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本日の書き残し(日記)

 髪や服からお線香のにおいが香ってる。ゆっくりと歩き、4、5キロ離れているおばあちゃんとおばの墓地に行って帰ってきた。
 心をグラフに例えると、X軸に「静と動」、そしてY軸に「生と無」があると思っている。私はガチ文系なので、XとY以外の軸についての話はご勘弁願いたい。というか、XとYですら、危ういのでこの話はこの段落で終える。
 心のY軸が著しく「無」に近づいたとき、おばあちゃんのお墓に行くようにしている。いや、行くようにしているというか、行ってる気がする。

 おばあちゃんのお墓は、京都の有名なお寺の中の共同墓地。にぎやかで、いつ行っても観光客が大勢いる。あ、「大勢」は、ちょっと盛ったかも。8月の中頃の猛暑の日の昼間と、雪吹くいつかの大晦日の日には、さすがに少なかった。

 納骨堂には色とりどりの季節の仏花が手向けられており、私も売店でお花を買って、同じように供える。供えるというよりも、「飾る」。おばあちゃんとおばが向こう側からどう思っているかは知る由もないのだけれど、売店で売っているお花の中でも、一番きれいで明るくて可愛い色合いの花束を選んで買っている。この可愛さが届けばいいな、あわよくば、私のこのひとりよがりな想いも可愛く届けばいいな、と思って、「飾って」いる。30を過ぎた人間がなにを言ってんだと思うけど、おばあちゃんとおばの前では、可愛くて無垢な孫であり姪でいさせてほしいのだ。
 もしかしたら私の心の中には、「亡くなった親族の一番近くに行って心を落ち着けたい」という想いがあるのかもしれない。死んだ人に救われたい、仏さんにみそめられたい、みたいな。けれど、そんなことには一切気づかず、ただ私が来たことに喜んでほしいのだ。したごころのある墓参りだなあと思う、我ながら。極楽浄土には行けないかもしれない。

 (行けないかもしれないから、今のうちにサウナとかいっぱい行っとこ。)

 おばあちゃんとおばには、今回は、「じいさんの手術がうまくいきますように」と祈った。至って元気なのだけれど、10年前に入れたペースメーカーを取り替えるそうだ。これは、じいさんの生への祈りの気持ちももちろんあるが、ごめん、半分ぐらいは母のためのお願いかもしれない。
 数年前、たった数ヶ月間のあいだに、おばあちゃんとおばは立て続けに亡くなった。それが家族として50年以上生きた母とって、どれほどにも辛いことだったのか、いまだに計り知れない。「辛い」という表現で合っているのか。それすらも分からない。生きている人間のほんとのほんとのほんとの心なんて、家族にも恋人にも、あるいは自分自身ですらも、ほんとにほんとにわからない。

 「乗り越えなければいけない試練」だなんて、簡単に真横で、唾を飛ばして言わないで欲しい。残された真面目な人はいつだって、「大丈夫か」と、「これでよかったのか」と、何度も何度も振り返るのだ。それは私も。そして、あなたも。

 4、5キロ歩いて、足の親指や足裏の豆がヒリヒリしてきた。今は公共交通機関を使用して家に戻り、お線香の香る服や髪を感じながら、炊飯器でご飯を炊いている。痛む足裏、赤くなる足先に生を感じる。手の先が冷える。お腹が鳴る。卵焼きを焼いて、むしゃりと食べることにする。

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