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635弱いヤクルトが戻ってきた

プロ野球のヤクルトが6連敗。ダントツの勝率でセ・リーグの勝利数貯金を独り占めしていたのがウソみたい。純粋にペナントレースの盛り上がりを望む人たちは大喜びだが、この際、考え直してみることはないか。それが今回のテーマ。だって問題提起する好機は今日しかないかもしれないもの。
勝ち数が負け数の2倍以上だったのになぜ負け始めたか。
理由は簡単、主力が軒並み欠場しているから。その原因はコロナ。空気感染症だから、いっしょに移動し、いっしょにベンチに入り、声出して声援していれば、うつし合うのが道理。それで大量感染が判明。PCR検査で芋づる式に見つかり、片端から隔離措置になっている次第。ついには監督まで陽性判明して戦線離脱。コーチの一人が急遽、指揮を執っているが、準備不足の予備選手をつぎ込んでも簡単に勝てるわけがない。それで6連敗。このところの雨続きで4試合が中止になっている。その中止がなければ高い確率で10連敗だっただろう。それでも貯金のせいで首位陥落はないのだが…。
隔離中の主力も順次復帰し、監督も戻ってくるから、負け続けることはないだろう。終わってみれば今年もヤクルトの優勝ということになっているかもしれない。そうなってしまえば7月の大連敗は忘れ去られる。それではいけないと思うのだ。

高校野球の地方大会でも、選手の中に陽性者が出たのでチーム自体が出場を辞退という例が散見される。チーム内の感染防止が絶対優先事項なのか。この際、野球ファンのみならず、国民みんなで考えるべきことがある。声には出さないが、同じことを考えている人は少なくないはずだ。
コロナ“発見”時ではコロナの素性がわからず、厳格対応は公衆衛生上の措置として正しい。その後、コロナの毒性はさほど強いものではないことが分かってきており、ウイルス自体が変異を繰り返すたびに、「感染力は強まり、毒性は弱まる」という一般理論どおりに推移している。

国民のワクチン接種は進んでいるが、“感染防止”から“重症化阻止”へと推進の説明が微妙に変わってきている。それではワクチン接種していないと感染者はバタバタ倒れてしまうのか。感染者の重度化率を知る必要がある。例えばヤクルト球団の感染選手の内での重症化率はどうなのか。報道を斜め読みする限りでは、ほぼゼロのような気がする。
よほどのことがない限り、元気を回復するのであれば、子どもの頃にかかったハシカのようなものではないのか。子どもの頃、一人が外でもらってきて兄弟全員が一気に感染し、寝床に並んで高熱にうなされたが、母親は「通過儀礼が一気に片付いてよかった」と笑顔だったのを覚えている。
コロナとハシカは別物だと専門家は顔をしかめるだろうが、感染防止できないのであればさっさとかかってしまう選択肢もあるのはないか。ワクチン接種とは人為的に感染させて免疫を取得させるものであった。

中国では陽性者が一人出ると地域封鎖をする。習近平が「地上にコロナウイルスの存在を許さない」と述べている以上、感染者はいてはいけない。専制体制社会ならではの「ゼロコロナ政策」の本質である。指導者の指令は絶対であるのだから、そのとおりの社会でなければならない。そんなの無理だと笑う人がいるが、ボクは同調しない。世界中が同じことをすれば、そして陽性者の発見、隔離、抹殺を厳格にやれば、実現できる。
ただしそれがあるべき政策なのか。「民主主義体制の道ではない」。それが西側諸国の「ウイズコロナ政策」である。ウイルス蔓延防止と平常社会活動のバランスを取ろうということだから、実際の対策は状況に応じて千差万別になる。その些細な一分野がプロ野球での選手感染対策であり、今回のヤクルトをめぐる対応になるわけだ。
蔓延防止に軸足を置くならば、学級閉鎖にならってヤクルトの全選手を自宅待機にするのが合理的。だけどそれでは相手チームを含めて興行収入を失う。球界としてそれは困る。かといって自粛らしいことを何もしないとバッシングがありそうだ。“総合判断”の結果、ヤクルトは負けが混むことになるが、今までの貯金があるからちょうどよかったということではないか。もしコロナ流行が別チームであれば果たして同じ対策になっていたか。
政府の分科会から理詰めの説明があるなら聞いてみたいものだ。「ウイズコロナとは試行錯誤しながら進める」が多分正解のはず。そうであればどのように試行錯誤すべきかについて、国民大衆の意見を聞いてもいいはずだ。
その場合、当事者の意見は重要だ。ヤクルトの高津監督は、大事な時期に感染して申し訳ないといったコメントをしたように記憶する。それだけだったのだろうか。ほんとうは言いたいことがあったのではないか。
ともあれ民主主義運営をするうえでコロナは格好の議論の題材のはず。しかるに「コロナしょせん風邪の一種」といった分析を述べることがはばかられる空気が支配している。ウイズコロナと言いつつも、実態は限りなくゼロコロナ的な政策が、討論なしに継続されている。国家的課題はほかにあるだろうに。杞憂だろうか。

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