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Vol.4 辻 清志郎

日頃からSS伊豆の応援ありがとうございます📣📣

まず初めに、
コロナウイルスの影響で活動制限がかかるようなご時世にも関わらず、SS伊豆を支えてくださっているスポンサーの方々、現地まで足を運んでくださっている、遠くの地から応援してくださっているサポーターの方々に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
今季もSS伊豆への変わらぬご声援をよろしくお願いいたします。


そして今回、
熱海の怪物、鈴木選手より指名されました、
ゴールキーパー🧤辻清志郎です🐵

2001年11月1日生まれの20歳です!


今回、こうやって僕のサッカー人生を振り返って、

スズさんのように
「代表候補に入りました。」🇯🇵

心さんのように
「関東でMVP取りました。」👑

など、目立つほど輝かしい功績の無い僕ですが、色々と苦悩だらけのサッカー人生だった事は間違いありません。

田舎生まれの小さな無名ゴールキーパーの物語、最後まで読んで頂ければ幸いです。







僕が生まれ育ったのは、
宮崎県 日向市、人口約6万人の港町です。

※ちなみに皆さん、全国的に有名なファミリーレストラン、「サイゼリヤ」が宮崎県内には、1店舗も無いんですよ😂


日向出身の有名人は、
元メジャーリーガーの青木宣親選手、 
詩人の若山牧水など、

そして、ひょっとこも有名です!

気候も人柄もとても暖かい町で、
沢山の友達、家族に囲まれ僕は育ちます。




僕がボールを蹴り始めたのは保育園生の時でした。

園内にサッカーチームがあり、仲の良かった友達と楽しくボールを追いかけてました。

※当時はサッカーだけではなく、スイミングスクールにも通ってました!!

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ちなみに、辻家はめちゃくちゃ野球一家で、小さい時、父親や、お爺ちゃんとよくキャッチボールをしていたのを覚えています!
叔父は甲子園にも出場しています!
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そのまま順調に成長し、日知屋東小学校に入学。

そこでも小学校内のチームであった、

「日知屋東SSS」に入団します。

この時から、本格的にサッカーを始め、休みの日も友達とサッカーをするほど、サッカーに夢中でした。

※当時はイナズマイレブンが大流行!!
チームのみんなと沢山必殺技の練習をしました!

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実は僕、工作や、絵を描く事も得意で、小学生時代には、市内の絵のコンクールで金賞を取ったり、木で作った車の模型も、大会を代表して、ショッピングモールに飾られたりと、芸術センスを爆発させていました。その他にも小学2年から塾に通い、当時はサッカーと勉強。そして遊びをの両立をしていました。
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学年が上がるにつれ、みんなでローテーションしてたポジションが、固定制になり始め、この時から僕のゴールキーパーとしての人生がスタートしました。

当時も、身長は小さく、ガリガリ。
けど持ち前の反射神経を武器に沢山のシュートを止め、小学5年から日向市、宮崎県の選抜を経験し、熊本にあるJFA宇城アカデミーにも体験入学し、選手としてとても貴重な経験もさせてもらいました。

※宇城アカデミーでキツかったのは、なんと言っても毎回の食事!吐く寸前まで食べさせられていました。

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小学生時代の最高成績は県ベスト8。優勝チームに1-2の逆転負けという悔しい結果で終わってしまった大会でした。
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そして中学校に進学。

思えばこの時が1番辛い期間だったかもしれません。


僕は近所の「富島中学校」に進学します。
当時の富島中学校サッカー部は、県内でも準優勝などの成績を残していましたが、色々な出来事や、よくない噂など、色々あり、低迷していた時期でした。

けど、そんな中僕は、県選抜の看板を引っ提げ、サッカー部に入部しました。

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当時は、
「凄いキーパーが入部する!」
僕のひとつ上の学年のキーパーがサッカー経験が無かったため、入部前から選手や監督にも名前を知られて、正直少し浮かれていました。
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『そこで大問題発生!!!』

なんと中学生からは人数、ピッチ、そしてゴールの大きさが、大人と同じ大きさになります!

小学生までは、8人制用の小さいゴールを守っていた僕ですが、いざ11人制用のゴールを守ると、全然シュートが止めれません。。ましてや、頑張ってジャンプしても、身長の低い僕は、ゴールのバーにすら手が届きませんでした。

身体能力、反射神経、ステップワークがいくら良くても、上に蹴られるだけで簡単に点を決められてしまう。

入学時の身長は140センチ
そしてゴールの高さは244センチ

僕からしたら地獄の日々でした。
全くサッカーが楽しくありませんでした。


クラスの男子では1番小さく、この時から少し、自分の身長の低さを意識する様になり始めました。

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この時ハマっていたのが、
人気バレーボール漫画『ハイキュー!』
その中でも主人公の 日向翔陽 は、自分と同じで低身長ながらも、それを身体能力で補う選手でした。


