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436日本大学理事会

日本大学の理事が検察特捜部に背任容疑で逮捕された(10月7日)。日本大学はわが国名を冠する名門の大学である。ボクの記憶では、半世紀前にも学費等に絡む騒動があったのではないか。
ウィキペディアで確認したら、国税局が1968(昭和43)年に「同大学には使途不明金20億円がある」と公表したのが発端。このほかに入学金・授業料・寄付金収入の1割を隠匿することによる脱税疑惑も明るみになった。これらの解明団交を要求した学生連に対して、大学理事会は拒絶したばかりか、警察機動隊を導入し、警官1名が学生の投下したコンクリート塊で死亡した。
それで一気に政府を巻き込む政治問題になった。当時は国・都市自治体ともラディカルな左翼が躍進し、革命前夜の様相もあったことが関係したことは間違いないだろう。余波は他大学に及び1969年の東大入試中止や赤軍派の航空機ハイジャック、京浜安保共闘内ゲバ大量殺人事件などに発展していったが、きっかけの日大紛争の本質は一学校法人運営の病巣だったことを忘れるべきではない。
今回の事件では「日本大学事業部」と大学と紛らわしい名称の会社が舞台装置になっている。この会社の経営者が日大の理事を兼ねていて、その口利きで付属病院建て替えの設計業者が不正選考され、大学から24億円の契約を獲得した。設計業者から大阪の医療グループ代表に2.2億円が支払われ、そこから理事に6600万円が渡っている。検察による逮捕済みのこの日大理事は、数年前(2018年)のフットボール部による対関学戦危険タックルで理事を辞任したはずが、いつのまにか理事に復帰していた経緯もある。田中英寿理事長の人事、経営等の責任がカギのはずだが、10月8日の日大臨時理事会では、逮捕された理事の(解任ではなく)辞任勧告をしただけという。田中理事長は体調不良を理由に出席もしなかった。50年以上前の日大紛争時点と体質は変わっていないとの既視感を持った人は少なくないだろう。

日本大学は学生数などの面で国内屈指の規模である。私学を代表する大学として公明正大、一点の疑念もない適正運営がなされていると国民は思っていただろう。あらためて私立大学とは何かを考えてみよう。
大学は学問の砦。「学問の自由は、これを保証する」(憲法23条)の基盤である。わが国の大学は国が直轄設立、運営するところから始まった。その代表が東京帝国大、今の東大だ。大学人の学問の自由の主張と、大学を運営する国(文部省)の対立は構造的なものであった。それを制度的に解決したのが、国立大学の民営化、すなわち大学法人化である。これにより東大も京大も、それぞれが独立した法人格を有し、独立採算による運営をする事業体になっている。
わが国の私立大学は、国立大学における国家統制への反発が制度化の理由の一つになっている。そこで大学法人への国家統制は極力希薄化し、理事会による自由かつ民主的な運営を求めるにとどめられている。
双方とも人体になってしまうと、国立大学と私立大学の差は何かという本質問題に答えを出さなければならない。結論を言えば、両者の差異をなくすべきだ。そして学問の自由を発展させる観点から制度面の不都合を正していくことだ。
国立大学サイドでは理事に現職の文科省官僚が出向している現状を改める。大学運営が行政事務ではないというのが、国立大学民営化の理由だったのだから、それぞれの法人に合った経営陣で大学運営に当たるべきである。
私立大学では、理事選考の透明化などを制度的に明確化する。この場合、大学法人では株式会社の株主に相当する者がいない。制度的には評議員が理事を選任することになっているが、その評議員の身分保障や選考はどうなっているのか。株主総会制度を参考にすれば、各大学には卒業生がいる。つまり学位保持者(学士)だが、彼らを一株株主に見立て、その内からの評議員の選考権を付与するのだ。なかには創立後まもなく、十分な数の学位者を出していない大学もあろう。その場合に限り、監督官庁である文科省が指定する同省官僚が暫定的に評議員を兼ねることにする。
もう一つ大学運営で必要なことは財政面での独立である。金銭面で依存することは運営独立性の喪失につながる。ここでも憲法精神の遵守が不可欠であろう。89条では公金その他の公の財産は「公の支配に属しない教育の事業に支出し、又はその利用に供してはならない」と明記されている。国家として教育内容を調整する必要がある高校以下であれば、教育指導要領等で「公の支配」に属しているから、国や地方自治体による教育費支弁は問題ない。だが、学問の自由につながる大学ではそうはいかない。行政の統制に属してはならないのだ。個別恣意的な補助金を認めていると、競合している大学同士が高額報酬で教授陣を充実しようなどと、補助金獲得で争い、学問の自由の魂を売り渡すことが即座に理解できるはずだ。
大学への個別補助金を廃止するのが憲法の要請である。国立大学、私立大学を問わない。自主運営できない大学は存続する価値がないところである。つぶれるのを手助けすればよい。そうした気概なくして、学問の自由を標榜すべきではない。
いきなりは厳しいという声はたしかにあろう。これに関しては地方自治体への交付税交付金が参考になる。国庫から一定額の交付金を計上しておき、客観的な指標に基づいて各大学法人に配分する。これでベースの公平性が保証されるから、後は各大学法人が企業支援を含む自主財源獲得に知恵を絞ればよいのである。

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