか答えられなかった。

 昔から、本当に小さい頃から、物語に親しみ過ぎている。物心ついてから小学生くらいまでは、母親から絵本の読み聞かせを受けて育った。低学年の頃は妹と一緒に寝ていたので、その頃も。生まれてからそれくらいまで、ほとんどの夜は寝物語を与えられて育った。

 読み聞かせが終わる頃と前後して、自分で本を読むようになった。両親も本が好きで、色々勧めてきた。すぐに思い出せるのは「ルドルフとイッパイアッテナ」「はてしない物語」「ハリー・ポッター」「ローワンと魔法の地図」などなど。伝記や図鑑はほとんど読まなかった。

 中学に上がってからはライトノベル、高校はそれに加えてノベルゲーム。「灼眼のシャナ」や「ひぐらしのなく頃に」とか。アニメもその辺りから見始めた。自分のゲーム機を手に入れたのもこの頃。「レガイア伝説(PS2)」「.hack」と色々友達から貸してもらった。今でもその時のワクワク感を追い求めているところはある。

 大学生からはギャルゲー。女の子との交流なんて人生通して全然なかったので、ドハマリした。あとTRPG。物語の登場人物になる、という体験は鮮烈過ぎた。思い入れのあるセッションはいくつかあるし、長編キャンペーンをやってくれる心優しい(泥沼に引きずり込みたがっている)GMもいた。

 あとはサークル活動で小説書いたり。ノベルゲーム作ったり。これ以降、書いたり書かなかったりする期間が周期的に来るようになる。

 大学でかなり自分に影響を与えた人間が何人かいたんだけど、そのうちの1人から「多分刺さる」と言われて「ICO」を進められた。言葉の通りぶっ刺さった。未だに「ICO」より思い入れのあるゲームに出会えていない。(その時その時で、このゲーム最高! となるようなゲームはある)

 社会人になってからは、マンガを買い始めた。それまでは、2、3タイトル続巻を買い続ける程度だったんだけど、ある程度自由にできるお金が生まれて、『知らないマンガを買う』という趣味が出来た。ただ、2巻以降買わないことが少なかったので、そんなにタイトル数が増えはしなかったけど。あとギャルゲーというか、エロゲーの好みが尖り始めた。他に、TRPGで超長編に参加したり。FF14とかいう超ビッグタイトルのネトゲ―始めたり、止めたり。テレビドラマもちょこっと見た。敬遠していたソシャゲーに手を出したりもした。結局続いているのが、メインストーリーの骨組みがしっかりしているものばかりなのは、さもありなん、と言ったところか。あと、これも敬遠していた「小説家になろう」。いっぱい読んだし、思ってたよりも面白い作品がいっぱいあった。ネット小説独特の、ダラダラと気持ち良い話が続く構成は中毒性が強い。

 他にも細々とした趣味はいくつかあるけど、金額・時間・思い入れのどれをとっても『物語』の要素が入る趣味の割合が圧倒的にデカい。

で、こっからが本題

 俺は現実より創作物に傾倒する比重が強い。心の中を「物語」が占める割合が大きすぎて、現実を蔑ろにしがちだ。「物語」の与える刺激の中毒になって現実での活動がおざなりになっている可能性はある。なので、「脳内麻薬中毒なんじゃないの?」という指摘は否定できなかった。

 状況的に明らかなのでは、という意見に対してはNoと言いたい。習慣により、創作物に依らない幸福感受性が退化したために「物語」に依然している可能性もあるので。

 二つの可能性のうち何が違うのかと言うと。これはただの見栄かな。あるいは怖いのかも知れない。「中毒だから」という理由で物語を取り上げられるのは怖い。でも「幸福感受性の退化」なら、現実で楽しいことを探してみよう、という解決方法になるので。