自分と重なることも多くあり、彼からは沢山の影響をもらいました。

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そして入学して最初の1年間は、同い年のゴールキーパーとのポジション争いが熾烈でした。

序盤は僕が試合に出る機会があったものの、
僕よりも10センチ以上も大きく、キック力もあったライバルに、徐々に迫られ、ついにはスタメンを奪取されました。


「どうすれば身長が高くなるんだろう」


悩みに悩みました。勿論スタメンで出れない理由は他にあったと思いますが、僕が感じた1番の差はその部分だと感じました。

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先輩の保護者に、
「身長を伸ばすには魚と牛乳がいい!」
と教えてもらい、親にお願いして、夜ご飯に出してもらったりした事もありました。

※牛乳の飲み過ぎで、夜ご飯のあとは毎度のことお腹を壊していました。
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そして、ついには、ひとつ上の学年のキーパーにも立ち場を奪われ、メンバー外も何度も経験しました。


その度に監督に

「何で僕はメンバーから外されたんですか」

と聞きに行く。これが恒例行事でした。

小学生の時から県の選抜を経験し、ずっとスタメンだった僕のプライドは、その状況を許しませんでした。

焦りました。
どうすれば良いかも分かりませんでした。


そんな中、僕に転機が訪れます。


1年生大会を前に、それまでスタメンだったライバルが校則違反を犯し、部活動停止処分に。

神様がくれたチャンスだと思いました。

「絶対にチャンスを掴み取る。」

その気持ちでいっぱいでした。

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その大会、チームは予選敗退となりましたが、僕は相手のシュートを、文字通り、止めに止めまくりました。

そして、その大会は、市の選抜の選考会も兼ねていたらしく、本戦に参戦出来なかったチームで唯一、僕が市の選抜に選出されました。
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その後、ライバルが復帰し、少しの間また、スタメン争いを繰り広げますが、学年が上がるタイミングで、完全に正ゴールキーパーとしての立ち場を確立させました。

中学2年身長 153センチ
中学3年身長 160センチ

毎年10センチずつ伸び、3年になるころにはライバルと同じくらいの身長に!

160センチでもキーパーとしては、めちゃくちゃ小柄ですが、得意のセービングや、パントキックを武器にチームの主軸となりました。

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チームとしては、最後の夏の中体連の地区大会で、33年ぶりの優勝を果たし、県大会に進出しました。
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そして高校に進学。

僕は

「練習がキツイ」

「これから力をつけてくるだろう」

と噂されていた、

『日向工業サッカー部』に入部します。

入学前から、高校の練習に参加させてもらった僕は、中学サッカーと高校サッカーの差である「運動量」「シュートスピード」の違いを目の当たりにする事になりました。


高校で1番キツかったのは、何といっても高校1年の時に経験したランメニュー。時には、11キロ走ったあとに、練習。なんて事も平気でありました。

正直僕は当時、走り込みをサボってました。キーパーに走り込みは必要ないと思っていたし、僕より遅い選手もいたので、それに合わせて後ろの方でゆっくり走ってました。

そんな日々が約2ヶ月続いたある日、顧問の先生から

「辻、お前キーパーしなくていい。」

練習前にいきなり言われました。

同じ学年、同じチームのキーパーは全員キーパーをしているのに、僕だけがキーパーを辞めさせられました。

悪いプレーどころか、トップチームの試合にも時々出場してたくらいなので、なぜそうなったのか全くの謎でした。

全ては見抜かれていました。


キーパーが出来ず、フィールドのメニューに入って、約2ヶ月。そこで体力の必要さを体感しました。

サボっていた走り込みの差が他の選手と出てき始め、チームのピンチで僕だけが走れない。なんて事もありました。


足りない技術は「走力」で補う。
それが日向工業流でした。


それからは、どんなランメニューにも全力で取り組むようになりました。

日頃キーパーの練習が出来ない分、オフの日に、先輩や同級生に自主練に付き合ってもらい、沢山シュートを受けてきました。

オフ期間と、走り込みが顧問の目に留まり、僕は、1年生大会の2週間前に本職のキーパーに戻る事になりました。

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1年生大会は、スタメンで出場するも、強豪日章学園に0-5で大敗してしまいます。

どんな強豪相手でも負けるのが嫌いで、試合後、僕だけ大号泣。

周りの選手から引かれていたかも知れません。笑
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その後、トップチームの試合にも絡めるようなり、3年生が選手権大会を引退後、僕は高校1年の終わりから、チームの正ゴールキーパーとなりました。

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当時の日向工業は噂通り、徐々に力を付け始め、リーグ戦、練習試合では、県下ベスト4、8レベルの相手にも互角に戦えるようになりました。しかし、大事なトーナメント戦では、1回戦、2回戦で敗退。チームとしても中々結果が出せずにいました。

