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829『超限戦』を読む 世界政治のリアル

 2001年9月のビン・ラディンによる同時多発テロを予言したとしてベストセラーになった。喬良・王湘穂著で1998年に中国解放軍文芸出版局から発行。
著者は過去の戦争は常に「欺瞞」であるとする。民主主義の守るため、虐げられた階層を救うため、民族自決のため…。しかし「公的に掲げられる目標と隠された目標はいつも別であった」。国家が自らの欲望を達成するために実力を行使することを「戦争」とするならば、なぜそれを殺傷兵器使用行為(旧来の戦争観)に限定しなければならないのか。条約等で制限をしても守られたためしはない
ならば正直になるべきだ。主張をこの一言にまとめることができる。「戦争の認識を変えなくではならない」。これからは「非職業軍人が、非通常兵器(それまでの常識では兵器とみなされていない諸道具)を使って、罪のない市民に対して、非軍事的領域で殺傷を内容としない戦争手段として実行すること」をも、戦争の形態なのだと認めることだ。そうした認識で国内世論を固めた国が世界の支配力を獲得できる。
 旧来の戦争概念に縛られた場合、兵器のハイテク化においついけない国家は常の敗北することになる。それではアメリカ等の経済大国に勝てない。しかし使う道具の制約を外してしまえば様相は変わる。北朝鮮のサイバー組織によるマネー強奪は、彼らとしては正しい戦争行為であろう。交通機関制御のコンピューターシステムをハッキングして大事故を起こさせることも当然含まれる。フェイクニュースで選挙を混乱させて国内の世論分断と内乱を起こさせるのも有効な方法だ。
「一定のルールを遵守し限定された力で限定された目標だけを達成する国家と政府軍は、いかなるルールも遵守せず無限の手段を使って無限の戦争を平気で仕掛ける組織と対抗するとき、往々にして優位に立つのが非常に難しくなる」。
かくして軍事行為の制約が外されるや、ミサイルを相手領内に打ち込んで市民を殺傷するよりもサイバー攻撃の方が戦争手段としての価値が高くなる。なぜならば相手国に生じる経済社会的被害が仮に同等であったとして場合、直接の殺傷数はより少ないから“慈悲深い”と自己満足し、かつ主張できるからだ。
戦争とは「法則」であって「定式」ではないと著者は主張する。ここで戦争の法則とは、相手を打ち負かし、屈服させ、こちらの主張利益を獲得すること。翻訳すれば、侵略か自衛かなどは意味がない。勝てば官軍。理由はいくれでも作れる。負ければ賊軍扱い。まして国家がなくなってしまえば弁解や主張を述べることすらできなくなる。「目的のためなら手段を択ばない」マキャベリ的でなければならないと著者はいう。「今日または明日の戦争に勝ち、勝利を手にしたいならば、把握しているすべての戦争資源、すなわち戦争を行う手段を組み合わせなければならない。これだけでは足りず、さらに「勝利の法則」の要求に基づいて組み合わせなければならない。これでもやはり足りない。なぜなら、勝利の法則は、勝利の熟したウリがひとりでに籠(かご)の中に落ちることなど必ずしも保証できず、やはりウリをもぎ取る要領を得た手を必要としているからだ」。
これまでの戦争定義を変える。戦争行為の限界とされてきたものを取り外す。それが「超限戦」であるとする。著者が主張する戦争における作戦はどう行われるか。
・全方向性-360度の観察、設計とあらゆる関連要素の組み合わせ
・リアルタイム性-同一時間帯に異なる空間で行動を展開する
・有限の目標-手段の及ぶ範囲内で行動の指針を確立する
無限の手段-無制限な手段を運用しつつも、有限の目標を満足させるにとどめる
・非均衡-近郊対象の相反する方向に沿って行動ポイントを探す
・多少の消耗-目標を実現するに足る最低限度の戦争資源を使う
・多次元の協力-一つの目標が覆う軍事地非軍事の領域において、動員できるすべての力を今協力して配置する
・全過程のコントロール-戦争の開始、進行、終息の全過程で絶えず情報を収集し、行動を調整し、情勢をコントロールする
 文中に「中国人にとっては、国家は天下と同等の大きさの概念でさえあった」の記述がはさみこまれてあった。中華思想をさりげなく言っているようでもあるが、現在の周辺諸国への超限の戦争開始を宣言しているようでもある。
 読後感である。
まず上記の作戦要領はある意味合理的とも見えるが、それには意思決定者の判断が合理的であることが前提だ。多人数で判断する民主主プロセスでは、100点満点の合理性は得られなくても60点以上の及第点にはなるだろう。しかしただ一人の絶対権力者の命令一下行動開始になる専制国ではどうか。早い話、核兵器の使用は共倒れになるため合理的でないとされるが、メンツのためならかまっていられないと発射ボタンを押す可能性を排除できない。戦争のルール撤廃で人類や地球がどうなるのか。著者は中国軍の将官であることもきになるところだ。
ひるがえってわが日本の軍事専門家と称する人たちは、この本をどう租借し、対抗措置を講じてきたのか。ウクライナでのロシアの苦戦ぶりをとくとくと論評しているが、この戦争の本質は戦車や装甲車の数ではないのではないか。プーチンは、超限戦理論に基づき、非軍事的な仕掛けを十分に施したうえで、最後の一押しのつもりで純軍事力を行使した。ところがゼレンスキー大統領の意思を読み違えていた。彼が逃げ出さず、ウクライナ国民が抵抗心を高めてしまった。「戦争の法則」を持ち出すならば最重要なのは、国民の意思なのではないか。ロシアに非があるといち早く宣言した岸田総理への国民の支持は高まった。これが日本国民の意思である。なのにウクライナ支援の方法では殺傷兵器の支援はダメなどとグダグダ言っている。『超限戦』をどう読んだのか。どういうコメントをしているのか。

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