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Vol.21 伊東 元生

まさかの翔大からバトンを貰いました
令和のガッツマン、いや
伊豆のガッツマンこと背番号4番伊東元生です
妻と娘と愛犬が大好きでたまらない26歳

色んな媒体、SNS等で登場してるので
「あ、こいつみたことあるわ」とか
「あ、こいつうるさすぎて注意されるやつだ」とか
「伊豆のラグビー選手やん」とか
それなりに見たことある奴だと思います
目立ちたがり屋なのでそんな状況に大興奮

今回はnoteに登場します
こっそり締めを狙ってたので早めの登場、悔しい
そんなガッツマンのメッセージをお楽しみ下さい!

そしてまずはこのようなご時世の中、いつも魂込めて応援して下り本当にありがとうございます😊

いつも応援がガソリンとなり身体が動いています

応援してくださるスポンサー様、ファンサポーター、地域の方々、みんなを愛しています!

これからも共に伊豆を盛り上げていきましょう!

先に言っておきます、こういうの書くといつも長くなってしまうので心の準備お願いします。

何から書くか迷いますが
例にならって生い立ちを振り返りたいと思います

秋田県北秋田市生まれ
宮城県仙台市育ち
アイジ幼稚園
仙台市立立町小学校
仙台市立第二中学校
宮城県工業高等学校 電気科
海外挑戦
現在

の流れで話が進みます

というものの、幼稚園の頃の記憶はキリスト系の施設で(僕はキリスト教ではないですが)お昼の前にアーメンしてご飯食べたり、幼稚園のおもちゃを家に持ち帰って親にブチ怒られたくらいの記憶しかないので、飛んで小学校から振り返ります。笑

ここから自分の言葉で

仙台市で一番都会にあると言っても過言ではない
仙台市立立町小学校に入学
兄がスポ少でサッカーやっていたので必然的に自分もサッカーをやるのだと思いながら、親の付き添いでよく遊びに行った記憶がある。

兄、一歩(かずほ)の弟ということで
「かっちゃんの弟だ!可愛い!」ってチヤホヤされていたのを覚えている。目立つために砂場で土だらけになってみたり、可愛いと言われるために必死。今でも可愛いと呼ばれたい。

兄は偉大で、どこに行ってもかっちゃんは凄いと言われていた。努力家で誰にでも好かれ、誰からも嫌われない人間性。応援したくなる存在だと周りから言われていた。ひたむきなその姿や優しさは僕にはない。そして勉強ができる。尊敬する人は誰かと言われたら食い気味で兄という。だって僕の兄だから。僕の兄って絶対大変だったと思う。色々。だから今特大のリスペクトを待っている。そんな兄が大好きだ。

そんな兄に憧れて、僕もスポ少に入って小学校はサッカー漬けになるだと思っていたけど、生まれつきの甲状腺病気の影響で運動は控えるようにと医者からの指示があり、それは叶わなかった。当時はそんなに凹まなかった。この病気も生まれてからすぐ治療をしてくれた親のおかげで、これからも付き合うものだけどよくなった。

でも今は当時の認識とは異なり、自分でスクールの指導や部活動指導員をやるようになって、この時期がどれだけ大事だったのかを痛感している。本当に育成年代って大事だ。

そんな小学校時代は運動ができなかったので何となく面白そうって思って、吹奏楽団に入団。トロンボーンを担当した。多分今でも吹ける。コンクールは何回もでたけど、練習して吹けないところは吹くふりしていたのはナイショ。でも必死に練習して完璧に習得したコナン君のテーマソングのソロパートは今でも忘れない。

そして仙台市立第二中学校へ
ここでは運動出来なきゃまた吹奏楽かなーなんて思ってたけど、医者から経過も良好だったし運動していいよ、とあっさり。仮入部の時はちょっと悩んだけど、サッカー部に決めました。ここから本格的に始めましたね。ちょっと遅い。初めて買ってもらったお下がりじゃないスパイク。赤のアンブロ。最高に嬉しかった。

中体連の部活は、勿論サッカー経験のない先生が顧問になることもあるけど生徒の為にといつも必死に動いてくれた先生をみてカッコいいと思った。

僕たちが泥だらけで試合に勝ったらこの人が喜んでくれる。この頃から人が喜ぶ姿を見るのが好きになった。自分が三島市内の中学校に部活動指導者として働いているからこの大変さは今やっとわかる。

中学時代はそれなりに強い学校だったしそこそこいい成績も出せた。選抜とかは無かったけど、僕はお調子乗りだし、変におごらないから逆にそれがよかったのかも。あと生徒会役員でした。自慢です。