そんな中、僕はプレッシャーなどから、オーバートレーニング症候群を、短期間で幾度も発症してしまいます。
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ひとつ上の学年も引退し、
高校サッカー、最後の一年がスタート。

僕は、チームの副キャプテンを任せられる事になりました。

チームは守備、走力、セットプレーを武器に、先輩たちが成し遂げる事の出来なかった、県ベスト8を目標に掲げました。

その中でも僕たちの強みは『守備』

新チームが出来た当初、監督から

「どういうサッカーが今のチームに合うと思う?」

と聞かれました。

「1対0で勝つサッカーですかね」

僕は即答でした。
そのくらい守備力には自信がありました。


チームのディフェンスライン4人。一人一人の守備力が高く、高さもあり、ヘディングも強い。4人の平均身長は高校では異例の180センチ。

僕の役割は大きく2つ、1つはキーパーとしての基本である、シュートストップや、コーチングなど、

そしてもうひとつが、ディフェンスラインの後ろにある、裏スペースのカバーでした。

守備力もあり、身長もあるディフェンスラインの唯一の弱点が、「足の速さ」

ディフェンダーの裏にある広大なエリアに出されたボールに対応するのが、チームの最後尾の僕でした。

守備範囲で言えば、間違いなく県内のどのキーパーよりも広い自信がありました。

ローカル新聞の一部ですが、

「辻清志郎、圧倒的な守備範囲」

と掲載された程でした。

普通のキーパーよりも5メートル前にポジションを取り、ディフェンスラインを助ける。

もちろん、通常よりも前にポジションを取っているので、研究されて、たくさんのロングシュートを打たれる事もありましたが、僕の長所の一つである、身体能力と、事前の予測で防ぎました。

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当時の僕は自信に満ち溢れていました。
それは良いようにプレーにも影響し、

高校最後サッカー最後の1年は、

個人としては、
小学生以来の県選抜に選出。

チームとしては、
一昨年度の、選手権準優勝チームに初戦で1対0の粘り勝ち。
勢いそのまま、先輩達の悲願であった、県ベスト8進出を達成する事ができました。
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サッカーに明け暮れた学生生活。