 現実で生きるのはそこそこ失敗している。今現在、三十目前の無職。幸いにも、まだ付き合ってくれる友達はそこそこいるけど、金銭的にその内趣味が合わなくなるかもしれない、と心配。適応障害という病名で、現在傷病手当で食いつないでいる。ちなみにこれで二度目。一回目も二回目も、非の打ちどころのない会社ではなかったけど、白か黒かと言われたら25%くらいのグレー。病む人もいるだろうね、くらいの会社。実は間にバイトも挟んでいるので、段々朝起きられなくなっていったのは都合4回。全部何かしらの問題にはなった。

 現実に比べて、フィクションは楽だ。ほとんどの場合、主人公に感情移入をしたり、努めて没入できる環境を整えて観る。彼らは大抵自分より果敢に『現実』に立ち向かい、何かしらの変化を得ている。いくら共感しようと、入り込もうと、俺はその間に文字や映像をインプットしているだけ。現実への抵抗も、抵抗の方向性を一生懸命考える必要もない。

 しかし、ここに至って現実逃避と言われてもピンと来ない。物語に親しむのが当たり前すぎて、現実での活動にエネルギーを割くのが特別だ。友達とどこかに遊びに出かけたりとか、法事・葬式・親戚に顔を見せたりだとか。そういうのは、特別なイベントだから踏ん張っている。今にして思えば、会社への出勤は毎日『特別』だったのかも知れない。こういう人間からしてみると、現実に執着して感情的になる人が、物語逃避を起こしているように見える。まあ、自分が現実での刺激に鈍感なわけではなく、逆に耐性が無くて敏感になっているところもいっぱいあるのだけど。

 そういう訳で、「脳内麻薬中毒」「物語中毒」と指摘された場合、認めたくないし、そういう方向性で分析されるのは面白くないけど、そういう捉え方もあるかも知れない、という答えになる。

生き方

 あるのかなあ。まあここで無いと答えてしまうと、誰かに一生面倒を見てもらうか、死ぬしかなくなってしまうので。あるという体で今後も生きていきたい。

 仮に、自分が「物語中毒」だった場合。治すか、突き抜けるか、上手く付き合っていくか。治すというのは文字通り、物語抜きをすること。ただこれは成功するビジョンが見えない。禁煙に例えると、分かる人には分かってもらえると思うのだけど。物心の付いたころから嗜んでいたものを、今から控えられるか、何かに置き換えられるか、ということ。出来るまで、一体どれくらいの時間がかかるか、どれだけ苦しい思いをするのか。正直に言ってかなり怖い。しんどいし、想像するだけで心を虚無が浸食してくる。既に胃がシクシクしてる。止め止め。

 「物語中毒」を病んだまま突き抜ける場合。クリエイターや、それを補助するような仕事で頑張って収入を得る。すごく頑張んなければいけないだろうなあ。この解決法を選ぶ場合、狂ってしまった方が楽かもしれない。

 上手く付き合うルート。折衷案。仕事に関わらず、日々の糧として物語をセーブして楽しむ。既に4回失敗しているので、自信は全く無い。突き抜けルートで失敗した場合、強制的にこのルートになる。

 「物語中毒」ではなく、「幸福感受性の退化」状態の場合。ぶっちゃけ鬱状態のようなものなので、食事・運動・睡眠の習慣を見直して、良質な物語の接種を含めた楽しい活動をして元気になりましょうね、でおしまい。

明日からどうしようかというと

 つまんない結論になるけど、実はどの解決法でもやることはそんなに変わらなかったりする。(物語抜きを除く) そもそも何かすんごいことをやろうとしても踏ん張れない状態なので。

 元気になれる創作物を摂取して、気ままに何か創る。実は細々やってるんだけど、それで疲れることもあるから気楽に、気まぐれに、タスク化しないでやる。それからお外に出て楽しいことをやって、ご飯をしっかり食べて睡眠をちゃんととる。まあこのちゃんとってのがくせ者で、今上手くいってないんだけどその解決方法また別の話。

 結局この文章を書いた後と前でやることは変わらないんだけど、文章にまとめるとちょっと気が楽になった。コロナ予防接種まだかな~。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?