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498子宮頸がんワクチンで財政失敗を繰り返すな

子宮頸がんワクチン問題での論点は二つある。これが混同されている、あるいは意図的に混同させている勢力があるようにも思える。ポイントをしっかり分けて考えれば、直ちに問題は解決する。
一つ目はワクチンの効果と安全性と比較衡量。ワクチン接種でどの程度の確率で将来の子宮頸がん発生を防止できるのか。一方、ワクチンには接種時やその後かなりの期間を経て生じる副作用を完全には防げない。コロナワクチンでも、コロナによる死亡者と接種副作用による死亡とどちらが多いのかと議論された。同じことだ。
プラス効果とマイナス効果のどちらが大きいのかで、ワクチン接種の正当性が合理化される。コロナのように空気感染症する病気の場合は、ワクチン接種には不特定多数への観戦を防御する効果がある。つまり損益を社会全体のレベルで議論することになるわけだ。結果としてワクチン接種が社会的に要請される度合いは大きくなる。
がん予防ワクチンの場合、こうした集団的な予防効果はあり得ない。がんは感染しないからだ。代わりにがんの治療費を考えれば、患者数の増減は治療費を負担する社会保険、すなわち健康保険制度に加入する国民にとっての損得に関わることになる。社会防衛ではなく、社会保障財源の問題になるのだ。

二つ目はまさにこの点。ワクチン接種の費用負担である。感染力が強く、感染防止という公衆衛生あるいは社会防衛上の事項になる場合、社会の全員がワクチン接種することによって初めて目的達成が可能になる。経済的負担能力などを理由に「自分と家族はワクチンを打たない」という利己的な者を生じさせてはならない。その手段として、強制接種を法律(感染症予防法などの公衆衛生法規)で義務付け、費用を社会(政府)が負担するとともに、万一副作用が起きた場合には政府の費用で経済補償をすることになる。
ではこの理屈ががん予防ワクチンにも通用するか。それはあり得ないことは自明だろう。ある人がワクチンを接種しなかったことによってがんになったとしても、それと社会の公衆衛生問題とは関係がない。逆に接種した副作用で、その人が重大な健康障害になったとしても、接種を社会が強制したのでないかぎり、国家が国民の税金で補償するという論理は出てこない。国家にはほかにすべき仕事はいくらでもあり、常に財政不足状態にあるのだから。

ここまでで明らかになることは以下のとおりだ。子宮頸がんは感染しない。そのため接種を強制するという理屈はどこからも出てこない。あるのは推奨の有無だけだ。そして子宮頸がんになった場合の医療費負担を負うのは健康保険である。また副作用で健康障害が生じた場合も、健康保険が医療費を負担し、後遺障害には年金保険が対応する。そこでワクチン接種を推奨するか否かは、がんを防ぐことによる医療費節減と、ワクチン副作用による医療費や年金費用との比較予想によって社会保険制度が判断すべきことなのだ。
 
結論は明らかだろう。子宮頸がんワクチン接種費用を公費で負担することが、そもそもの間違いの始まりだったのだ。このワクチンの接種費用は、1回1.5万円の3回で4.5万円程度とネットでは知ることができる。この程度の金額であれば、接種を各自の選択に任せるべきだろう。仮に接種による治療費節減効果が、副作用に伴う将来の費用をカバーすると考えられるのであれば、社会保険の問題として健康保険の給付対象にすればよい。純粋な医療とは言えない不妊治療も「保険給付」に含めることが議論されている。どこまでを給付対象にするかは、加入者の合意事項である。ワクチンと名がつけば医療保険の守備範囲ではないなどの俗論を排除する必要がある。

子宮頸がんワクチンを全員が打つのが望ましいか。各自の選択事項にするのが合理的か。そのいずれにせよ、社会防衛的色彩がないがん予防ワクチンでは、公衆衛生的観点から政府が費用負担するという結論にはならない。このあたりの論理的な詰めをしっかりしないことが議論をわかりにくくしているのだ。
以上に対しては、がん患者になると仕事を休まざるを得なくなり、その結果労働力不足が生じるから、それの防止策としてがんワクチンを公費で負担するのだとの屁理屈が出るかもしれない。そうした論理はありうるが、それならば労働経済あるいは産業政策の観点から、厳密は数量計算を伴った議論をすべきである。確たる根拠もないのにムードであるいはポピュリズム的バラマキ感覚で公費の投入をすることがあってはならない。

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