沢山怪我もしました。

中学の時には、顔を蹴られ、脳震盪と同時に、顎の脱臼を経験。

高校の時には、短期間に2度の大きな脳震盪を経験し、医者からは、「後遺症が残るかも」と言われたこともありました。

そんな中でも真剣にサッカーに打ち込めたのは、両親の存在がとても大きいです。


遠くの遠征の時には送迎してくれ、サッカー道具を沢山買ってくれた父、SS伊豆に加入する後押しをしてくれたのも父でした。

本当は野球をさせたかっただろうけど、僕の好きなサッカーの道に進めさせてくれてありがとう。


試合にもよく来てくれた母。

僕は実家に帰った際、学生時代の試合をよく見ます。

するとそのビデオには、

「頑張れ!」
「ナイスキー!」
「焦るな!!」
「なんしちょっとや!💢」

母の甲高い声が聞こえてきます。
誰よりも大きな声で僕の事を応援してくれていました。

我が子がサッカーをしているとなると、見たいのは勿論、点を決める姿。

僕はその逆でした。

僕のミスで失点する事もありました。その時両親は僕と同じくらい、周りの目が痛く、辛い思いをしたと思います。

僕は、今回サッカー人生を振り返るにあたり、母に記憶に残っている事を聞いてみました。


「記憶に残ってる…のとは、ちょっと違うけど

清志郎は体が小さくて、ゴール前で相手選手に蹴られたり吹っ飛ばされたりしてたから試合を観るのが怖かったわ〜。

特に大きな大会の前の日は
寝ようとすると、大怪我をする画像がグルグル回って、ほぼ寝れなかったよ。
小学校から高校までずっとね。」

試合前に緊張してしたのは母も同じでした。

この2人がいたから、今も僕はサッカーを続けれていると思っています。



これはまた後の話にはなるのですが、
安定した仕事を捨て、SS伊豆に入団するとなった時、

母からは、猛、猛、猛反対されました。

「サッカーは趣味程度に楽しんで、平凡でもいいから安定した生活を送ってほしい」

母とは当時、沢山話しました。

けれど僕は、あの手この手、使える手全てを使い、なんとか母を説得。最初は猛反対でしたが、それがいつからか、関心に変わりました。

その後、母からは、

「本当に良いチームに入れたね!家族みんなで試合見に行くからね!」と連絡をくれました。

それだけではなく、両親の経営している会社がチームのスポンサーになってもくれました。


両親には、本当に沢山の迷惑をかけました。

会った時は
照れ臭くて、強がって、
なかなか「ありがとう」が言えませんが、
言葉に出来ないくらい2人には感謝しています。


喧嘩する事も沢山あり、
お互い口を聞かない1日だってありました。


「お風呂掃除サボってごめん。」

「家の鍵せずに遊び行ってごめん。」


「毎朝起こしてくれてありがとう。」

「早起きしてお弁当を作ってくれてありがとう。」

「誰よりも大きい声で応援してくれてありがとう。」



両親は、沢山のごめん。を、それ以上の愛情で返してくれました。

お父さん、お母さんの子であることが
僕のとっておきの自慢です。







高校を卒業し、僕は横浜の企業へ就職します。


高校の顧問の先生からは、

「大学でサッカーを続けるべき、色々な大学の練習会にも行ってみよう。」

と言われていました。
その顧問の先生の事は、沢山サッカーの話や、私生活の話もし、心から信頼していました。

しかし僕は就職の道を選びました。


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横浜にいた1年間。同じ職場や、サッカーチームの方にとても面倒を見てもらいました。

1年間しか居なかったものの、未だに交流の続いてる方もいて、SS伊豆の応援に来てくれる方もいます。
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その当時の僕は、大学サッカーに対する知識が全くありませんでした。

就職して近場で強い社会人チームにでも入ればいいか、という気持ちでした。

しかし僕は就職し、現実を知りました。
僕はサッカーに対して、まだまだ無知でした。

大学サッカーは高校サッカー以上に熱く、レベルの高い場所でした。

神奈川県内の社会人チームには入っていたものの、新型コロナウイルスの影響もあり、不完全燃焼。


僕は自分の選択に後悔を覚えました。



サッカーがしたい、
また熱くなりたい。



そんな時に見つけたのが
『SS伊豆』でした。


もう後悔したくない。
そんな思いでクラブに連絡をいれました。

いざ行動してみたものの、
とても不安だらけでした。

そんな時に、クラブの代表である片岡監督から、1つのメッセージが届きます。


「色々思う事もあるだろうけど、チームと俺と自分自身を信じて飛び込んでこい!」



僕は思いっきり飛び込みました。



『熱い気持ちには人を引きつける力がある』


という言葉を聞いたことがあります。
僕もその通りだと思います。

なぜなら僕も、

その引力に引かれ、それと同時に、
SS伊豆というチームに惹かれた1人だからです。





SS伊豆に加入して1年。
学生時代の環境とはガラッと変わりました。

毎日土の上での練習でしたが、今では綺麗な人工芝の上で、

キーパー練習の内容も、YouTubeで見たプロの練習を、見よう見まねでやっていました。

けれど今ではチームにキーパーコーチもいます。

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これまでのサッカー人生で初めてのキーパーコーチ。僕は他のキーパーとは違い、基礎でのアドバイスを数多く受けました。

「身体能力に頼りすぎてる」

「それじゃ怪我をする」

当初は戸惑いました。
今も覚える技術が多くて、今でも毎回の練習で頭の中はパンク気味です。笑

※現在の身長は173センチ。

キーパーとしてはまだまだ小柄ですが、幼少期から研ぎ澄ましてきた、身体能力、反射神経に加えて、これから身につく、ゴールキーパーとしての技術。

この2つがあれば、今よりもっともっと高いレベルのゴールキーパーになれると僕は思っています。
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環境も、各選手の能力も、これまでとは段違いにレベルが上がりました。

うまくいく日もあれば、何もかもうまくいかず、へこたれる1日だってあります。

昨シーズンは、スタメンでの出場2試合、アクシデントによる途中出場1試合。スタメンにも定着出来ず。

正ゴールキーパーへの道のりの険しさを体感した1年間でもありました。

仲間以上の存在であるチームメイトに囲まれ、日々のトレーニングや、ボランティア、広報活動などに励んでいます。


全てはチーム、ファン、サポーター、スポンサーの皆様と東海リーグへ昇格するため。

そして伊豆地方をサッカーで盛り上げるためです。




僕も、SS伊豆もまだまだ発展途上ですが、
これからも応援、サポートの方、よろしくお願い致します!

僕のnoteを見て、少しでもSS伊豆に興味を持ってくれた方、前々からSS伊豆の事が気になっていた方、絶対に後悔はさせません。


SS伊豆、そして僕たちを信じて飛び込んで来てください!

僕たちに期待をしてください


一緒に伊豆を盛り上げましょう!!



以上、辻清志郎でした!

七転び八起きのサッカー人生、これからもノンストップで突っ走ります!!

長々となり、上手くまとまらない文章でしたが、ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

次回は、今シーズン作新学院大学から加入した、「細田凌平」選手です!!

また、今回以降からSS伊豆noteの更新ペースを1週間毎にします。
なので、次回更新日は来週の4月14日(木)になります!

よろしくお願いします!

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