あ、これがおごりですね。失礼しました。笑

中2の時に震災を経験したけど、当時のエピソードは話しきれない。波打つ建物をみたし、大雪の校庭に避難したり、サッカーは勿論できなかった。大地震級の余震も続いたけど、僕は比較的被害は少なく、体育館に避難してきた高齢者のお手伝いやボランティア活動に取り組み、人助けの大切さを知ったと思う。

僕の姿が誰かの元気に繋がるかわからないけど、そうなるように今も全力で生きようと思う。

中学校はあっという間に過ぎて、高校進学を悩む時期になったけど、サッカーが一番好きだからサッカーは強いところでやりたいなと、宮城県で一番強い公立高校の宮城県工業高等学校一本に志望校を絞っていた。

当時の入試システムで公立高校も推薦入試というのがあって、僕は面接だけしてそれではいりました。成績優秀者が得られる権利なので、成績良かったんやなぁ。

宮城県工業高等学校に入学
もう本当に、この高校での生活が充実しすぎてた。笑

入部時は五厘
毎日走りはスタンダード
試合で失点したら失点数×走り
忘れ物したら宿舎まで走り
何かあればすぐ五厘

ここら辺はしゃべってもいいところ。
走りは死ぬほどやった、世界一周出来んじゃないか

本当にthe高校サッカーみたいな部活だったので、それなりに恐ろしい経験もしたけどここではいえない。笑

僕らの代は40人いたのにまあ色々あって卒業する時には19人になっていた。

130人を超えるマンモス部で生き残れたのは実力じゃなくて絶対キャラクターのおかげだった。

1.2年はBチームで応援の時は太鼓持ち。試合に出れるようになったのは自分達の代からだったけど、最後は副キャプテンも務めることが出来て、これは今でも誇らしい。県工の赤白カラーが今でも大好き。当時の憧れであり僕らそのものを表す色だった。

「闘犬」の横断幕は燃えた

選手権は県の決勝まで行って、ユアテックスタジアムで試合ができた。全校応援で9000人集まったあの景色は忘れられないなぁ。

全国には出れなかったけどあのメンバーでやれたのは幸せだった。みんな元気かなー。

卒業するとなって、もうサッカーはやめちゃうのかと思ったけど心にモヤモヤは残っていた。ただ大学に行ってサッカーをやっている姿も想像できなくて、他のスタイルでサッカーを続けることを目指した。

それが海外挑戦

当時はまだ珍しい海外でサッカーをする道
多分人と違う道の方が向いてると思ってすぐ目指した

卒業して約1年は現場監督の仕事をしてそこから知り合いの紹介で海外に飛んだ。この時にこんな若造の背中押してくれたこの会社にもとても感謝している。

東欧モンテネグロ
ここ、ハングリーです
環境は良くないけどサッカー飢えている
やらないとやられるそんな国だった

トライアウトに失敗して帰国する選手もいる中なんとか掴んだ契約。

差別や言葉の壁、サッカー以外の要素も大変だったけどチームメイトに恵まれて生きれた。ただより良い環境を求めすぎてギラギラしすぎていた。

生き急いでポルトガルやラオスに挑戦したけど上手くいかず。

気付けば21歳、海外では若手ではなかった
どんどん日本から海外に行くのが普通になって、色んな選手がステップアップしたり、そんな充実してる奴らにあせりを感じながら、無所属の期間が続きどこか諦め始めている自分もいた。

俺は何を目指してるんだ?
EL.CLに出るんだ!
宮城をサッカー大国にするんだ!
大口を叩いた夢さえも忘れてしまっていた
気持ちがブレていたのは明確だったし
何のためにサッカーを続けているのかわからなくなった

もう生き恥さらすのはやめよう
サッカーをやめることを決意した

が、そこから数ヶ月
ポルトガルへ行くときに知り合った脇野隼人に
サッカーやめるの勿体無くない?
伊豆で上目指してるチームあるけどどう?
と教えてもらった

特に今はやることないし話だけ聞いてみるか
という感じで大輔さんと出会った
「是非加入ほしい!」
人に求められるのが嬉しくてすぐ伊豆にきた。笑
ここの切り替えスピード、アトレティコ並み

もうそこからは大輔さんや喬穂さん(当時のキャプテン)に怒られながら、人生を教えてもらい、知った気になっていた世の中を教えてもらった。時には泣きながら覚え、不貞腐れながら話を聞いた。

大輔さんから、「お前が1番めんどくさい選手だよ!」と2年前に言われたことがある。ほんとにその通りだなと今も思う。

でもこれだけはいえる
このチームを1番愛しているのは僕だ

その自信はある(大輔さんを除いて)

