見出し画像

『学習する社会』#11 2.知ること2.2 知るための媒体 2.2(2)道具としてのモノ (研究的なシリーズエッセイ) 

2.知ること

2.2 知るための媒体

2.2(2)道具としてのモノ

#7~9において、主体が環境(知ることの客体)について知る際には、自律的・能動的に知る方向性と他律的・受動的に知る方向性あることを提示してきた。#10からは、「知る」というプロセスにおいて主体と環境との間にある媒体に目を転じてきた。

近接項から遠隔項へ、道具から環境へ

佐伯(1990)は道具的アフォーダンスという観点に加えて、次の二つの仮定をおいて行為から知ることを考察する。その仮定は次のの二つである。

  1. 人間の身体も道具であり、人工的な道具は身体の延長であるということ。

  2. 知るということは、常に、始めから、道具で知るのであるということ。

身体であれ、環境に存在する事物であれ、それが道具として使われるとき(その道具的アフォーダンスが引き出されるとき)には、それは知るための媒体となっている。

道具を使って知ることについて、ポラニー(1966)は暗黙知の機能的側面(遠隔項へと注目するために近接項から注目する)によって近接項から遠隔項への知の拡大を説明する。その例としてポラニーは洞窟探検の際の探り杖や盲人の杖を取り上げる。探り杖の使用において、最初は杖から指や手のひらに衝撃を感じる。杖の使用を継続する中で、杖が手に与える衝撃について我々が持つ感覚は、我々がつついている物体が杖と接する点についての感覚へと次第に変化していく。杖から手への衝撃が近接項であり、遠隔項は杖がつついている物体である。意味のある感覚は、その意味をもたらす直接的・近接的な感覚から離れたところに定められる。

道具の使いこなし

我々が身体を使いこなすように、道具を使って知ることは同時に人工的な道具の使いこなし過程でもある。道具の使いこなしには次のような三つの局面がある。

  1. 道具の不透明化:何かをするための道具としてのアフォーダンスを引きだそうとする対象【環境】との相互作用に意識を集中し、対象の道具的アフォーダンスを引き出そうと身構える。

  2. 道具のもてあそび:対象の道具的アフォーダンスを引き出す相互作用を繰り返して、引きだした対象の道具的アフォーダンスになじむ。

  3. 道具の透明化馴染なじんだ対象の道具的アフォーダンスをすでに馴染んでいた自身の延長として自身に内在化させ、自身を外に拡張する。

道具の使いこなしは基本的に上記の1⇒2⇒3の順で進行するが、場合によっては3⇒1という形で透明化していた道具を再び不透明化する過程も存在する。テニスを初めてする場合を考えてみよう。ボールを打ち返す道具としてのアフォーダンスを引きだそうとして、始めに我々はラケットをどのように握るのかというところから試行錯誤を始める。ラケットは道具としてまだ不透明である。

次いで、いろいろと握りを変えることでラケットのグリップを握っている手のひらの感触に意識を集中して、ラケットに馴染んでいく。これが道具のもてあそびの段階である。さらにテニスを続ければ、我々はラケットに馴染み、手が延びて、広がったかのようにボールを打ち返すようになる。そのとき、我々はラケットに当たるボールの感触に意識を集中することが可能となる。透明化することによって、道具は知る主体と知ろうとする対象の境界となっている

道具の不透明化

打ったボールの飛び方に不満があれば、時によってはラケットの面の角度を変えるために再び握りに意識を集中する。その時、ラケットは道具として再び不透明化されている。その後、もてあそびの段階を経て、再び透明化される。テニスラケットで打つことによって、テニスボールの飛び方を知る。身体という道具でラケットを知り、ラケットという道具でテニスボールを知る。道具を使って世界を知るとき、我々はすでに知っている存在を道具として使い、その道具を境界化してその向こう側にある世界を体験的に知る。

道具を境界化して環境にある事物について知るとき、使用している道具(近接項)と知る対象(遠隔項)は包括的な存在となっている。道具を用いて環境について知るとき、知ることが一方的に遠隔項へと遠ざかるものではなく、我々が遠隔項へと遠ざけているのでもない。道具を不透明化することによって、我々は包括的存在の諸細目を吟味することができる。ただしそのとき、諸細目の意味である全体相は消失して、包括的存在という観念はなくなる。我々が縄跳びをしているときに、縄の回し方に注意を集中すると、跳ぶこととのバランスが崩れ、縄跳びという全体相が見失われる。顔の識別において、目とか鼻とかの部分に注目すると、顔という全体相は見えなくなる。

包括的存在の再統合

諸細目の吟味で破壊された包括的存在は、再び諸細目を内面化して、全体相へ潜入することで回復できる。縄の回し方を吟味して、一時的に縄跳びの全体としての飛び方が崩れたとしても、再び縄を回すことと跳ぶということを内面化した縄跳びという全体相をとらえることで回復できる。目に集中することで見えなくなった顔も、顔という全体相の中に再び潜入すれば顔が見えてくる。この回復の過程では元の意味である破壊前の全体相がそのまま取り戻される訳ではない。

縄の回し方を吟味して、再び縄跳びという全体相を再構成することで、よりうまく縄跳びができるようになる。目に集中し、目尻にしわを発見すれば、顔が急に老けて見えるようになるかもしれない。諸細目への注目による包括的存在の破壊と、諸細目の内面化による包括的存在の再構成が、我々の知っていることの変化をもたらす

道具の多様性

環境を知る媒体【道具】は手や足などを使って直接操作するものに限定されるわけではない。我々は自動車を目で見、耳で聞く状況だけに応じて運転するのではなく、タイヤ⇒車体⇒シート⇒体と伝わる振動によって路面についても知りながら運転している。雪道を運転する際には、安全を確認しながら軽くブレーキを踏むことで、滑り方を確認して運転することもある。

新たに稼働する化学プラントの試運転において、技術者は制御室の様々なパネルに映し出される数値や光景、操作するスイッチ類などを確認する。このときには制御室は知る対象である。しかし、本稼働までに技術者は制御室を透明化し、本稼働では制御された化学反応が進行していることを知ることができる。道具的アフォーダンスが引き出せる人工物であれば、それが手に持てるものであれ、自動車や制御室のような大きさの装置であれ、いずれのモノも道具として使いこなし、その外側の環境についてしる【道具】となる

今回の文献リスト(掲出順)

  1. 佐伯胖/佐々木正人編 (1990)『アクティブ・マインド-人間は動きの中で考える-』東京大学出版会。

  2. Polanyi, Michael (1966) The Tacid Dimension, Routledge & Kegan Paul. (佐藤敬三訳 (1980) 『暗黙知の次元:言語から非言語へ』紀伊國屋書店)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?