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コロナワクチンの法的政策と救済・補償の倫理的帰結 国民主権の観点から

 コロナ騒動は何だったのか。忘れっぽい国民性のためか、一般人の口の端にのぼることもない。しかし類似のことはこれからも起きる。政策を振り返り、今後に備えなければならないと思う。特にワクチン接種で重篤な副作用に見舞われた人に対してどうするのか。国家としての良識が問われていると思う。

 国策だから副反応が生じたときは国家として救済すると大見えを切っていたと記憶するが、実際に副反応で苦しんでいる人に手が差し伸べられているとは言えないようだ。

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 救済制度を小難しく説明して、申請者が諦めるのを待つ。小役人的にそうしたことをしていると、政治、行政に対する信頼はがた落ちになる。そもそもワクチンに投じた数十兆円に比べれば、救済に必要な資金量など比較にならない。

 ワクチン接種の副反応について国家が救済ないし補償をするには法的根拠が必要だ。国民主権なのだから、論理が通らない金銭を勝手に支出することはできない。これが原点。
 そのうえでワクチン接種被害への対応を整理してみよう。これについてコロナ政策を”専門家”としてリードした尾身茂氏(現在、結核予防会理事長)の整理が役に立つ。彼によると「新型コロナウイルスにおける世界の感染対策は大きく分けられる」と分類し、①ロックダウンなど国民の行動制限によって感染をゼロにする方法、②コロナウイルス感染ゼロは不可能と割り切り、感染者への治療に重点化する。
 この二つに整理されるが、同氏自身は②を非常に合理的なモデルと称賛している。
 コロナワクチンに関して言えば、①の路線の場合、強制摂取になるはずだから、万一副反応が出れば国家が救済、補償するのが当然だ。これに対し②の場合は、勢い摂取は各自の判断事項になるから、副反応が出ても自己判断の帰結であるから基本的に救済や補償はあり得ない。
 
 被害者の中には救済を求めて訴訟を提起し、あるいは役所の門前払いに遭いながら通い詰めている人がいる。先行きが見えない苦労を強いるのではなく、日本のコロナ政策が①だったのか、②だったのかを明確にすることで解決が見通せる。
 
 そこで尾身氏の見立てなのだが、彼は何と「日本の場合は、そのどちらでもない”第三の道”を採った」と言い訳している(『時評2024年5月号』77頁)。これは科学者の態度ではない。ワクチン副反応を救済するか、補償するかは、ひとえに接種が義務だったのか否かにかかっているのである。

 ボクの判断では、法的には接種は義務ではなかった。ところが当時の雰囲気はどうであったか。閣僚の中には「非摂取は非国民」と言わんばかりの言動をした者がいる。その証拠映像はSNS界隈にいくらでも残っている。
 副反応を生じた被害者が接種を受ける際、義務と判断していたか、そうでなかったかがポイントになるはずだ。
 法的には強制摂取でないのだから、国家賠償などといったことになりようがない。しかしその法的枠組みを逸脱して、強制摂取であるかのように誤認させた者がいて、その結果、接種と副反応になったのだとすれば、その賠償はそうした個々の閣僚等が個人として責任を負わなければならない。これは法治の原点である。
 理屈はきわめて簡単なのである。法的整理をわきまえずに暴走する権力者を諫め、その結果責任を倫理的に追及することなのだ。それが国民主権である。心当たりある政治家は深く懺悔すべき。

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