誰が1番とかは本当はないんだろうけど、誰がなんと言おうとこの在籍期間中伊豆の為に色んなことやった自信がある。

試合に出れない時も伊豆の為にとピッチ外の事に取り組んだ。試合に出れば1番うるさく、泥臭くやった。

どうしたらもっとチームがよくなるか?大輔さんと温泉に浸かりながら語った。

入団した時は高架下の照明のない公園でボールを蹴った。騒ぎすぎて怒られたけど。

もう僕の人間性は伊豆で作られたんです
ここでしか今の僕は生まれなかった

この愛している僕の心のチーム

そんなチームに来てもう5年が経とうとしています
良い時も悪い時も見てきた自負がある

今では2ndチームも障がい者スポーツチームRainbowsもできて、更にはスクールも3校開校した。

話はそれるけど、僕はその中でもRainbowsに携わることが多い。教え子のタケこと岩崎雄大君は大成長してくれたし本人が充実感持ってくれてることがなにより。初めて会った時からは考えられないほど明るくなったし、教え子でありながら弟のような、息子のような気持ちで見守っている。4つくらいしか歳離れてないけど。笑

今では2ndと掛け持ち、県選抜にも選ばれた。本人の頑張りが身を結び、こうやって報われたことが嬉しい。

これからまだまだチームは大きくなるだろう

大切にしてきたこのチームがどんどん大きくなっていくのを肌で感じる。それが良いことなのはわかるけど、絶対に「伊豆の為に」というキーワードだけは忘れずに新しく入ってきた選手に伝えていきたい。

時にはなんで一選手がこんなことを言ってくるんだと思う若手もいたかもしれない。それは本当にごめん。

だけどそれだけ大きいものを僕らは背負っているから、過去を知るものはどんどん伝えていくべきだと思うんです。

プロでもない、スターでもない
そんな僕らが沢山の人に愛され始めている
こんなに嬉しいことはないんです。

そしてそのキッカケを作ったこの男
片岡大輔に最高のプレゼントをしたい
そんな想いで、今の僕は動いています

選手のnoteで僕の名前がたびたび出てくることに喜びを感じ、それだけ伝えられてる証拠なんだなと実感。

僕もきっかけを作るのは得意なんです
このnoteも提案したのも僕でした

まずはこういうメッセージもちゃんと受け取ってくれて、後輩たちありがとう。

これまでなんでも自分で動かなきゃ!と思ってたけど今じゃ周りがどんどんやってる姿をみて本当に頼もしく、そろそろ僕は役不足になりつつある。笑

何もかも入団した時に僕を導いてくれた喬穂さん
いつだって優しくしてくれた佑樹君
2人が僕をここまで育ててくれた
2人の熱量は僕が受け継いでます

僕が2人から受け継いだこの熱量を、今度は受け取ってくれたのかはわからないけど、去年まで静かだった海斗キャプテンも今年は目に見えて熱いです。僕も1番信頼してます。今では怒られることもあります。お前は内緒にしてるけど、送ってくれた熱いメッセージは俺の心に響いてるよ。ありがとう。

そして太樹
1番長い付き合いになったけど、本当に弟のように思ってるしお前が活躍すると俺も心躍る。絶対にこのチームを東海に連れていこうな。お前のその伊豆を愛する気持ちが絶対に大事になるから、信じて突き進め。俺のクロスでお前が点を取ってくれたらこんなに嬉しいことはない。最後までに必ず決めよう。

この伊豆で出会った妻・晴香
サッカーは勿論、良い時も悪い時もみてくれていた
今では家族が増えて娘と愛犬2匹が
僕の事を支えてくれている
毎試合応援してくれるこの家族が大好き
ハル、新華、カン、コテ、いつもありがとう
パパなんやかんや身体弱くて入院したりしてごめんね笑

加入してからずっと応援してくれる
サポーターの田原さん、エナシロさん、でみYZさん
キヨをキッカケに応援してくれているマサマサさん
あげればキリがないけど、本当に愛してます
いつも魂燃やしてくれて本当にありがとう

僕はこれからもこの愛、熱量、ガッツ
どんどんチーム内外に届けて継承していきます
どうか皆さんと受け取ってください

チームもまだまだ可能性しかないです
まだまだまだまだ、ここから。
チームのストーリーを、共に作りましょう

と、長くなりましたがこんなところでしょうか
時には自信満々に強気で書いたりしたので
嫌な気持ちになった方がいたらすみません。

こうして伊豆ガッツマンは生まれました
でもなー。正直まだまだ書き足りないです

なのでまた、どこかで会ったら話ましょ!
気軽に話しかけてください
うちはそういうチームなので大丈夫です!
それに僕は
伊豆で1番うるさい男なのですぐわかります!

まずはありがとうございました

次はチームの精神的支柱
26番河村太郎さんになります

最後に
サッカーはもしかしたら向いてなかったのかもしれないし、他の方に取り組んだ方が成功を掴んでいたかもしれない。けど向き不向きなんかより、1番好きなのはサッカーだ。死ぬまでやめれない。自分が1番好きな事を続けていこーよ。あざした。

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