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793『ヒトラーに傾倒した男ーA級戦犯・大島浩の告白』

NHK記者増田剛著で2022年7月の出版。
大島は駐独駐在武官から大使に昇格し、ドイツ外務大臣リッペントロップと親交厚く、ヒトラーとも対等面談する仲だった人物とされている。
東京裁判では一票差の評決で死刑を免れ、終身刑になった。
この本で、日本が第二次世界大戦に入って行く過程を日独の外交面から検証することができた。
関連条約等を時系列で整理する。
 
1936(昭和11)年11月25日。日独防共協定。
表向きは共産主義浸透防止のイデオロギー同調だが、秘密付属書がありソ連に対する軍事同盟を目指していた。1938年10月にはソ連を対象とする「情報交換および謀略に関する日独両軍取極」が締結されている。
ドイツにシナ事変中の中国軍への支援をやめさせる意図もあった。
しかし軍事同盟化には、アメリカへの関係悪化を危惧する声もあり、日本政府は決断できず、小田原評定を続ける。
 
1939(昭和14)年5月11日 – 1939年9月16日。ノモンハン事件。
日本陸軍はソ連軍の増強を認識し、「北進」を断念することになる。秘密だったが、これをソ連に知らせたスパイがゾルゲ。
 
1939(昭和14)年8月23日。独ソ不可侵条約。
ドイツの主役はリッペントロップ。ハシゴを外された日本では平沼騏一郎内閣が総辞職、大島か駐独大使解任。しかし後に大使復帰し、三国同盟に向けて邁進する。
 
1939(昭和14)年9月1日(17日)。独ソが東西からポーランド侵攻分割
英仏などが対独参戦し、第二次世界大戦始まる。(スターリンはうまく立ち回りバルト三国、フィンランド侵略で国際連盟除名にもかかわらず、戦争では局外に留まり、後に連合軍に加わる素地を確保。この時点ではアメリカは国民が戦争を忌避したため中立を維持)
ヨーロッパ戦線はドイツが大陸占領、1940年9月7日にはドイツ空軍のロンドン空襲が始まり、イギリスへの上陸予想が流され、ヒトラー勝利説が流布した。
 
1940(昭和15)年9月27日。日独伊三国同盟。
日本の懸念はアメリカの中国支援だったが、ドイツと同盟を結べば独ソ不可侵条約を介してソ連も同盟に巻き込めるとのリッペントロップのささやきがあり、そうなればアメリカは対中支援を控えるだろうとの希望的観測があった。
日本国民は「バスに乗り遅れるな」と三国同盟を熱烈支持した。
アメリカ政府はヨーロッパには参戦、アジアは日本と妥協の方向だったが、日独が同盟関係になったことで、日本を利用してヨーロッパでの戦争に参戦できる口実にできるとの外交方策が検討されることになる。
 
1941(昭和16)年4月13日、日ソ中立条約。
日独伊三国同盟締結後の親善でドイツ訪問した帰路の松岡洋右外務大臣がモスクワでスターリンと電撃締結。大島は独ソ関係が冷えており衝突がありうるので「ソ連と中立を約する協定をすべきでない」と松岡に懇願したと主張している。松岡は独ソ開戦を予想した上で、日ソの友好をアメリカへの牽制材料とするつもりだったと主張している。
 
1941(昭和16)年6月5日。大島がヒトラーのソ連侵攻を東京に打電。
ヒトラーが大島に特別に対ソ攻撃をほのめかしたとされる。(大島は4月にモスクワに向かう松岡に独ソ開戦の予兆を伝え、その際は東西からソ連を攻撃すべく、ソ連と中立を約さないことを懇願したと大島は主張している)。8月4日。松岡外相を罷免。
『東條秘書官機密日誌』著者の赤松貞雄(当時在スイス駐在武官。その後東条陸相 ・首相秘書官)は、ドイツ軍ソ連侵攻の動きを最初に東京に報告したのは自分だと主張している(武官職は1939年9月から1940年10月)。
 
1941(昭和16)年6月22日。ヒトラーがソ連に侵攻。
ドイツは東西に戦線を持つことになる。日本は日ソ中立条約を理由にして対ソ開戦せず。3国同盟にソ連を巻き込んで、対欧米対抗軸を形成するというのが日本としてドイツと同盟を結ぶ理由でもあったが、独ソ回線で気泡に帰している。この時点で「北進」政策に復帰して、ソ連を挟撃する政策が検討されなかったのはなぜか。そうでなければ三国同盟を解消することでアメリカとの対立を避ける外交方針があり得た。
 
1941(昭和)年10月11日。大島大使から外務大臣宛公電。
ドイツはこの冬にソ連軍を撃破し、その資源をイギリス攻略に充てられるであろう。これが大間違いで、日本の政府・軍部の予測では、ドイツはソ連の奥深くに侵攻し、駐留を続け、資源を改装するための管理補給能力がないとされていた。大島の景気良い公電に外務省首脳部が振り回されたようだ。
 
◯1941(昭和16)年12月8日。日本海軍のハワイ攻撃。
これでアメリカを戦争に引き込むことになった。これにより東西の戦争が一体化して第二次世界大戦になる。ソ連を含む連合軍の結成。ドイツは三国同盟に基づき対米宣戦したが、日本がここでも日ソ中立条約を守ったので枢軸国側の共通戦線は最後までできなかった。
 
1942(昭和17)年11月1日。ベルリンで「在欧大公使会議」。
大島は欧州駐在外交官の一致意見として三国同盟を根拠とした対ソ戦開始を政府への意見具申を提起するが、反対意見があって実現せず。大島の外交は実質的に終わる。
ソ連は日本の中立で全兵力をドイツ戦線に当てることができ、アメリカの武器援助によって軍備増強。逆にドイツは東西に戦線を持つことになって敗退することになる。日本は対米融和に失敗し、蒋介石の中国との和平もできず、最後にソ連からも攻撃されることになった。

読後感としては、リッペントロップと大島の外交手腕の格の違いが残った。武力の後押しがない外交は無力との至言があるが、武力や経済力があっても外交官の能力に格段の劣りがあれば、やはり国は滅ぶ。


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